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■2010/01/06 (Wed)
映画:外国映画■
1750年頃。南米パラグアイの国境地帯。
当時そこは、スペインの統治下であり、キリスト教の宣教師が何人も派遣されていた。
だが滝の向うはガラニ族の領域であり、宣教師を拒み、多くの殉教者を出していた。
ガブリエル神父は、一人きりで滝の向うへ行き、ガラニ族と接触。音楽の演奏でガラニ族の心を惹きつけ、布教を成功させる。
突然やって来た闖入者に、ガラニ族は武装して取り囲む。ガブリエル神父は、音楽で警戒心を解きほぐす。こういった描写は、どこまで史実に基づくのだろう?
メンドーザは冷酷な奴隷商人だった。先住民の奴隷取引で生計を立てていた。
ある日、メンドーザは女性を巡る争いで弟を殺してしまう。ガブリエル神父はメンドーザに無意味な重荷を背負わせ、牢屋から連れ出す。そのままガブリエル神父は、メンドーザがかつて人狩りを行っていたガラニ族の元まで連れて行く。
ガラニ族はメンドーザを重荷を解放し、罪を許して受け入れた。メンドーザはこの試練を経てキリスト教に改心し、神父となる。
ガラニ族の住処に行くには険しい滝を潜らねばならない。特撮などは使っていない。俳優はスタントだと思うが、重い機材を背負ってこんな場所を行き来し撮影していたかと思うとゾッとする。
神父となったメンドーザは、ガラニ族の人々に尽くし、村に教会を建設する。
しかし思わぬ運命が、メンドーザを戦いに引き戻す。
自然の光景が美しい映画だ。
まだ誰も手を加えていない自然が目の前に迫り、登場人物たちに試練を与える。
自然の光景はただ美しい場所ではなく、険しく冷酷な場所だ。先住民たちにとって神聖な場所であり、宣教師たちにとっては試練の場所だ。
俗界とガラニ族とを区切る険しい滝は、彼らを守る障壁であると同時に俗世界と神秘の世界を隔てる境界線である。
文明は神秘の感性を喪い、一方的で理不尽な侵略を企てる。立ち入りを禁じた神が祭られた場所は汚れた足で踏み汚され、神秘の力を与えられた司祭は解釈を押し付けることでその魔力を取り去ろうとする。さかしらな文明は異文化における神聖さや宗教的厳粛さを決して認めない。精神の不在こそ文明が喪ったものである。
脇役だがまだ若いリーアム・ニーソンが出演している。まだ教えを乞う側だった。後の“指導者”のイメージを考えると、少し新鮮だ。
映画のカメラは誰も見たことのない険しく厳しい自然を優れた感性で写し撮っていく。
色彩の感覚が素晴らしい。画面のほとんどがイエローやグリーンに統一され、余計な色彩は排除している。この色彩が、場面によっては冷たさを、あるいはぬくもりを与えている。
整理された色彩が自然の美しさを際立たせ、まるでターナーの絵画を鑑賞しているかのような印象を与える。
文明世界には言葉溢れる。枢機卿が開拓した町を視察する場面。男が先住民の子供を捕まえ「人間ではない。言葉を話す動物だ!」と言う。白人の差別意識がよくわかる場面だ。
大作ドラマだが台詞の数は比較的少ない。登場人物はその場所に佇み、行動を引き起こすがその前後となる解説はほとんどない。言葉以上に行動で物語を伝え、風景で見る者の心を掴む映画だ。
先住民達の言葉にも余計な解説はつけていない。表情ややりとりで状況を伝えようとしている。
ときどき挿入されるナレーションは、物語の変化を解説するだけで、それ以上に登場人物を代弁しようとはしない。
宗教の2面性を描いた映画だ。権威や地位ある人にとって、信仰は争いの具でしかない。映画では語られないテーマだが、いずれにしても白人の宗教はガラニ族を侵略している。じっくり時間をかけて精神部分に働きかける侵略か、それとももっと攻撃的で速やかな侵略か――。
物語の前半は冷酷な男の物語だ。奴隷商人が殺人の罪を悔い、人生を改める。
自然の風景は男の精神を浄化するものとして描いている。
だが、後半は様相を変える。
教会の教義がぶつかり合いや、教区の分配による闘争の物語になる。自然は征服の対象であり、あるいは守るべきものの対象となり、結果として戦いの舞台となる。
罪を犯したものに許しを与え、精神を消化する宗教。一方で、宗教は政治闘争の具でしかない。映画は宗教の――キリスト教の2つの側面を冷徹な目で写し取り、対比していく。
西洋宗教の光と陰。雄大な自然の風景は、そんなすべてを飲み込み、浄化していく。
映画記事一覧
作品データ
監督:ローランド・ジョフィ
音楽:エンニオ・モリコーネ 脚本:ロバート・ボルト
出演:ロバート・デ・ニーロ ジェレミー・アイアンズ
〇 レイ・マカナリー エイダン・クイン
〇 シェリー・ルンギ リーアム・ニーソン
カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
アカデミー撮影賞受賞
ゴールデングローブ賞脚本賞受賞
当時そこは、スペインの統治下であり、キリスト教の宣教師が何人も派遣されていた。
だが滝の向うはガラニ族の領域であり、宣教師を拒み、多くの殉教者を出していた。
ガブリエル神父は、一人きりで滝の向うへ行き、ガラニ族と接触。音楽の演奏でガラニ族の心を惹きつけ、布教を成功させる。
突然やって来た闖入者に、ガラニ族は武装して取り囲む。ガブリエル神父は、音楽で警戒心を解きほぐす。こういった描写は、どこまで史実に基づくのだろう?
メンドーザは冷酷な奴隷商人だった。先住民の奴隷取引で生計を立てていた。
ある日、メンドーザは女性を巡る争いで弟を殺してしまう。ガブリエル神父はメンドーザに無意味な重荷を背負わせ、牢屋から連れ出す。そのままガブリエル神父は、メンドーザがかつて人狩りを行っていたガラニ族の元まで連れて行く。
ガラニ族はメンドーザを重荷を解放し、罪を許して受け入れた。メンドーザはこの試練を経てキリスト教に改心し、神父となる。
ガラニ族の住処に行くには険しい滝を潜らねばならない。特撮などは使っていない。俳優はスタントだと思うが、重い機材を背負ってこんな場所を行き来し撮影していたかと思うとゾッとする。
神父となったメンドーザは、ガラニ族の人々に尽くし、村に教会を建設する。
しかし思わぬ運命が、メンドーザを戦いに引き戻す。
自然の光景が美しい映画だ。
まだ誰も手を加えていない自然が目の前に迫り、登場人物たちに試練を与える。
自然の光景はただ美しい場所ではなく、険しく冷酷な場所だ。先住民たちにとって神聖な場所であり、宣教師たちにとっては試練の場所だ。
俗界とガラニ族とを区切る険しい滝は、彼らを守る障壁であると同時に俗世界と神秘の世界を隔てる境界線である。
文明は神秘の感性を喪い、一方的で理不尽な侵略を企てる。立ち入りを禁じた神が祭られた場所は汚れた足で踏み汚され、神秘の力を与えられた司祭は解釈を押し付けることでその魔力を取り去ろうとする。さかしらな文明は異文化における神聖さや宗教的厳粛さを決して認めない。精神の不在こそ文明が喪ったものである。
脇役だがまだ若いリーアム・ニーソンが出演している。まだ教えを乞う側だった。後の“指導者”のイメージを考えると、少し新鮮だ。
映画のカメラは誰も見たことのない険しく厳しい自然を優れた感性で写し撮っていく。
色彩の感覚が素晴らしい。画面のほとんどがイエローやグリーンに統一され、余計な色彩は排除している。この色彩が、場面によっては冷たさを、あるいはぬくもりを与えている。
整理された色彩が自然の美しさを際立たせ、まるでターナーの絵画を鑑賞しているかのような印象を与える。
文明世界には言葉溢れる。枢機卿が開拓した町を視察する場面。男が先住民の子供を捕まえ「人間ではない。言葉を話す動物だ!」と言う。白人の差別意識がよくわかる場面だ。
大作ドラマだが台詞の数は比較的少ない。登場人物はその場所に佇み、行動を引き起こすがその前後となる解説はほとんどない。言葉以上に行動で物語を伝え、風景で見る者の心を掴む映画だ。
先住民達の言葉にも余計な解説はつけていない。表情ややりとりで状況を伝えようとしている。
ときどき挿入されるナレーションは、物語の変化を解説するだけで、それ以上に登場人物を代弁しようとはしない。
宗教の2面性を描いた映画だ。権威や地位ある人にとって、信仰は争いの具でしかない。映画では語られないテーマだが、いずれにしても白人の宗教はガラニ族を侵略している。じっくり時間をかけて精神部分に働きかける侵略か、それとももっと攻撃的で速やかな侵略か――。
物語の前半は冷酷な男の物語だ。奴隷商人が殺人の罪を悔い、人生を改める。
自然の風景は男の精神を浄化するものとして描いている。
だが、後半は様相を変える。
教会の教義がぶつかり合いや、教区の分配による闘争の物語になる。自然は征服の対象であり、あるいは守るべきものの対象となり、結果として戦いの舞台となる。
罪を犯したものに許しを与え、精神を消化する宗教。一方で、宗教は政治闘争の具でしかない。映画は宗教の――キリスト教の2つの側面を冷徹な目で写し取り、対比していく。
西洋宗教の光と陰。雄大な自然の風景は、そんなすべてを飲み込み、浄化していく。
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作品データ
監督:ローランド・ジョフィ
音楽:エンニオ・モリコーネ 脚本:ロバート・ボルト
出演:ロバート・デ・ニーロ ジェレミー・アイアンズ
〇 レイ・マカナリー エイダン・クイン
〇 シェリー・ルンギ リーアム・ニーソン
カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
アカデミー撮影賞受賞
ゴールデングローブ賞脚本賞受賞
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