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■2009/09/03 (Thu)
映画:外国映画■
『キング・コング・デラックス・エクステンデッド・エディション』は、映画『キング・コング』に13分の未公開シーンを加えたロングバージョンだ。
ピーター・ジャクソン監督によるエクステンデッド・エディションは、すでに『キング・コング』を鑑賞したファン向けに制作されている。
だから、物語が延長されたことによって、ドラマに厚みが増えたということはないし、意外な展開や、意外な事実が明かされることもない。
『キング・コング』に関する詳しい解説はすでに書いたので、ここでは省略する。
2005年版『キング・コング』の記事へ
ここでは、エクステンデッド・エディション版で追加されたシーンについて、解説する。
最初の追加シーンは、トリケラトプスの襲撃シーンだ。
壁の向うに突入したカール・デナムたちが、最初に遭遇する恐竜だ。
このトリケラトプスは、33年版『キング・コング』にも登場した。これで、よりオリジナル版に近付いたといえる。
こちらも33年版『キング・コング』にも描かれた場面だ。
「やめろ! なんてことだ……」
茂みの向こうに走るジャック。そこにいたのは、なんと絶滅種のドードーだった。
劇場公開版になくて正解。ジョークだが、あまり笑えるものではない。
谷底に落ちたジャックたち。バクスターの救出によって危機を逃れ、谷底から這い上がろうとする。
ジミーは谷底から昇る前に、ヘイズの帽子を手に取り被る。
同じく谷底から昇ろうとするカール・デナム。
だが、カール・デナムの正気は失いかけようとしている。
カール・デナムが一線を越える直前を描く、重要な場面だ。
このトラックの中にいる兵士たちは、実は俳優ではなく、映画の製作スタッフたち。
要するに、内輪受けを狙った楽屋落ちシーン
1933年オリジナル『キング・コング』の記事へ
劇場公開版『キング・コング(2005)』の記事へ
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ピーター・ジャクソン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン
出演:ナオミ・ワッツ エイドリアン・ブロディ
〇〇〇ジャック・ブラック トーマス・クレッチマン
〇〇〇コリン・ハンクス ジェイミー・ベル
〇〇〇エヴァン・パーク アンディ・サーキス
ピーター・ジャクソン監督によるエクステンデッド・エディションは、すでに『キング・コング』を鑑賞したファン向けに制作されている。
だから、物語が延長されたことによって、ドラマに厚みが増えたということはないし、意外な展開や、意外な事実が明かされることもない。
『キング・コング』に関する詳しい解説はすでに書いたので、ここでは省略する。
2005年版『キング・コング』の記事へ
ここでは、エクステンデッド・エディション版で追加されたシーンについて、解説する。
(DISC1 CH28 1:14:10)
最初に遭遇するはずだったトリケラトプス。この怪獣は、旧作では俳優がスクリーンに映る怪獣の前に立ち、銃を撃つなどの演技をする場面だった。デジタルによって、カメラを移動させつつ、立体的に俳優と演技するようになった。このトリケラトプスがカットされたのは、次に登場するブロントサウルスのインパクトを強くするためだろう。最初の追加シーンは、トリケラトプスの襲撃シーンだ。
壁の向うに突入したカール・デナムたちが、最初に遭遇する恐竜だ。
このトリケラトプスは、33年版『キング・コング』にも登場した。これで、よりオリジナル版に近付いたといえる。
(DISC2 CH6 0:18:33)
続いて削除された水中怪獣のシーン。強烈なシーンが削除されているが、公開時間の長さ以上に、観客が初めて見るインパクトを大事にしたかったためだろう。エクステンテッド・エディションの観客は、基本的に「2度目のお客さん」を想定しているのだろう。
バクスターがジャングルから退散した後、ジャックたちは筏を組んで、川を横断する(この直前に、筏を組む場面が少しだけ加えられている)。
筏で川を横断しようとするが、やはりここでも水中に潜む怪物に襲われる。こちらも33年版『キング・コング』にも描かれた場面だ。
(DISC2 CH7 0:24:21)
絶滅種のドードーを撃ってしまい、「なんてことだ!」と嘆くシーン。ピーター・ジャクソンらしいジョークだが、映画の雰囲気とあっていないし、面白くないので削除されて正解。
ジャングルを彷徨うアン・ダロウ。アン・ダロウを探すジャックたちの場面が交差する。
ふとランピーが茂みの向うに動く気配に向かって、銃を掃射する。「やめろ! なんてことだ……」
茂みの向こうに走るジャック。そこにいたのは、なんと絶滅種のドードーだった。
劇場公開版になくて正解。ジョークだが、あまり笑えるものではない。
(DISC2 CH10 0:47:07)
カール・デナムは初めから狂人だったわけではない。ジャングルの毒気に晒され、次第に変化していき、フィルムを失ったことにより、一線を越えた。穴のシーンはその瞬間を描く貴重な場面。谷底に落ちたジャックたち。バクスターの救出によって危機を逃れ、谷底から這い上がろうとする。
ジミーは谷底から昇る前に、ヘイズの帽子を手に取り被る。
同じく谷底から昇ろうとするカール・デナム。
だが、カール・デナムの正気は失いかけようとしている。
カール・デナムが一線を越える直前を描く、重要な場面だ。
(DISC2 CH20 1:32:16)
ちなみに、『エクステンテッド・エディション』のディスクには、他にも編集に加えられなかった未公開シーンがあるので、こちらもなかなか面白いシーンがあるので要注目だ。
アン・ダロウを連れさらったキングコングを、軍隊が追跡する。
あるトラックの中では、鬼軍曹が部下たちに檄を飛ばしている。このトラックの中にいる兵士たちは、実は俳優ではなく、映画の製作スタッフたち。
要するに、内輪受けを狙った楽屋落ちシーン
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劇場公開版『キング・コング(2005)』の記事へ
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ピーター・ジャクソン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン
出演:ナオミ・ワッツ エイドリアン・ブロディ
〇〇〇ジャック・ブラック トーマス・クレッチマン
〇〇〇コリン・ハンクス ジェイミー・ベル
〇〇〇エヴァン・パーク アンディ・サーキス
たまには個人的な話。
というか、映画に対する愚痴です。
製作途中のアニマティックス映像。キングコングとV-レックスの水中戦が描かれている。こちらも、ぜひ完成したものが見たかった。だが、映画が「物語」という制約に捉われている限り、こういった実験映像は具現化しない。この際だから、新しいジャンルの映像、新しい形式の映像が必要になってもいいんじゃないだろうか。
映画には、多様な魅力がある。
俳優の演技であり、映像の美しさであり。人によって、映画に求めるもの、注目する方向は違う。
私の場合、映画がいちばん盛り上がると思うのはアクション(バトル)・シーンだ。もちろん、アクション映画に限定した話だが(以下の話も、全てアクション映画だけに限定した話です)。
映画『キング・コング』の場合、いちばん好きなシーンはキングコングとV-レックスとの対決シーンだ。
現実世界では絶対にありえない組み合わせで、現時世界では絶対に実現不能のバトルロワイヤル。盛り上がらないわけがない。
『キングコング』で最も熱狂的する場面はここであり、映画という非現実空間だから実現可能となったシーンだ。
だが、映画におけるバトルシーンはどんなに魅力的でも、脚本によってその限界は制限される。
バトルが始まって、「盛り上がった!」と思ったらすぐに終わってしまう。次のバトルが始まるまで、退屈な言葉のやり取りが始まる。次のバトルへの理屈付けでしかない、無意味な対話だ。
映画にとってのアクションとは、映画から現実を乖離させ、観る者を非現実空間に没入させ、異界的な熱狂を生み出す装置である。映画という夢世界を提供することが本旨とする娯楽において、真に夢想が立ち現れるのは、アクションという狂騒の瞬間である。
だがアクションが生み出す狂騒も、物語によって制限され、スクリーン全体を覆った熱狂は瞬時に冷まされてしまう。
映画のドラマを盛り上げ、観客を感動に導くのは脚本である、という見解に間違いはない。
脚本がなければ、観客の同意が得られず、プロデューサーを説得することすらできなくなる。
脚本がなければ監督とプロデューサーは映画の解説ができないし、提示することもできない。脚本のない映画とは、映画監督の頭脳だけに存在する映画だ。
そんな映画は、我々の物質現実世界には存在しない。
それでも、あえて私はこう言う。映画の(ある種の)可能性を制限しているのは物語であり、脚本だ、と。
言語は、確かに大多数の人に対して意識を共有するための手段である。
一方で言語は、すでに通俗化した概念しか提示することができない。言語で規定されたイメージに、映画監督の独自性などない。言語で示された対象は、その時点で新規なものとしての魔力を失っているのだ。
だから私が時々考えるのは、物語という足枷から解放された映画だ。
もちろん、その場合でも、時間的制約が映画を制限する。映画の制限するのは、時間的制約で充分というわけだ。
バトルに至るまでの理屈付けに過ぎない物語を排除し、ただ戦闘があり、熱狂と狂騒が映画全体を包み込む。言語という通俗化された概念からも映画は解放され、完全に自己完結した異界的世界が支配する映画だ。
一言で形容するなら『バトル・オンリー・ムービー』。
と、希望を書いても、私自身どこかに企画書を提示する立場でもないし、そうした映像を具体的に提示する技術もなければ、実現する資金もない。
もっとも、もし実現できたとしても現状の技術で上映可能な映画館はないし、上映したところで観客を困惑させるだけだろう。
結局は、私の頭の中だけにしか存在しない映画の話だ。
無駄に話が長くて、しかもただの希望の話でスマン。
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