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■2009/09/14 (Mon)
映画:外国映画■
幼少期のアンディ・カウフマンはいつも一人で遊びような子供だった。テレビに夢中の子供で、壁に向かってテレビごっこを興じていた。
観客は誰もいない。アンディ一人きりのステージ。アンディが楽しいと思えば、アンディの耳には幻の拍手が聞こえてきた。
しかし現実には、誰ひとりアンディに手を叩く者はいなかった。
十数年後。大人になったアンディは売れないコメディアンとしてステージに立っていた。
アンディ一人きりのステージだった。観客はアンディを見ていないか、退屈で欠伸をするだけ。それでもアンディは、アンディ自身が楽しいと思えればそれでよかった。
そんなアンディに、支配人が助言する。
「これは商売だ。ショービジネスだ。ショーが下で、ビジネスが上。ビジネスあってのショーさ。君は失格だ。観客を沸かせてみろ」
翌日アンディは、ステージ上でエルヴィス・プレスリーの物まねを演じる。それがノリにノッて観客は大喝采。それをたまたま見ていたテレビ・プロデューサーのジョージ・シャピロが注目。アンディはテレビに出演するチャンスを得た。
アンディは「自分が面白いものは絶対」ということに、疑いをもてないタイプだ。これに同調者がいると、よりその性格が強化される。だから、怒る人がいると予想できなかった。
『マン・オン・ザ・ムーン』は伝説的なコメディアンであり、35歳でこの世を去ったアンディ・カウフマンを描いた作品だ。
アンディ・カウフマンが演出するテレビは常に問題を孕んでいた。テレビを故障したように見せかけたり、内部にまったく知らせず不意打ちのヤラセを起こしたり、アンディ・カウフマンの演出を越えた逸脱行動は、テレビ内外でも多くの問題を引き起こしていった。
アンディ・カウフマンの笑いは、多くの人にって「迷惑」と受け取られたのだ。しかし、なぜ?
アンディ・カウフマンの演出は、しばしば虚構世界を飛びぬけ、現実世界を侵食しようとした。従来のステージの中という文脈から、観客席に踏み込み、見ている人をステージのひとつとして取り込もうとした。
だがそれは、多くの人にとって動揺をもたらすことになる。ステージ上のできごとは虚構であり、見ている我々の側には決して危害を加えない。アンディ・カウフマンはその約束事をやすやすと飛び越え、観客を巻き込み、観客の動揺を誘い、いつの間にか世論そのものを巻き込もうとした。
アンディは観客がどう思うと自分の考えを押し通してしまう。「客を楽しませたいのか、自分が楽しみたいだけか」と問われる。潔癖症の芸術家にありがちな性格だ。
それでもアンディ・カウフマンにとって、その状況自体が虚構に過ぎなかった。所詮、芝居である。ヤラセに過ぎない。遊びのつもりだった。
だが、社会そのものを巻き込もうとするアンディ・カウフマンに対する世間の動揺と、それに基づく拒絶感は大きかった。
新しい表現や、新しい種類の遊び、新しい笑いというものは常に世間に対する激しい反発が起きる。それは戸惑いや動揺に端を発するものだ。先鋭的なものとは、従来的な文脈を踏み越え、暗黙の了解と考えられていた文法を破壊し、新たなものを創造する力である。
一般的な開拓者が新天地を発見することであれば、表現者による開拓者とは、深層心理内に新たな可能性を見出す者である。しかしそこで発見されたものは、フロイトの深層心理を突きつけられたように、激しい動揺と拒絶を誘うだけである。
だからアンディが演出する“笑い”も、やはり受け入れられなかった。
次第にアンディ自身が虚構に取り込まれていく。何を言っても、客は「どうせ虚構だろう」と思い込み、勝手に笑いを見出してしまう。その結果、アンディは客との間に溝を作り孤独になってしまう
ところでアンディ・カウフマンが演出したステージは、果たして“笑い”だったのだろうか。アンディ・カウフマンは人々を巻き込み、文脈を破壊して人々が本当に動揺したところに本物の笑いがあると信じて疑わなかった。だが、アンディの演出は果たして本当に“笑い”に繋がるものだったのだろうか。
思うに、アンディの目論みはある種の劇場的空間を現実世界に現出させることだったのではないか。一つのステージでは終らない、ステージを飛び越えて日常そのもの、すべてを劇場空間として飲み込む。
だからアンディの演出してみせた状況とは、ある種の表現者としての“空間”ではなかったのだろうか。それが虚構とわかる人には、おかしな状況としての“笑い”が起きる、そういう仕掛けだったのだろう。
アンディは表現者であるから、“騙し”が拒絶された。実際には政治家にデマゴーグはたくさんいるが、彼らが国民を騙しても拒絶されない。アンディは所詮すべておかしな虚構に過ぎないと看破し、笑う。
だがアンディ・カウフマンの笑いは受け入れられなかった。とことん受け入れられなかった。しかし一方で受け入れるしかなかった。何せアンディにとって、現実世界のすべてが演出された劇場的空間だったからだ。すでに現実が、アンディの演出する虚構で満たされている以上、受け入れるしかない。
やがて、誰もアンディ・カウフマンを信じなくなった。アンディ・カウフマンがどんなに振る舞っても、ウソに過ぎない。自分たちを笑わそうとしているだけだ。
アンディ・カウフマンはいつの間にか、自分が作り出した演出空間に、自分自身が飲み込まれてしまったのだ。
そしてアンディ・カウフマンは、映画の最後でもう一つ大きな演出空間に飲み込まれてしまう。
現実世界のあらゆるできごとは、所詮は虚構に過ぎない――自分の作った舞台など、その小さな一端に過ぎない。それを悟って、アンディ・カウフマンはこの世を去る。
映画記事一覧
作品データ
監督:ミロス・フォアマン 音楽:R.E.M.
撮影:アナスタス・N・ミコス
脚本:スコット・アレクサンダー ラリー・カラゼウスキー
出演:ジム・キャリー ダニー・デヴィート
〇〇〇コートニー・ラヴ ポール・ジアマッティ
〇〇〇ヴィンセント・スキャヴェリ ピーター・ボナーズ
〇〇〇ジェリー・ベッカー レスリー・ライルズ
〇〇〇マリル・ヘナー レイコ・エイルスワース
〇〇〇マイケル・ケリー リチャード・ベルザー
観客は誰もいない。アンディ一人きりのステージ。アンディが楽しいと思えば、アンディの耳には幻の拍手が聞こえてきた。
しかし現実には、誰ひとりアンディに手を叩く者はいなかった。
十数年後。大人になったアンディは売れないコメディアンとしてステージに立っていた。
アンディ一人きりのステージだった。観客はアンディを見ていないか、退屈で欠伸をするだけ。それでもアンディは、アンディ自身が楽しいと思えればそれでよかった。
そんなアンディに、支配人が助言する。
「これは商売だ。ショービジネスだ。ショーが下で、ビジネスが上。ビジネスあってのショーさ。君は失格だ。観客を沸かせてみろ」
翌日アンディは、ステージ上でエルヴィス・プレスリーの物まねを演じる。それがノリにノッて観客は大喝采。それをたまたま見ていたテレビ・プロデューサーのジョージ・シャピロが注目。アンディはテレビに出演するチャンスを得た。
アンディは「自分が面白いものは絶対」ということに、疑いをもてないタイプだ。これに同調者がいると、よりその性格が強化される。だから、怒る人がいると予想できなかった。
『マン・オン・ザ・ムーン』は伝説的なコメディアンであり、35歳でこの世を去ったアンディ・カウフマンを描いた作品だ。
アンディ・カウフマンが演出するテレビは常に問題を孕んでいた。テレビを故障したように見せかけたり、内部にまったく知らせず不意打ちのヤラセを起こしたり、アンディ・カウフマンの演出を越えた逸脱行動は、テレビ内外でも多くの問題を引き起こしていった。
アンディ・カウフマンの笑いは、多くの人にって「迷惑」と受け取られたのだ。しかし、なぜ?
アンディ・カウフマンの演出は、しばしば虚構世界を飛びぬけ、現実世界を侵食しようとした。従来のステージの中という文脈から、観客席に踏み込み、見ている人をステージのひとつとして取り込もうとした。
だがそれは、多くの人にとって動揺をもたらすことになる。ステージ上のできごとは虚構であり、見ている我々の側には決して危害を加えない。アンディ・カウフマンはその約束事をやすやすと飛び越え、観客を巻き込み、観客の動揺を誘い、いつの間にか世論そのものを巻き込もうとした。
アンディは観客がどう思うと自分の考えを押し通してしまう。「客を楽しませたいのか、自分が楽しみたいだけか」と問われる。潔癖症の芸術家にありがちな性格だ。
それでもアンディ・カウフマンにとって、その状況自体が虚構に過ぎなかった。所詮、芝居である。ヤラセに過ぎない。遊びのつもりだった。
だが、社会そのものを巻き込もうとするアンディ・カウフマンに対する世間の動揺と、それに基づく拒絶感は大きかった。
新しい表現や、新しい種類の遊び、新しい笑いというものは常に世間に対する激しい反発が起きる。それは戸惑いや動揺に端を発するものだ。先鋭的なものとは、従来的な文脈を踏み越え、暗黙の了解と考えられていた文法を破壊し、新たなものを創造する力である。
一般的な開拓者が新天地を発見することであれば、表現者による開拓者とは、深層心理内に新たな可能性を見出す者である。しかしそこで発見されたものは、フロイトの深層心理を突きつけられたように、激しい動揺と拒絶を誘うだけである。
だからアンディが演出する“笑い”も、やはり受け入れられなかった。
次第にアンディ自身が虚構に取り込まれていく。何を言っても、客は「どうせ虚構だろう」と思い込み、勝手に笑いを見出してしまう。その結果、アンディは客との間に溝を作り孤独になってしまう
ところでアンディ・カウフマンが演出したステージは、果たして“笑い”だったのだろうか。アンディ・カウフマンは人々を巻き込み、文脈を破壊して人々が本当に動揺したところに本物の笑いがあると信じて疑わなかった。だが、アンディの演出は果たして本当に“笑い”に繋がるものだったのだろうか。
思うに、アンディの目論みはある種の劇場的空間を現実世界に現出させることだったのではないか。一つのステージでは終らない、ステージを飛び越えて日常そのもの、すべてを劇場空間として飲み込む。
だからアンディの演出してみせた状況とは、ある種の表現者としての“空間”ではなかったのだろうか。それが虚構とわかる人には、おかしな状況としての“笑い”が起きる、そういう仕掛けだったのだろう。
アンディは表現者であるから、“騙し”が拒絶された。実際には政治家にデマゴーグはたくさんいるが、彼らが国民を騙しても拒絶されない。アンディは所詮すべておかしな虚構に過ぎないと看破し、笑う。
だがアンディ・カウフマンの笑いは受け入れられなかった。とことん受け入れられなかった。しかし一方で受け入れるしかなかった。何せアンディにとって、現実世界のすべてが演出された劇場的空間だったからだ。すでに現実が、アンディの演出する虚構で満たされている以上、受け入れるしかない。
やがて、誰もアンディ・カウフマンを信じなくなった。アンディ・カウフマンがどんなに振る舞っても、ウソに過ぎない。自分たちを笑わそうとしているだけだ。
アンディ・カウフマンはいつの間にか、自分が作り出した演出空間に、自分自身が飲み込まれてしまったのだ。
そしてアンディ・カウフマンは、映画の最後でもう一つ大きな演出空間に飲み込まれてしまう。
現実世界のあらゆるできごとは、所詮は虚構に過ぎない――自分の作った舞台など、その小さな一端に過ぎない。それを悟って、アンディ・カウフマンはこの世を去る。
映画記事一覧
作品データ
監督:ミロス・フォアマン 音楽:R.E.M.
撮影:アナスタス・N・ミコス
脚本:スコット・アレクサンダー ラリー・カラゼウスキー
出演:ジム・キャリー ダニー・デヴィート
〇〇〇コートニー・ラヴ ポール・ジアマッティ
〇〇〇ヴィンセント・スキャヴェリ ピーター・ボナーズ
〇〇〇ジェリー・ベッカー レスリー・ライルズ
〇〇〇マリル・ヘナー レイコ・エイルスワース
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