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■2009/09/17 (Thu)
dc19c3c5.jpgエヴァン少年は両親がいない。物心ついた時から、施設で暮らしている。
それでもエヴァンは、「いつか両親が迎えに来てくれる」と信じていた。
d2ca4a16.jpgef8dbde7.jpg物語は軽いリズムのようにさらさらと流れていく。ありきたりな設定で憂鬱になる場面はない。安心して休日に見れる映画だ。

b09775d7.jpgエヴァンには、不思議な才能があった。
身の回りの、あらゆる音がメロディに聞こえる。エヴァンは音楽教育を受けていないが、メロディを紡ぎだす本能的才能を持っていた。
ある夜、エヴァンはその“音”に導かれて、施設を脱走する。
1c2edd8c.jpg5b47dd13.jpg音の作り方は独特。左の場面では、ギターの絃を叩いてメロディを作り出す。視覚的には面白いが、実際映画のような音が出るかは疑問。

52a7d7cc.jpgそのままエヴァンは、ニューヨークの界隈へ。
そこで家出少年たちを集めて働かせている“ウィザード”と名乗る男と出会う。
ウィザードは、すぐにエヴァンの才能に気付き、「金になる」と売り込もうとする。
一方のエヴァンは「たくさんの人が僕の音楽を聞いてくれたら、両親が見つけてくれるかもしれない」と考え、音楽を学ぼうとする。
49aec9ef.jpg久々に見たような気がするロビン・ウィリアムズ。映画出演作は多いのだが、なぜか日本公開が減少した。ちなみに物語の構造は『オリバー・ツイスト』によく似ている。原案辺りでは意識されたのだろう。

音楽に満ち溢れた映画だ。
何気ない騒音や、音の断片が、メロディを紡ぎだす。
あるときは陽気なパーカッションであり、あるときは心掻き乱すノイズ。
音楽のリズムは自在に変化し、エヴァンの心理を雄弁に解説する。
d1bfcbe3.jpg物語は脱線も淀みもなく、ご都合主義映画の如くラストまで進んでしまう。
親を探すエヴァン。同時に、親たちもエヴァンを捜し始める。ルイスはかつての恋人、ライラを探そうと思いつくが、その方法がなんとインターネット。しかも写真付で住所が記載されている。ご都合主義もここまで来ると、呆れ果ててしまう。

しかし互いに接点はなく、当てもなくさ迷う。
ヒントになるのは音楽だけ。音楽だけがばらばらになった人達を繋げる。
誰もが音楽に心惹かれ、導かれていく。
音楽の一つ一つは、まとまりのない断片だ。リズムを合わせなければ、ただの雑音だ。誰かが、音の断片をまとめなければならない。
エヴァンは、あちこちに散っている音の断片を集め、ハーモニーを紡ぎだす。様々な人を結びつけるように。
f5cba7ab.jpgf6c30ad9.jpg
不幸によって、11年間、音楽は停止していた。
エヴァンが楽器を手に取ることで音楽は再び息を吹き返した。
エヴァンが音を縒り合わせることで、離れ離れになった人々が結びつく。
まさに“奇跡のシンフォニー”だ。

映画記事一覧

作品データ
監督 カーステン・シェリダン 音楽 マーク・マンシーナ
脚本 ニック・キャッスル ジェームズ・V・ハート
出演 フレディ・ハイモア ケリー・ラッセル
〇〇〇ジョナサン・リス=マイヤーズ テレンス・ハワード
〇〇〇ロビン・ウィリアムズ ジャマイア・シモーヌ・ナッシュ



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■2009/09/15 (Tue)
8d94f45b.jpg974d5d2f.jpgカフェのカウンターに、一組の男と女がいた。
最初は男も女も静かに食事をしようとしていた。
だが突然に、女がカフェの客に襲い掛かった。女は品のない言葉で罵り、殴り、店を破壊し、人を殺す。静かなカフェは、瞬く間に悲鳴と血が飛び交う狂気の場と化した。
そして、最後に生き残った一人に、こういい残す。
「ミッキーとマロリーがやったと言うんだよ」
8105dca0.jpgb79a07b4.jpg犯行現場にわざわざ生存者を残す理由は?有名になりたかったのか。注目されたかったのか。いや、自身の作品を語り継ぐ誰かを残すためだろう。彼らにとって破壊行為は作品。だが存在の証としてそのうちの一人を残す。
c0004cd2.jpgミッキーとマロリーの二人は、まるで遊戯のように銃弾を放ち、人を殺す。
すぐにでも警察とマスコミが、ミッキーとマロリーの後を追跡した。
人々は、二人の放蕩と殺戮を支持し、瞬く間に時代の寵児として祭り上げられる。
1ae81ea8.jpg「私を殺して!」
「彼らなら許せるよ」
ミッキーとマロリーへの犯罪は、堅牢に構築された社会を、ほんの一瞬でも木っ端微塵に破壊する幻想を与える。
ひょっとしたら世の中を変えてくれるかもしれない、という期待と希望を与えてくれた。
fef735f2.jpga7bc34b2.jpg映画の全体はサイケデリックなイメージで描かれる。ミッキーとマロリーの逸脱した精神世界を表現する。ただしモンタージュの一つ一つは通俗の極み。

ミッキーとマロリーの旅は、決して逃避行のためではなく、渾沌を作り出すために駆け出していく。
ミッキーとマロリーは、標的が恐怖に怯え、火薬の音が弾け、血が噴き出す瞬間に、恍惚めいたものを見出していた。
人が生涯の職業を見出したときに感じるような、ある種の心地よさの発見だ。
ミッキーとマロリーは、人を殺すたびに、むしろ自身の精神を解放させていく。
彼らの行く先には、悲劇ではなく、血に塗られた絨毯が敷かれている。
e95a81c3.jpg5b76b9ef.jpg二人の背後には過去と宿命が追い詰めてくる。二人の現実に対する異様なシニシズムは、何もかも過去を喚起させるからだ。過去から解放されるためには、あらゆるものを殺さねばならない。

2090789f.jpgミッキーとマロリーの背景には、常に過去がつきまとわりついてくる。
暴力的な家庭に生まれたミッキー。
父親から性的虐待を受けていたマロリー。
社会とは、集団幻想の中にぼんやり現れた蜃気楼のようなものに過ぎない。
2c254fd4.jpgそもそも規範的とはいいがたい社会に生まれついた人間が自由と解放を獲得するには、反社会的行動を実践せねばならない。
だからミッキーとマロリーは、自由のために、両親を殺害した。
自由のために、自由をなくしてしまうような犯罪者にならねばならなかった。
b01ea9ff.jpg犯罪映画の多くは、犯罪者の逮捕か死で終る。つまり、規範的社会の勝利と通俗的結末による“安心”を与えることで終る。だが『ナチュラル・ボーン・キラー』の狂気はそこから一歩踏み出す。ちなみにオリジナル脚本はクエンティ・タランティーノだった。なるほどタランティーノらしいテーマだ。タランティーノ監督で見たかった。きっと社会がどうこうは関係なく、何かが突き抜けた明るい作品になっていただろう。
77a9ca4c.jpgミッキーとマロリーの周囲には、常に狂気じみたモンタージュが被せられる。
アニメの動画であり、狂った色彩であり、通俗的はホームドラマであり。
映画は様々な手法を駆使して、ミッキーとマロリーの心理に迫り、見597ab110.jpgる者をその内部へと引き込んでいく。
ミッキーとマロリーの殺戮の旅は、やがて啓蒙的な色彩を帯び始める。
ミッキーとマロリーの殺人は、純粋的動機に基づく。
ストレスを解放する破壊の中から、ただ殺人のみを引き出して、その現象を我々の前に突きつける。
規範的社会は、異端を前にするとヒステリックな反応を示し、蜃気楼をかぶせてジャングルの中の狂気を覆い隠そうとする。自分たちが死肉を喰らっている事実を、忘れようとする。
だがミッキーとマロリーは、そんな我々の前に、死を突きつけ、社会に提示しようとする。
ミッキーとマロリーの狂気の旅は、二人を決して追い詰めず、むしろ自由を与える。

映画記事一覧

作品データ
監督:オリヴァー・ストーン 音楽:トレント・レズナー
脚本:デヴィッド・ヴェロズ リチャード・ルトウスキー
〇〇〇クエンティ・タランティーノ
出演:ウディ・ハレルソン ジュリエット・ルイス
〇〇〇ロバート・ダウニー・Jr トミー・リー・ジョーンズ
〇〇〇トム・サイズモア ロドニー・デンジャーフィールド
〇〇〇エド・マックラーグ デイル・ダイ
〇〇〇マーク・ハーモン アシュレイ・ジャッド



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■2009/09/14 (Mon)
8f401ff3.jpg幼少期のアンディ・カウフマンはいつも一人で遊びような子供だった。テレビに夢中の子供で、壁に向かってテレビごっこを興じていた。
観客は誰もいない。アンディ一人きりのステージ。アンディが楽しいと思えば、アb4a5fab9.jpgンディの耳には幻の拍手が聞こえてきた。
しかし現実には、誰ひとりアンディに手を叩く者はいなかった。

十数年後。大人になったアンディは売れないコメディアンとしてステージに立っていた。
bb772b7f.jpgアンディ一人きりのステージだった。観客はアンディを見ていないか、退屈で欠伸をするだけ。それでもアンディは、アンディ自身が楽しいと思えればそれでよかった。
そんなアンディに、支配人が助言する。
b058c151.jpg「これは商売だ。ショービジネスだ。ショーが下で、ビジネスが上。ビジネスあってのショーさ。君は失格だ。観客を沸かせてみろ」
翌日アンディは、ステージ上でエルヴィス・プレスリーの物まねを演じる。それがノリにノッて観客は大喝采。それをたまたま見ていたテレビ・プロデューサーのジョージ・シャピロが注目。アンディはテレビに出演するチャンスを得た。
f9894b4c.jpg16989563.jpgアンディは「自分が面白いものは絶対」ということに、疑いをもてないタイプだ。これに同調者がいると、よりその性格が強化される。だから、怒る人がいると予想できなかった。
『マン・オン・ザ・ムーン』は伝説的なコメディアンであり、35歳でこの世を去ったアンディ・カウフマンを描いた作品だ。
アンディ・カウフマンが演出するテレビは常に問題を孕んでいた。テレビを故障したように見せかけたり、内部にまったく知らせず不意打ちのヤラセを起こしたり、アンディ・カウフマンの演出を越えた逸脱行動は、テレビ内外でも多くの問題を引き起こしていった。
アンディ・カウフマンの笑いは、多くの人にって「迷惑」と受け取られたのだ。しかし、なぜ?
アンディ・カウフマンの演出は、しばしば虚構世界を飛びぬけ、現実世界を侵食しようとした。従来のステージの中という文脈から、観客席に踏み込み、見ている人をステージのひとつとして取り込もうとした。
だがそれは、多くの人にとって動揺をもたらすことになる。ステージ上のできごとは虚構であり、見ている我々の側には決して危害を加えない。アンディ・カウフマンはその約束事をやすやすと飛び越え、観客を巻き込み、観客の動揺を誘い、いつの間にか世論そのものを巻き込もうとした。
df0f56e1.jpge84a9524.jpgアンディは観客がどう思うと自分の考えを押し通してしまう。「客を楽しませたいのか、自分が楽しみたいだけか」と問われる。潔癖症の芸術家にありがちな性格だ。
それでもアンディ・カウフマンにとって、その状況自体が虚構に過ぎなかった。所詮、芝居である。ヤラセに過ぎない。遊びのつもりだった。
だが、社会そのものを巻き込もうとするアンディ・カウフマンに対する世間の動揺と、それに基づく拒絶感は大きかった。
新しい表現や、新しい種類の遊び、新しい笑いというものは常に世間に対する激しい反発が起きる。それは戸惑いや動揺に端を発するものだ。先鋭的なものとは、従来的な文脈を踏み越え、暗黙の了解と考えられていた文法を破壊し、新たなものを創造する力である。
一般的な開拓者が新天地を発見することであれば、表現者による開拓者とは、深層心理内に新たな可能性を見出す者である。しかしそこで発見されたものは、フロイトの深層心理を突きつけられたように、激しい動揺と拒絶を誘うだけである。
だからアンディが演出する“笑い”も、やはり受け入れられなかった。
7ecb5e55.jpgeab0fd21.jpg次第にアンディ自身が虚構に取り込まれていく。何を言っても、客は「どうせ虚構だろう」と思い込み、勝手に笑いを見出してしまう。その結果、アンディは客との間に溝を作り孤独になってしまう
ところでアンディ・カウフマンが演出したステージは、果たして“笑い”だったのだろうか。アンディ・カウフマンは人々を巻き込み、文脈を破壊して人々が本当に動揺したところに本物の笑いがあると信じて疑わなかった。だが、アンディの演出は果たして本当に“笑い”に繋がるものだったのだろうか。
7a072a82.jpg思うに、アンディの目論みはある種の劇場的空間を現実世界に現出させることだったのではないか。一つのステージでは終らない、ステージを飛び越えて日常そのもの、すべてを劇場空間として飲み込む。
だからアンディの演出してみせた状況とは、ある種の表現者としての“空間”ではなかったのだろうか。それが虚構とわかる人には、おかしな状況としての“笑い”が起きる、そういう仕掛けだったのだろう。
5d2993ee.jpgアンディは表現者であるから、“騙し”が拒絶された。実際には政治家にデマゴーグはたくさんいるが、彼らが国民を騙しても拒絶されない。アンディは所詮すべておかしな虚構に過ぎないと看破し、笑う。


だがアンディ・カウフマンの笑いは受け入れられなかった。とことん受け入れられなかった。しかし一方で受け入れるしかなかった。何せアンディにとって、現実世界のすべてが演出された劇場的空間だったからだ。すでに現実が、アンディの演出する虚構で満たされている以上、受け入れるしかない。
やがて、誰もアンディ・カウフマンを信じなくなった。アンディ・カウフマンがどんなに振る舞っても、ウソに過ぎない。自分たちを笑わそうとしているだけだ。
アンディ・カウフマンはいつの間にか、自分が作り出した演出空間に、自分自身が飲み込まれてしまったのだ。
そしてアンディ・カウフマンは、映画の最後でもう一つ大きな演出空間に飲み込まれてしまう。
現実世界のあらゆるできごとは、所詮は虚構に過ぎない――自分の作った舞台など、その小さな一端に過ぎない。それを悟って、アンディ・カウフマンはこの世を去る。

映画記事一覧

作品データ
監督:ミロス・フォアマン 音楽:R.E.M.
撮影:アナスタス・N・ミコス
脚本:スコット・アレクサンダー ラリー・カラゼウスキー
出演:ジム・キャリー ダニー・デヴィート
〇〇〇コートニー・ラヴ ポール・ジアマッティ
〇〇〇ヴィンセント・スキャヴェリ ピーター・ボナーズ
〇〇〇ジェリー・ベッカー レスリー・ライルズ
〇〇〇マリル・ヘナー レイコ・エイルスワース
〇〇〇マイケル・ケリー リチャード・ベルザー



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■2009/09/14 (Mon)
d7823d55.jpgフロリダの海岸に、ザナドゥと呼ばれた巨大な宮殿があった。
チャールス・F・ケーンが一人で建設し、一人で過ごした宮殿だ。世界中のあらゆる贅沢を注ぎ込んだ、世界最大の個人邸宅だった。
1941年。
ザナドゥの主であるケーンが死去する。
死に際に、“バラの蕾”という謎の言葉を遺して。

ecade7d0.jpg世界最大の富豪ケーンの死亡は、世界のニュースになった。
映画会社は、すぐにケーンの生涯をまとめたニュース映画を製作する。
すでに映画のほとんどは完成していたが、なにかが物足りない。
あの“バラの蕾”の意味はなんだったのか?
新聞社のトムソンは“バラの蕾”の意味を探るために、ケーンに接した様々な人物を訪問する。

97cd61ae.jpgケーンが巨大な財産を手に入れた切っ掛け。それは幼少期にあった。
ケーンは、小さな宿屋を経営する夫婦の子供だった。
平凡な宿屋だったが、あるとき、老人が宿賃の代わりに鉱山の借用書で支払いをする。
突然に、鉱山の主になったのだ。
母親はケーンの教育と財産管理のために、サッチャーに預ける決心をする。

cb7690aa.jpg年は過ぎて、ケーンは25歳になった。
母親の財産はケーンに移され、ケーンは世界で6番目の資産家となった。
しかしケーンが興味を持ったのは、新聞社の経営だった。
さっそくケーンは新聞社を買収し、経営に乗り出す。
芳醇な資金を使い、優秀な記者を次々と集めて、刺激的な記事をいくつも書きたてた。
ケーンのインクワイア紙は瞬く間に市内最大の出版部数を誇る新聞となる。

若者時代のケーンは、すべてに成功していた。
仕事を成功させ、多くの友人の信頼を得て、良き妻を手に入れた。
望みのものを何でも手に入れられる男。
財産を持ち、何でも手に入れられる男。
だがケーンの成功は、間もなく崩壊していく。

46aea009.jpgケーンは旅行先で大統領の姪エミリー・ノートンと知り合い、結婚する。だが蜜月は長く続かず、夫婦の感情はすぐに冷めてしまう。
ケーンの人間性の欠如も、この頃からはっきりと現れてくる。
ケーンは、ただ愛されることだけを望んだ。
尊敬されることを。喝采が自分に向けられることを。
「愛してやるから、奉仕しろ、という態度なんだ」
ケーンの友人はそう指摘する。
反省するチャンスは何度もあった。しかしケーンは、自身を決して見詰め直さなかった。
「俺はケーンだぞ!」
俺は正しいんだ。俺は財産を持った男なんだ。
だから俺を愛しろ! 俺を尊敬しろ!
f8c41a7f.jpgケーンは、なんでもお金で買えると思った。贈り物をすれば、微笑んでくれると信じていた。
「愛してるさ」
「嘘よ。愛させたいだけだわ」
ケーンは、愛を失っていく。ケーンが人々に与えようとしていたのは、望まれない贈り物だった。
間もなく、誰もケーンを信頼しなくなった。
ケーンは愛を求めた結果、すべてを失った。お金以外は。
8854f7b5.jpg白、黒、白……単純だが、コントラストを配列をうまく並べて画像を作っている。平凡な日常のカットも、素晴らしく美しい画像を作り出している。
クローズアップに頼らず、カットを一つ一つしっかり練りこまれて描いている。
ちなみにタイトルとなっている『市民』は『庶民』と意味は異なる。『ブルジョア』を意味する日本語訳だ。「中流家庭」が大半を占める日本では、ややわかりにくいタイトルだ。(日本人が「市民」と「庶民」を混同するのは、全共闘時代の革命家気取りの若者が、「市民よ、立て!」と呼びかけたことが切っ掛けだとか?)

『市民ケーン』の映画技法は、極めて先鋭的である。
カットの運びは巧みで、物語の状況に合わせて、自在に緩急をつける。
俳優のクローズアップに頼る撮影法を廃し、カットをひとつの絵画としてカメラに収めようとする。
『市民ケーン』は俳優ではなく「情景」で、観客の心を惹きつけた映画だ。
「情景」で見る者の心を掴み、編集が心地よいリズムを持って引き込んでいく。
ac9b37e3.jpg技法へのこだわりは、当時の基準であまりにも複雑だった。素早いカットの流れや、移り変わるフォーカス。当時の人々にとって、CGだらけの映画を見るような印象だったらしい。だが今、この映画を見ても、技法を技法と感じなくなってしまった。この映画で使われた技法は、もはや『文法』である。時代と人間の感覚の変わり方を考えさせられてしまう。



d528f6bc.jpg市民ケーン』の本質は、技法の素晴らしさ以上に物語の普遍性にある。
愛を得ようとして、何もかもを失っていく男。
そんな男の、傲慢さと正直と、あまりにも深い孤独と。
ケーンは映画の中では誰もが知る人物だが、その深い孤独は誰にも理解されなかった。
その孤独を“バラの蕾”という謎めいた言葉に託し、ミステリとして興味をひきつけようとする。
『市民ケーン』の演出は一部の隙もないくらい完璧で、“バラの蕾”の一言は映画の最後まで、我々を強くひきつけていく。
『市民ケーン』は現代エンターティメントが持つ、すべての必要条件を満たした映画なのだ。
e9979189.jpg信じられない話だが、『市民ケーン』は当時、興行的に惨敗だった。改めて調べてみると、興行成績が制作費を下回っていた。大赤字映画である。当時の観客は、あまりにも技法にこだわりすぎたこの映画を受け入れられなかったのだ。
同時に、監督脚本を担当したオーソン・ウェルズは次回作を作るチャンスを永遠に失ってしまった。早すぎた天才、早すぎた作品、早すぎた技術。しかし、誰かが踏み出さねば映画文法の発展はなかっただろう。


『市民ケーン』は制作から60年以上が過ぎているが、現在においても誰もが認める名作だ。
どれだけ時間が過ぎようとも、何度も繰り返しタイトルが挙げられる作品。
今後も、『市民ケーン』は称賛され続けるだろう。
『市民ケーン』が描いたドラマや映像の素晴らしさは、決して色褪せることはない。不変の名作である。

映画記事一覧

作品データ
監督・主演・脚本:オーソン・ウェルズ
音楽:バーナード・ハーマン 脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ
撮影:グレッグ・トーランド 編集:ロバート・ワイズ
出演:ジョセフ・コットン ドロシー・カミング
〇〇〇エヴェレット・スローン アグネス・ムーアヘッド



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■2009/09/12 (Sat)
ゴールデンゲート・ブリッジは歴史が深く、美しい場所だ。
深い霧が出ると、橋全体が雲の中に浮かんでいるように見えて神秘的だ。
しかしこの橋には、もう一つの顔があった。
この橋で1250人が自殺しているのだ。
37b9fda1.jpgこのドキュメンタリーは、自殺者の周辺にいる人達の証言で語られていく。家族や友人、恋人、職場の同僚といった人たちだ。自殺者がその直前までどんな心理だったか、どんな状態だったのか。当事者のほとんどが飛び降りてしまっているので、周囲の人達から客観的に語られていく。

映画は淡々と、死の瞬間を捉えていく。
その風景は、遠くから見るとひどく穏やかなものに見えてしまう。
写真を撮る観光客や、水上にはヨットで興じる人達がいる。
自殺の瞬間はまるで、日常の一コマのようですらある。
b9423863.jpgもし当事者自身がいてもうまく解説できないのが自殺の衝動だ。欝状態から脱すると、どうして自分が欝状態だったのか、かつての自分がまるで他人のようにすら感じてしまう。だから自殺する瞬間の心理は謎が多く、憶測で語られてしまう。結局は通俗的なお説教に回答を求めてしまう。

この映画に犯人はいない。彼らがなぜ自殺したのか?
実際の当事者は、ほとんどはこの世にいない。当事者は秘密を抱えたまま、橋から飛び降りてしまう。
彼らがどんな想いだったのか、それを知るチャンスははじめからない。
ただ残された人の言葉だけが重ねられていく。
“彼はこんな気持ちだったんじゃないか”と。
あるいは“あのときに別の判断をしていれば”と。
3304c4dd.jpgこのドキュメンタリーがセンセーショナルな話題を得たのは、自殺を語ったことだけではない。「飛び降りる瞬間」を映像で捉えたからだ。カメラは、まるで待っていたかのように、探していたかのように、今まさに飛び降りようとする人の姿を捉える。助けにも行かない。なぜカメラマンは、あの瞬間に助けに行かなかったのか。ドキュメンタリーの制作のためか。「他人の死を見過ごした」だから問題になったのだ。
反社会的な行動をする人の心理は、平常な人間には理解できない。
殺人と自殺。
平常な人は、動揺するか怒るくらいしかできない。
彼らがなぜあそこで身を投げたのか。なぜあの時間、あの場所で身を投げなければならないと思ったのか。
遺族に同情できる人はいても、当事者の心理を理解できる人はいない。


前提できない事件に直面すると、人は激しく動揺する。
だから理解しやすい答を求める。
簡単な理由や、有名タレントのお説教、聖書のお告げ、あるいはわかりやすい悪者を作り出す。
どれも子供向け映画に出てくるファクターだ。だから安心できる。深く考えなくていいし、「答えが与えられた」という幻想を得られるからだ。
しかし現実の事件は、いくら謎解きしても犯人は出てこない。死んだ当事者自身が犯人であるから、謎解きをするチャンスすら失ってしまっている。
ただ、無常な気持ちを残すだけだ。


de315e86.jpg同士の結びつきは決して深くはならない。ある種の幻想を、互いの心理の中に勝手に抱くだけだ。
側にいる人が「明日、自殺しよう」と考えているなんて、なかなか想像できない。予兆を感じていたとしても止められないだろう。
ブリッジから飛び降りる自殺は、ほとんどは白昼だ。
側には通行人も、カメラで撮っている観光客もいる。
b8e1cedd.jpgしかし誰ひとり、声をかける者も、飛び降りる瞬間に気付く者もいない。
目に映っていても意識されない。目の前で起きた現実すら直面できないのだ。


49f3c1f8.jpg自分自身が許せない人間と、世界が許せない人間がいる。
生き続ける日々に、意味を見出せない人がいる。
毎日が我慢大会にしか感じられず、その我慢大会に終わりを見出せない。
生き続けていくのはただ苦痛だ。幻想を抱いて勘違8f6f993e.jpgいし続けるほどの間抜けではない。自殺者は現実をまっすぐ、そこに佇む苦痛の連続だけを見出している。

誰からも愛されていない。世界から孤立している。
絶望しか、感じられない。

dabada3c.jpg彼らにとって、死は何を意味するのか。
一時的な気の迷いなのか、逃避なのか、イニシエーションなのか。
彼らは病的な錯乱状態であるが、冷静でもある。
自分の死に対して、慎重に審査し、準備もしている。
だから、病的な状態である一方、死そのものが目的でもあるのだ。

21715ef4.jpg
ゴールデンゲート・ブリッジは、何一つ騒ぎ立てず、堂々たる佇まいを見せている。
何が、あの橋に人を引き寄せているのだろう。
そこがあまりにも美しく、幻想的だからだろうか。
答えは、何もない。

映画記事一覧

作品データ
監督:エリック・スティール



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