たまには個人的な話。
というか、映画に対する愚痴です。
製作途中のアニマティックス映像。キングコングとV-レックスの水中戦が描かれている。こちらも、ぜひ完成したものが見たかった。だが、映画が「物語」という制約に捉われている限り、こういった実験映像は具現化しない。この際だから、新しいジャンルの映像、新しい形式の映像が必要になってもいいんじゃないだろうか。
映画には、多様な魅力がある。
俳優の演技であり、映像の美しさであり。人によって、映画に求めるもの、注目する方向は違う。
私の場合、映画がいちばん盛り上がると思うのはアクション(バトル)・シーンだ。もちろん、アクション映画に限定した話だが(以下の話も、全てアクション映画だけに限定した話です)。
映画『キング・コング』の場合、いちばん好きなシーンはキングコングとV-レックスとの対決シーンだ。
現実世界では絶対にありえない組み合わせで、現時世界では絶対に実現不能のバトルロワイヤル。盛り上がらないわけがない。
『キングコング』で最も熱狂的する場面はここであり、映画という非現実空間だから実現可能となったシーンだ。
だが、映画におけるバトルシーンはどんなに魅力的でも、脚本によってその限界は制限される。
バトルが始まって、「盛り上がった!」と思ったらすぐに終わってしまう。次のバトルが始まるまで、退屈な言葉のやり取りが始まる。次のバトルへの理屈付けでしかない、無意味な対話だ。
映画にとってのアクションとは、映画から現実を乖離させ、観る者を非現実空間に没入させ、異界的な熱狂を生み出す装置である。映画という夢世界を提供することが本旨とする娯楽において、真に夢想が立ち現れるのは、アクションという狂騒の瞬間である。
だがアクションが生み出す狂騒も、物語によって制限され、スクリーン全体を覆った熱狂は瞬時に冷まされてしまう。
映画のドラマを盛り上げ、観客を感動に導くのは脚本である、という見解に間違いはない。
脚本がなければ、観客の同意が得られず、プロデューサーを説得することすらできなくなる。
脚本がなければ監督とプロデューサーは映画の解説ができないし、提示することもできない。脚本のない映画とは、映画監督の頭脳だけに存在する映画だ。
そんな映画は、我々の物質現実世界には存在しない。
それでも、あえて私はこう言う。映画の(ある種の)可能性を制限しているのは物語であり、脚本だ、と。
言語は、確かに大多数の人に対して意識を共有するための手段である。
一方で言語は、すでに通俗化した概念しか提示することができない。言語で規定されたイメージに、映画監督の独自性などない。言語で示された対象は、その時点で新規なものとしての魔力を失っているのだ。
だから私が時々考えるのは、物語という足枷から解放された映画だ。
もちろん、その場合でも、時間的制約が映画を制限する。映画の制限するのは、時間的制約で充分というわけだ。
バトルに至るまでの理屈付けに過ぎない物語を排除し、ただ戦闘があり、熱狂と狂騒が映画全体を包み込む。言語という通俗化された概念からも映画は解放され、完全に自己完結した異界的世界が支配する映画だ。
一言で形容するなら『バトル・オンリー・ムービー』。
と、希望を書いても、私自身どこかに企画書を提示する立場でもないし、そうした映像を具体的に提示する技術もなければ、実現する資金もない。
もっとも、もし実現できたとしても現状の技術で上映可能な映画館はないし、上映したところで観客を困惑させるだけだろう。
結局は、私の頭の中だけにしか存在しない映画の話だ。
無駄に話が長くて、しかもただの希望の話でスマン。
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