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■2009/09/15 (Tue)
映画:外国映画■
カフェのカウンターに、一組の男と女がいた。
最初は男も女も静かに食事をしようとしていた。
だが突然に、女がカフェの客に襲い掛かった。女は品のない言葉で罵り、殴り、店を破壊し、人を殺す。静かなカフェは、瞬く間に悲鳴と血が飛び交う狂気の場と化した。
そして、最後に生き残った一人に、こういい残す。
「ミッキーとマロリーがやったと言うんだよ」
犯行現場にわざわざ生存者を残す理由は?有名になりたかったのか。注目されたかったのか。いや、自身の作品を語り継ぐ誰かを残すためだろう。彼らにとって破壊行為は作品。だが存在の証としてそのうちの一人を残す。
ミッキーとマロリーの二人は、まるで遊戯のように銃弾を放ち、人を殺す。
すぐにでも警察とマスコミが、ミッキーとマロリーの後を追跡した。
人々は、二人の放蕩と殺戮を支持し、瞬く間に時代の寵児として祭り上げられる。
「私を殺して!」
「彼らなら許せるよ」
ミッキーとマロリーへの犯罪は、堅牢に構築された社会を、ほんの一瞬でも木っ端微塵に破壊する幻想を与える。
ひょっとしたら世の中を変えてくれるかもしれない、という期待と希望を与えてくれた。
映画の全体はサイケデリックなイメージで描かれる。ミッキーとマロリーの逸脱した精神世界を表現する。ただしモンタージュの一つ一つは通俗の極み。
ミッキーとマロリーの旅は、決して逃避行のためではなく、渾沌を作り出すために駆け出していく。
ミッキーとマロリーは、標的が恐怖に怯え、火薬の音が弾け、血が噴き出す瞬間に、恍惚めいたものを見出していた。
人が生涯の職業を見出したときに感じるような、ある種の心地よさの発見だ。
ミッキーとマロリーは、人を殺すたびに、むしろ自身の精神を解放させていく。
彼らの行く先には、悲劇ではなく、血に塗られた絨毯が敷かれている。
二人の背後には過去と宿命が追い詰めてくる。二人の現実に対する異様なシニシズムは、何もかも過去を喚起させるからだ。過去から解放されるためには、あらゆるものを殺さねばならない。
ミッキーとマロリーの背景には、常に過去がつきまとわりついてくる。
暴力的な家庭に生まれたミッキー。
父親から性的虐待を受けていたマロリー。
社会とは、集団幻想の中にぼんやり現れた蜃気楼のようなものに過ぎない。
そもそも規範的とはいいがたい社会に生まれついた人間が自由と解放を獲得するには、反社会的行動を実践せねばならない。
だからミッキーとマロリーは、自由のために、両親を殺害した。
自由のために、自由をなくしてしまうような犯罪者にならねばならなかった。
犯罪映画の多くは、犯罪者の逮捕か死で終る。つまり、規範的社会の勝利と通俗的結末による“安心”を与えることで終る。だが『ナチュラル・ボーン・キラー』の狂気はそこから一歩踏み出す。ちなみにオリジナル脚本はクエンティ・タランティーノだった。なるほどタランティーノらしいテーマだ。タランティーノ監督で見たかった。きっと社会がどうこうは関係なく、何かが突き抜けた明るい作品になっていただろう。
ミッキーとマロリーの周囲には、常に狂気じみたモンタージュが被せられる。
アニメの動画であり、狂った色彩であり、通俗的はホームドラマであり。
映画は様々な手法を駆使して、ミッキーとマロリーの心理に迫り、見る者をその内部へと引き込んでいく。
ミッキーとマロリーの殺戮の旅は、やがて啓蒙的な色彩を帯び始める。
ミッキーとマロリーの殺人は、純粋的動機に基づく。
ストレスを解放する破壊の中から、ただ殺人のみを引き出して、その現象を我々の前に突きつける。
規範的社会は、異端を前にするとヒステリックな反応を示し、蜃気楼をかぶせてジャングルの中の狂気を覆い隠そうとする。自分たちが死肉を喰らっている事実を、忘れようとする。
だがミッキーとマロリーは、そんな我々の前に、死を突きつけ、社会に提示しようとする。
ミッキーとマロリーの狂気の旅は、二人を決して追い詰めず、むしろ自由を与える。
映画記事一覧
作品データ
監督:オリヴァー・ストーン 音楽:トレント・レズナー
脚本:デヴィッド・ヴェロズ リチャード・ルトウスキー
〇〇〇クエンティ・タランティーノ
出演:ウディ・ハレルソン ジュリエット・ルイス
〇〇〇ロバート・ダウニー・Jr トミー・リー・ジョーンズ
〇〇〇トム・サイズモア ロドニー・デンジャーフィールド
〇〇〇エド・マックラーグ デイル・ダイ
〇〇〇マーク・ハーモン アシュレイ・ジャッド
最初は男も女も静かに食事をしようとしていた。
だが突然に、女がカフェの客に襲い掛かった。女は品のない言葉で罵り、殴り、店を破壊し、人を殺す。静かなカフェは、瞬く間に悲鳴と血が飛び交う狂気の場と化した。
そして、最後に生き残った一人に、こういい残す。
「ミッキーとマロリーがやったと言うんだよ」
犯行現場にわざわざ生存者を残す理由は?有名になりたかったのか。注目されたかったのか。いや、自身の作品を語り継ぐ誰かを残すためだろう。彼らにとって破壊行為は作品。だが存在の証としてそのうちの一人を残す。
ミッキーとマロリーの二人は、まるで遊戯のように銃弾を放ち、人を殺す。
すぐにでも警察とマスコミが、ミッキーとマロリーの後を追跡した。
人々は、二人の放蕩と殺戮を支持し、瞬く間に時代の寵児として祭り上げられる。
「私を殺して!」
「彼らなら許せるよ」
ミッキーとマロリーへの犯罪は、堅牢に構築された社会を、ほんの一瞬でも木っ端微塵に破壊する幻想を与える。
ひょっとしたら世の中を変えてくれるかもしれない、という期待と希望を与えてくれた。
映画の全体はサイケデリックなイメージで描かれる。ミッキーとマロリーの逸脱した精神世界を表現する。ただしモンタージュの一つ一つは通俗の極み。
ミッキーとマロリーの旅は、決して逃避行のためではなく、渾沌を作り出すために駆け出していく。
ミッキーとマロリーは、標的が恐怖に怯え、火薬の音が弾け、血が噴き出す瞬間に、恍惚めいたものを見出していた。
人が生涯の職業を見出したときに感じるような、ある種の心地よさの発見だ。
ミッキーとマロリーは、人を殺すたびに、むしろ自身の精神を解放させていく。
彼らの行く先には、悲劇ではなく、血に塗られた絨毯が敷かれている。
二人の背後には過去と宿命が追い詰めてくる。二人の現実に対する異様なシニシズムは、何もかも過去を喚起させるからだ。過去から解放されるためには、あらゆるものを殺さねばならない。
ミッキーとマロリーの背景には、常に過去がつきまとわりついてくる。
暴力的な家庭に生まれたミッキー。
父親から性的虐待を受けていたマロリー。
社会とは、集団幻想の中にぼんやり現れた蜃気楼のようなものに過ぎない。
そもそも規範的とはいいがたい社会に生まれついた人間が自由と解放を獲得するには、反社会的行動を実践せねばならない。
だからミッキーとマロリーは、自由のために、両親を殺害した。
自由のために、自由をなくしてしまうような犯罪者にならねばならなかった。
犯罪映画の多くは、犯罪者の逮捕か死で終る。つまり、規範的社会の勝利と通俗的結末による“安心”を与えることで終る。だが『ナチュラル・ボーン・キラー』の狂気はそこから一歩踏み出す。ちなみにオリジナル脚本はクエンティ・タランティーノだった。なるほどタランティーノらしいテーマだ。タランティーノ監督で見たかった。きっと社会がどうこうは関係なく、何かが突き抜けた明るい作品になっていただろう。
ミッキーとマロリーの周囲には、常に狂気じみたモンタージュが被せられる。
アニメの動画であり、狂った色彩であり、通俗的はホームドラマであり。
映画は様々な手法を駆使して、ミッキーとマロリーの心理に迫り、見る者をその内部へと引き込んでいく。
ミッキーとマロリーの殺戮の旅は、やがて啓蒙的な色彩を帯び始める。
ミッキーとマロリーの殺人は、純粋的動機に基づく。
ストレスを解放する破壊の中から、ただ殺人のみを引き出して、その現象を我々の前に突きつける。
規範的社会は、異端を前にするとヒステリックな反応を示し、蜃気楼をかぶせてジャングルの中の狂気を覆い隠そうとする。自分たちが死肉を喰らっている事実を、忘れようとする。
だがミッキーとマロリーは、そんな我々の前に、死を突きつけ、社会に提示しようとする。
ミッキーとマロリーの狂気の旅は、二人を決して追い詰めず、むしろ自由を与える。
映画記事一覧
作品データ
監督:オリヴァー・ストーン 音楽:トレント・レズナー
脚本:デヴィッド・ヴェロズ リチャード・ルトウスキー
〇〇〇クエンティ・タランティーノ
出演:ウディ・ハレルソン ジュリエット・ルイス
〇〇〇ロバート・ダウニー・Jr トミー・リー・ジョーンズ
〇〇〇トム・サイズモア ロドニー・デンジャーフィールド
〇〇〇エド・マックラーグ デイル・ダイ
〇〇〇マーク・ハーモン アシュレイ・ジャッド
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