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■2009/09/05 (Sat)
05f3d723.jpg女は小刻みに体を震わせていた。足音を立てて近付く。女は一瞬、身をこわばらす。
「吸うかい?」
「ええ。あなたも退屈なの?」
「パーティーじゃなくて、君が目当てさ」
女はタバコを口にくわえる。俺は、女のタバコに火を点ける。
ef4006d0.jpg「何を語っているの?」
女は緩く微笑んだ。照れをごまかす笑いだ。俺は女の心が揺れているのを感じた。
「君は、妙に冷静だ。逃げるのをやめて、現実に立ち向かおうと決心している。でも、一人では、行きたくない」
俺は女に静かに囁いた。女の息遣いと、同じリズムで。
「そう。一人で立ち向かうのは、嫌」
風が二人を誘う。女の体は柔らかく、暖かかった。女の香水が、俺の涙を誘った。
俺は言う。“安心しろ。どこかへ連れて行ってやる”と。
女はサイレンサーの鈍い音とともに、死んだ。俺の腕の中で。
b5ae0530.jpg『シン・シティ』は三本プラスの短編から成り立っている。それぞれの関連は弱く、通してみるとやや長い印象すらある。




cabca176.jpgあと一時間で、俺の勤務も終わりだ。30年間の警察勤務もようやく終わる。
女房が脂肪たっぷりのステーキ肉を、しぶしぶ買う姿が目に浮かんだ。
だが、まだ未解決事件が一つ残っていた。俺の最後の事件だった。
「よせ、ハーティガン。殺されちまうぞ」
相棒のボブが忠告した。ありがたい相棒だ。だが引退の時間が近いんだ。一人で行かせてもらうぜ。
引退の日が、とんだ相棒の解消劇になっちまった。
a24512d1.jpg俺は犯人のいる倉庫へ向かった。扉をぶち破って、目についた男を銃で撃ち殺した。
しかし油断した。背後から肩を撃たれた。
撃ったのは、ロアーク・ジュニアだ。ロアーク・ジュニアは、少女を抱えて倉庫を飛び出していった。
俺は膝をついた。ただのかすり傷だ。立て、老いぼれ。
ロアーク・ジュニアは倉庫を出たところにいた。
「ロアーク。諦めろ。その子を離せ」
「お前には、手出しできない。俺の父親が誰かわかっているな? 俺は逮捕できねえんだ。銃を持つ手も上がらないくせに」
ロアーク・ジュニア。ロアーク上院議員の息子。警察も手出しできない男。
だがロアーク・ジュニアは怯えて震えていた。いい大人のくせに。大した男じゃない。
俺はロアーク・ジュニアに近付いて、銃を撃った。奴の武器を持つ右腕を、下の武器も撃った。
遠くでサイレンが聞こえてきた。さあロアーク、お前もおしまいだ。俺の事件もすべて片付いた。
しかし油断した。後ろから、誰かが俺を撃った。
「その辺にしておけ。次は殺すぞ」
相棒のボブだった。
とんだ、相棒解消劇になっちまったぜ。
d7c5b832.jpg一部のシーンはクエンティ・タランティーノが監督した。タランティーノ監督は、ロバート・ロドリゲス監督の友人であるし、ロドリゲスによれば「デジタル撮影の良さを知ってほしかった」だそうだ。



9346b2e7.jpgシン・シティ。
“罪の街”
その街は決して朝の光は射しこまない。
夜の闇が永遠に包み込み、邪な悪党達の戯れが無限に続く街。
いかれた人間だけが集る、いかれた人間のための街だ。
シン・シティにはまともなルールはない。街で一番になった悪党が、ルールを決めるのだ。
シン・シティにやってくる人間に、まともな経歴の人間はいない。
男はみんな殺し屋だし、女はみんな娼婦だ。
この街で生きていくには、超人的なパワーが必要だ。
全速力で走る車に何度轢かれても死なない体や、首を落とされても平気でにやりとするくらいの能力は必要だ。
ここでは、正気などという上等なものはない。
b34672e6.jpg『シン・シティ』の映像は、フランク・ミラーの原作漫画に似せるために、手の込んだデジタル処理が加えられている。漫画特有のコントラストの使い方や、“決めポーズ”の作り方まで忠実に再現されている。



映画『シン・シティ』は独創的な映像感覚で描かれた作品だ。
4ff8dfa1.jpg背景は奥へ行くほど、古典的なマット画風になり、煙や雨は、わざとらしいくらいに強調されている。
黒と白のコントラストは、従来の照明が作り出す濃淡とは、まったく違う手法を実践している。
光があたっているのに関わらず黒く塗りつぶされたり、反対に極端なくらい白く描かれたりする。
血などの表現などは、特に真っ白に描かれて際立たせている。
すべてはデジタルの効果だが、どこかしら古い時代の映画を思わせる。
『シン・シティ』に現代的なリアリズムはない。
だからといって、どこか特定の時代の特徴だと指し示すこともできない。
『シン・シティ』は映画全体に異常な何かが起きそうな空気で張り詰めている。
実際に異常な事件が起きても、なにもかも、当たり前として受け止めている我々がいる。
08b37d50.jpgデヴォン青木は西洋人が考える典型的な日本人女性像を体現する。いま米映画で、日本人の代名詞となり、日本のゲーム原作『デッド・オア・アライブ』でカスミ役で出演したのは記憶に新しい。だが正直なところ、納得がいかない。確かに西洋の画家が描く日本人は、デヴォン青木のようなルックスをしているが、日本人の視点や感性と著しく乖離している。いくら西洋で日本がブームになろうとしても、相容れない部分はあるのだ。
『シン・シティ』は、ハード・ボイルドの映画だ。
ハード・ボイルドはこの頃はすっかり毒抜きされて、ただの犯罪映画との区別が曖昧になってしまった。
本来のハード・ボイルドは、まともでない人間の、まともではない日常を描いた作品のことだ。
まともではないから、ハード・ボイルドの人間は孤独だし、常に危険な事件に巻き込まれる。
『シン・シティ』にはそんなハード・ボイルドの空気が一杯に満ちている。
『シン・シティ』の住人にまっとうな人間は一人としていない。男も女もどこか壊れていて、それでいて、異様にぎらぎらとしている。
久々に肌でひりひりと感じられる、ハード・ボイルド映画だ。

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本・音楽:ロバート・ロドリゲス
脚本・原作:フランク・ミラー 監督:クエンティン・タランティーノ
音楽:ジョン・デブニー グレーム・レヴェル
出演:ブルース・ウィリス ミッキー・ローク
〇〇〇クライヴ・オーウェン ジェシカ・アルバ
〇〇〇ベニチオ・デル・トロ イライジャ・ウッド
〇〇〇リタニー・マーフィ デヴォン青木
〇〇〇ジョシュ・ハートネット マイケル・マドセン



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■2009/09/05 (Sat)
1950年2月。
マッカーシー上院議員が「国務省職員に205人の共産主義者が勤務している」と告発。
これを切っ掛けに、アメリカ全土に赤狩りの嵐が吹き荒れる。
誰もが自身の投獄を恐れ、家族や親しい隣人に疑いを向けた時代。
マスコミすら、政治的圧力と恐怖心から、上意下達的な報道しかしなくなった時代。
そんな時代に、真っ向からマッカーシズムに抵抗したニュース・キャスターがいた。
c9da4dc7.jpg0873e6ef.jpgマッカーシー(左)の告発によって、アメリカの世論は動揺する。マスコミもその例外ではなく、政府からの宣誓書にサインするよう強制される。報道にもネガティブな自主規制の嵐が吹き荒れようとしていた。
CBSの人気キャスターであるエド・マローは、デトロイトの地方新聞に目を向ける。
その地方新聞には、空軍のマイロ・ラドゥロヴィッチが、共産主義の疑いで解雇された一件が記されていた。
だが、この解雇には具体的な証拠はなく、裁判すらない強制的なものだった。
エドは同僚のフレッドに話題を持ちかけ、番組で大きく取り上げるべきではないか、と話し合う。
4c13941c.jpgf0352ffe.jpg報道で正論と真実を取り上げようとしても、圧力がかけられる。エドとフレッドは、その圧力に抵抗して挑戦する。ちなみに、フレッドは監督ジョージ・クルーニーの父親だ。つまり、父親自慢の映画でもあるのだ。
だが、周囲の反発は大きかった。
エドとフレッドの上司は、「会長とスポンサーに報告するぞ」と怒り、
番組を聞きつけた空軍の大佐は、露骨な圧力をかけてくる。
それでもエドとフレッドは、果敢に抵抗してマイロの一件を番組に取り上げる。
b4f4c703.jpg46f84b05.jpgエドの報道はまずまずの成功を収め、好意的な評価を得る。一方で、エド自身が共産主義の疑いが向けられてしまう。
日本人は空気の良さと恐ろしさをよく知っている。空気に同調しすぎると、思考力を失い、狂信者になる。

知性の時代においては、英雄も知性に長けた者ではなくてはならない。
周囲の“空気”に決して押し流されず、自身の信念を強く持ち、主張し、良心をなくさない者。
知性の時代には、それが強く求められるし、現在のような過剰な情報化の時代においては、自身の信念と知性の高さがより重要になる。
a0ae47d7.jpg映画『グッドナイト&グッドラック』はブッシュ政権によるイラク戦争下で制作された。当時のアメリカの状況について正確に知らないが、相当な報道規制、情報統制が敷かれたようだ。ちょうど、マッカーシズムに似た状況に陥り、その“空気”への反発が、この映画の制作を促した。映画制作者は、エド・マローと同じ精神で映画を製作したのだ。

権力者は、大衆の感情を自由に操作する方法を知っている。
大衆に本当の不安と恐怖を抱かせることができれば、反抗の意識を権力や親にではなく、自身と隣人に向けるようになると、よく知っている。
そうした疑心暗鬼が社会一杯に満たされると、正論はむしろ恐怖を掻きたてて、正義は抹殺される。
権力は大衆を操作する方法をよく知り、その方法論を常に実践している。
7b736db8.jpg冒頭スピーチより引用「もし、50年後や100年後の歴史家が今のテレビ番組を一週間分見たとする。彼らの目に映るのは、おそらく今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう。アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す。それが報道にも現れている。だが我々はテレビの現状を見極めるべきです。テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。それに気付かねば、スポンサーも視聴者も制作者も後悔することになる」
報道は、その当事者が想像する以上に、はるかに大きなパワーが与えられている。
「この人は悪い」テレビでそう言えば、その情報に接した人々は、親しい友人に囁かれたように信用する。
言論の発信者は、常に自身の言論に責任を持たねばならない。
言論の代表者の意見は、多くの人々の思考・意識に、決定的な影響を与えるからだ。
罪なき者を犯罪者に仕立て上げることも可能だ。
だからこそ報道に従事する人間は、周囲の“空気”に流されないように自身を律し、冷静でなければならない。報道を仕事にする人間にとって、常に精神性の高さが求められる。当然であるが、付和雷同であっては決してならない。自身の信念や主張がなく、“何となく”周りに流されるなどあってはならないし、周囲に発生した“何となく”の空気を自身の信念と主張であると錯覚するということもあってはならない(要するに最低限の「思考力」の必要だ)。その程度の自立心がなければ、報道をやっていく資格などないだろう。
だが、それも実際には“空気”にすぎない。
その人間に対して好意を抱くか嫌悪を抱くか。
そういった判断を、周囲の“空気”に委ねて同調する必要はない。まして、それを自身で思考した信念だ、と錯覚するのはただの愚か者だ。
報道の発信者こそ、そうした“空気”に過ぎない意識に対して、敏感に審査すべきである。
そんな不安と恐怖という“空気”を作り出したマッカーシズム。
エドは単身、そんな“空気”に反発し、恐れず“正論”を主張する。

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本:ジョージ・クルーニー
脚本・制作:グラント・ヘスロヴ 撮影:ロバート・エルスウィット
製作総指揮:マーク・バダン スティーブン・ソダーバーグ
出演:デヴィッド・ストラザーン ジョージ・クルーニー
〇〇○ロバート・ダウニー・Jr パトリシア・クラークソン
〇〇○レイ・ワイズ フランク・ランジェラ
〇〇○ジェフ・ダニエルズ テイト・ドノヴァン
〇〇○トム・マッカーシー アレックス・ボースタイン



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■2009/09/04 (Fri)
429995e4.jpg「待って」
エレベーターに乗ったところで、女の声がコーキーを引き止めた。コーキーはとっさに扉を押さえた。
「どうも」
女が乗ってきた。髪にパーマを当てた、化粧の厚い女05e58c1d.jpgだった。一緒に男が入ってきた。恋人か旦那のどちらかだろう。
コーキーは五年の刑期を終えて出所したばかりだった。行く当てのないコーキーを、マフィアのビアンキーニーが引き取ってくれた。これから向かうマンションの一室は、ビアンキーニに割り当てられた部屋だった。
ふと女が自分を見ているのに気付いた。情熱的で、誘うような目。コーキーは女の視線を避けず、受け止めた。
間もなくエレベーターが止まった。10階。扉が開いて、男はさっさと出て行く。女は少し名残惜しそうにコーキーを見詰めたまま、出て行った。
コーキーはしばらくエレベーターに止まり、歩いていく女の尻を見詰めた。
――いい尻ね。
2c9ab002.jpga53ba14e.jpgブリーフを穿き、娼婦を誘うコーキー。男性的な側面が強調されるというより、男性自身である。女性視点のレズビアン映画とは、やはり趣旨が違う。どこか、後に性転換するラリーを暗示しているようだ。
エレベーターで出会った女はヴァイオレット。一緒だった男はシーザーだった。シーザーはマフィアの男で、ヴァイオレットはその情婦という関係だった。
だが、ヴァイオレットはシーザーに心を許しているわけではなかった。シーザーといれば、生活に困らないから。それだけの関係だった。
コーキーとヴァイオレットは、急速に惹かれあい、間もなく肉体的に結ばれる。
ある日、コーキーはマンションにマフィアの男達がやってくるのを目撃する。男達は、シェリーと呼ばれる男を連れていた。
シェリーはマフィアの金を持ち逃げし、どこかに逃亡するもつもりだった。しかしシーザー達に捕まり、これから拷問を受けるところだった。
拷問の悲鳴に耐えられなくなったヴァイオレットは、コーキーの元へ逃げ出す。ヴァイオレットは「シーザーが怖い。逃げたい」と告白。さらに、シェリーが隠し持っている200万ドルを横取りし、コーキーと一緒に逃げようと提案する。
コーキーは考えを巡らし、ビアンキーニの息子のせいにしてうまくマフィアの金を盗み出す方法を考える。
f56fe4ad.jpge65a085c.jpg性倒錯や拷問。『マトリックス』のもう一つの側面であるSM的テーマが随所に現れている。車の中で「盗みと性的興奮」を語る場面がある。細かいところは違うが、元ネタはサドの『悪徳の栄え』だろう。
後に『マトリックス』を制作し、世界的監督になるラリー&アンディ・ウォシャウスキー監督の映画デビュー作である。
物語も舞台構成も単純明快だ。主だった舞台は一つのマンションであり、ほとんどが隣り合った二つの部屋だけで進行する。
おそらく予算的な都合だったのだろう。セットの数は少ないし、登場人物は10人以下。ハリウッドのドル箱俳優は一人も登場しない。
だが物語は綿密に計算して作られ、映画から緊張感が失われる瞬間はない。どのキャラクター達も常に思考し策を練り、予定調和的な展開はなく、物語は二転三転とどこまでも意外な方向に転がっていく。
果たして物語がどんな結末を迎えるのか。最後の瞬間まで目が離せなくなる作品だ。
6853203b.jpg065b5375.jpg低予算映画だが、惹き付ける場面が多い。低予算であっても、充分に実力を発揮している。この段階から、誰がどう見てもウォシャウスキーの映画である。映画監督としての才能と実力を見ることのできる映画だ。
画面の構成はシンプルで俳優を冷淡に捉えるが、狙ったように極端なクローズアップカットが挿入される。
カメラの動きは完璧に制御されている。カメラは俳優の動きをなぞるように追跡し、特定のアイテムに接近する。俳優の立ち位置、動きなどはもちろん徹底した完璧主義で、動作も台詞も機械か何かのようにコントロールされている。
時にカメラは信じられない動きを見せ、カメラマンの存在を忘れさせてしまう。
何もかもが、ウォシャウスキー監督のスタイルである。ウォシャウスキー兄弟は監督デビュー作であるのに関わらず、自分の個性を完璧に理解し、低予算だが自身のスタイルを決して曲げず作品を描いている。
“ウォシャウスキー監督は、初めからウォシャウスキー監督だった”と言うべきだろう。
シンプルでいながら映画の力点をよく理解し、観客をひきつける方法も充分に知っている。
映画作りに必要なバランス感覚の良さ、聡明さ、一目で誰が制作したかわかるスタイル。『バウンド』はウォシャウスキー兄弟の基礎的な能力が妥協なく発現された作品である。

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本・製作総指揮:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー
音楽:ドン・デイヴィス 撮影:ビル・ポープ
出演:ジェニファー・ティリー ジーナ・ガーション
〇〇○ジョー・パントリアーノ リチャード・サラフィアン
〇〇○ジョン・P・ライアン クリストファー・メローニ
〇〇○バリー・キヴェル ピーター・スペロス



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■2009/09/03 (Thu)
『キング・コング・デラックス・エクステンデッド・エディション』は、映画『キング・コング』に13分の未公開シーンを加えたロングバージョンだ。
ピーター・ジャクソン監督によるエクステンデッド・エディションは、すでに『キング・コング』を鑑賞したファン向けに制作されている。
だから、物語が延長されたことによって、ドラマに厚みが増えたということはないし、意外な展開や、意外な事実が明かされることもない。
『キング・コング』に関する詳しい解説はすでに書いたので、ここでは省略する。
2005年版『キング・コング』の記事へ
ここでは、エクステンデッド・エディション版で追加されたシーンについて、解説する。



(DISC1 CH28 1:14:10)
4cccb57e.jpg最初に遭遇するはずだったトリケラトプス。この怪獣は、旧作では俳優がスクリーンに映る怪獣の前に立ち、銃を撃つなどの演技をする場面だった。デジタルによって、カメラを移動させつつ、立体的に俳優と演技するようになった。このトリケラトプスがカットされたのは、次に登場するブロントサウルスのインパクトを強くするためだろう。
最初の追加シーンは、トリケラトプスの襲撃シーンだ。
壁の向うに突入したカール・デナムたちが、最初に遭遇する恐竜だ。
このトリケラトプスは、33年版『キング・コング』にも登場した。これで、よりオリジナル版に近付いたといえる。


(DISC2 CH6 0:18:33)
9359000e.jpg続いて削除された水中怪獣のシーン。強烈なシーンが削除されているが、公開時間の長さ以上に、観客が初めて見るインパクトを大事にしたかったためだろう。エクステンテッド・エディションの観客は、基本的に「2度目のお客さん」を想定しているのだろう。
 
バクスターがジャングルから退散した後、ジャックたちは筏を組んで、川を横断する(この直前に、筏を組む場面が少しだけ加えられている)。
筏で川を横断しようとするが、やはりここでも水中に潜む怪物に襲われる。
こちらも33年版『キング・コング』にも描かれた場面だ。


(DISC2 CH7 0:24:21)
50be8341.jpg絶滅種のドードーを撃ってしまい、「なんてことだ!」と嘆くシーン。ピーター・ジャクソンらしいジョークだが、映画の雰囲気とあっていないし、面白くないので削除されて正解。



ジャングルを彷徨うアン・ダロウ。アン・ダロウを探すジャックたちの場面が交差する。
ふとランピーが茂みの向うに動く気配に向かって、銃を掃射する。
「やめろ! なんてことだ……」
茂みの向こうに走るジャック。そこにいたのは、なんと絶滅種のドードーだった。
劇場公開版になくて正解。ジョークだが、あまり笑えるものではない。


(DISC2 CH10 0:47:07)
d9de5e88.jpgカール・デナムは初めから狂人だったわけではない。ジャングルの毒気に晒され、次第に変化していき、フィルムを失ったことにより、一線を越えた。穴のシーンはその瞬間を描く貴重な場面。


a8b288ac.jpg谷底に落ちたジャックたち。バクスターの救出によって危機を逃れ、谷底から這い上がろうとする。
ジミーは谷底から昇る前に、ヘイズの帽子を手に取り被る。
同じく谷底から昇ろうとするカール・デナム。
だが、カール・デナムの正気は失いかけようとしている。
カール・デナムが一線を越える直前を描く、重要な場面だ。


(DISC2 CH20 1:32:16)
c702d50e.jpgちなみに、『エクステンテッド・エディション』のディスクには、他にも編集に加えられなかった未公開シーンがあるので、こちらもなかなか面白いシーンがあるので要注目だ。



アン・ダロウを連れさらったキングコングを、軍隊が追跡する。
あるトラックの中では、鬼軍曹が部下たちに檄を飛ばしている。
このトラックの中にいる兵士たちは、実は俳優ではなく、映画の製作スタッフたち。
要するに、内輪受けを狙った楽屋落ちシーン

1933年オリジナル『キング・コング』の記事へ
劇場公開版『キング・コング(2005)』の記事へ

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本:ピーター・ジャクソン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン
出演:ナオミ・ワッツ エイドリアン・ブロディ
〇〇〇ジャック・ブラック トーマス・クレッチマン
〇〇〇コリン・ハンクス ジェイミー・ベル
〇〇〇エヴァン・パーク アンディ・サーキス



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■2009/09/03 (Thu)
64c5c3d6.jpg人通りの多い果物屋の前を、みすぼらしい姿の女が通りすがった。
果物屋の店主は、目ざとく女に警戒の目を向ける。
女は、ちらりと店主がこちらを見ていないのを確認して、林檎を一つ手に取り、懐にしまいこんだ。
3b3ba01b.jpg「待て。金を払うんだ!」
店主が女の手を掴んだ。
女は逃げようと手を振り回そうとする。だが店主は、強い力で、女の手をしっかり掴んでいた。
そんな時、男が二人の間に割って入った。
「失礼。落としましたよ」
男は静かに店主を宥め、コインを差し出した。
1d13b458.jpgジャック・ブラックは傲慢な映画監督カール・デナムを独特のユーモアで演じた。ジャック・ブラックはそれまで通行人、やられ役などで多くの映画に出演(出演作品だけなら非常に多い)。だがたまたま主演を務めた『スクール・ロック』がビーター・ジャクソンの目に留まり、抜擢された。『キングコング』はジャック・ブラックにとっても転換点となる作品だ。
1933年に公開された、映画『キング・コング』はあまりにも有名な作品だ。
謎の島、髑髏島に探検に向かった撮影隊が、かつてない生き物に遭遇する。
はるか昔に絶滅したと考えられていた巨大生物の群れ。
そして、髑髏島の住人達から信仰の対象となっている霊獣キングコングの存在。
ピーター・ジャクソン監督が現代に甦らせた新しい『キング・コング』は、驚くほど当時のままだ。
当時と同じメロディに、当時の書体そのままのタイトルバック。
余計な追加や、浅はかなオリジナル要素などもない。
何もかもが当時のまま、ピーター・ジャクソン監督は1933年の情緒を現代の技術映画のスクリーンに再現させた。
296609bd.jpg83e19cd7.jpg1930年代の風景はほとんどデジタルで制作された。ピーター・ジャクソン監督は「デジタルの魔術師」と認知されているが、実際はコンピュータ音痴。デジタルに強いのは、あくまでも若いスタッフ達。
1c88c7d6.jpg女優アン・ダロウは、映画監督カール・デナムと共に船に乗った。
シンガポールを舞台にした映画の撮影で、内容は冒険要素のある恋愛映画であると説明されていた。
だが、カール・デナムには秘密があった。
1e772ec8.jpg夜のうちに、船の針路が密かに変更される。スマトラを西に向かった海域だ。
カール・デナムは、秘密の地図を手に入れれていた。
まだ文明人が一度も足を踏み入れた歴史のない13ac2f17.jpg島。そこには、我々のまだ感じた経験のない神秘が待っている。
一方で、危険な島であった。
船員の一人が、警告をする。
「スマトラ沖で、漂流者を乗せたことがある。その島には、壁があった。大昔に誰かが作った、大きな壁だ。高さは30メートル。古いが、いたって頑丈だ。その壁の向うには、何かがいる。獣でも人でもない。馬鹿でかい怪物が潜んでいる……」
0e3b4148.jpg水夫の役で出演したアンディ・サーキス。キングコングやゴラムを演じた俳優だ。世界的な俳優だが、実際に顔を見たのは初めて、という人は多いはずだ。



6b0e0291.jpgうして、謎と神秘の髑髏島に到着する。
1933年版の『キング・コング』では、髑髏島の住人は、いかにも無知な原始民族として描かれていた。しかも、まったくの未踏の島にも関わらず、何故か通訳の言葉が通じる場所だった。
現代の『キング・コング』はかつての映画とははっきりと違う趣向で描かれている。
現代は未知を失った時代だ。
我々は、モニターを通じて、世界中のあらゆる風景と現象を知るようになった。世界中のあらゆる事件は既知のものとなり、我々は現実世界から神秘を失った。
だからピーター・ジャクソンが描き出した髑髏島は、独創的で、恐ろしさをより強調するように描かれている。
当時の人々が感じていたであろう神秘と、恐ろしさを現代人の心理の中に再現しようとしているのだ。
542c9af0.jpgニュージーランド出身のピーター・ジャクソンは、髑髏島の原住人を、ニュージーランド人らしい配慮で描いている。リアルだが現実に存在するどの部族にも似ていないように描かれている。


34faa29e.jpgれでいて、髑髏島の描写はどこまでも詳細で、現実感を持って描かれている。
登場する怪獣は独創的なものだが、生態系の連なりを重視して描かれている。
怪獣の動きは、旧作においては平面的でぎこちなかったが、2005年版の『キング・コング』では立体的に人間と交差し、肉体的なぶつかり合いすら見せる。
怪獣同士のぶつかり合いは素晴らしい技術で描かれ、過去の全ての恐竜映画を歴史の中に封印した。
イメージ自体は既知のものをレイヤリングしただけだが、圧倒的な重量感が見るものを神秘の島の冒険へと没入させる。
4758dc3e.jpgデジタル制作の怪獣達。よく「デジタルを使ってるから不自然だ」という批判をよく聞くが、そもそも映画は不自然それ自体である。馴染みがあるかないか、だけの話だ。冷静に映画を見てもらいたいものだ。


旧作を忠実に再現された『キング・コング』だが、いくつか変更、追加が加えられている。
43887700.jpg一つは前半30分の説明的な場面だ。
オリジナル版では、何も説明もないまま、いきなりアン・ダロウが果物屋で林檎を盗む場面が描かれる。
同時代であれば、それで通用したかもしれない。
当時がどんな時代であったか、同時代であれば説明されずとも了解が得られたかもしれない。
だが、この映画は70年前の昔を描いた作品だ。当時がどんな時代で、どんな風俗を持っていたのか、改めて知る必要がある。
2005年版の『キング・コング』には多くの追加シーンがあるが、あくまでもドラマの構築として必要最低限のものでしかない。
71e068fe.jpgいくつもの名シーンを復活させた『キングコング』。V-レックスとの対決シーンは旧作どおりの構図、展開にスケールだけが増幅されている。旧作への愛情が見えるシーンだ。



2005年版の『キング・コング』において大きな違いは、次の二つだ。
一つは、脚本家ドリスコルの登場だ。
475260b2.jpg旧作にもドリスコルに相当するような人物はいたが、ずっと曖昧で、特に重要なキャラクターではなかった。
2005年版の『キング・コング』ではアン・ダロウと心を通じ合わせる人物として、その重要度を高めている。
もう一つは、金髪の美女アン・ダロウと霊獣キング・コングとのかかわり方だ。
旧作ではアン・ダロウは、恐ろしい怪物から、ただ悲鳴を上げて逃げ回るだけだった。
それが、リメイク版『キング・コング』では濃密にキングコングと心を通わせ、ともに地平線に浮かぶ太陽を眺める。
e9e6fab1.jpg何もかもが、ピーター・ジャクソンが子供時代に感じた感情を再現するためだ。
未知の世界への冒険に胸を躍らせ、ラストのキングコングの死に涙する。
変更点が加えられたのは、当時の人が感じ、子供であったピーター・ジャクソンが感じた感情を、多くの現代人の胸に再現するためだ。
最新のデジタル技術が甦らせた『キング・コング』。
だがピーター・ジャクソンが本当に甦らせたかったのは、当時と同じ“感動”なのである。

1933年オリジナル『キング・コング』の記事へ
『キング・コング デラックス・エクステンテッド・エディション』の記事へ

映画記事一覧

作品データ
監督・脚本:ピーター・ジャクソン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン
出演:ナオミ・ワッツ エイドリアン・ブロディ
〇〇〇ジャック・ブラック トーマス・クレッチマン
〇〇〇コリン・ハンクス ジェイミー・ベル
〇〇〇エヴァン・パーク アンディ・サーキス



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