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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
バイオハザードの脅威が世界中に広がり、地上はゾンビたちの支配する地獄に変わっていた。地上から文明の光は消え、人間
生き残った人たちは少数で固まり、サバイバルの生活を続けて
そんな僅かに残った人間の包囲網も、次第にゾンビの脅威によって狭められていく……。
おぞましく体が崩れ、不気味な唸り声を上げるゾンビたち……。
おそらく制作者は、ゾンビを恐怖の対象ではなく、もっと純粋な
だからなのか、映画中には次から次へとオリジナル・ゾンビが登場する。犬ゾンビにカラスゾンビ。前作である『バイオハザード
『バイオハザード3』にしてようやく気付いたのだが、このシリー
ゲームの映画化は一般の観客だけではなく、ゲーム・ファンにすら嫌われるいちジャンルである。
――あなたは理由もわからないまま荒れ果てた廃墟で目を覚ま
どんな状況で、どんなふううに敵が飛び出し、プレイヤーはどこへ向っていくのか。
『シチュエーション』こそが現代ゲームの本質である。
そのシチューションの構造には、観察主義に基づく映像が必須である。当然、映像として表現するのだから、映画的な技法や表現にも接近する。そうすると、ハリウッド映画の本質に近付きはじめる。
ハリウッド映画の多くは理屈がない。まずシチュエーションがあり、そのシチュエーションを説明するだけの少々の「理屈」だけがある。
だからゲームの映画化は、かつてより製作しやすくなっているはずなのである。
だが現代の“ゲームの映画化”は、ゲームで描かれた映像や演出からほとんど改編を加える必要がない。むしろゲームのイメージを増幅させてくれる。
しかし一方で、ジレンマもある。
ゲームはどんなに映画を指向しても映画にはなれないし、映画はどんなにゲームのシチュエーションを再現してもゲームにはなれない。
この対立をいかに解消するか。
“ゲームの映画化”という課題は、まだ全て達成させられていない。
映画記事一覧
作品データ
監督:ラッセル・マルケイ
音楽:チャーリー・クロウザー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ オデッド・フェール
〇 アリ・ラーター イアン・グレン
〇 アシャンティ クリストファー・イーガン
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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
――ドッグヴィル。
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
冒頭で明らかにしているが、トムが良心を示したい動機は自身が尊敬されたいからだ。グレースを匿おうという発想も、良心ではなくエゴに基づくものだ。
そんなある日の夕暮れ。風の音に紛れて、トムは銃声を聞いた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
ラース・フォン・トリアー監督は『ドッグヴィル』の映像を、子供と遊んだRPGから着想を得た。なるほど、俯瞰から見た映像は確かにRPGだ。線だけの壁や記号的に置かれた家具、ノックのふりなど、どれもRPG(それも古き良きファミコン時代の)を連想させる。私もRPGは数十本遊んだがこんな映像など思いつかなかった。
映画『ドッグヴィル』には広いステージと白線だけしかない。明確なセットはなく、場所を説明する小道具や家具が点々とあるだけだ。家と家と区切るドアすらなく、役者たちは子供のごっこ遊びのように何もない場所をノックしている。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
『ドッグヴィル』のカメラは常にゆらゆらと揺れて、照明は暗く、俳優の顔も暗く影が落ちる。映画にはいわゆる映画的リアリティは皆無だが、異様な生々しさに満ちている。
ドッグヴィルの町の人々は、グレースを受け入れ、匿おうと一時は結束する。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
町の人たちは一度は結束する。しかし一枚の手配写真で、その決心をあっさりと変えてしまう。権力者からの軽い脅し。この程度の切っ掛けで街の人たちの結束は脆く崩壊する。
「人はどこでも同じだと思い知った。獣のように貪欲だ。餌を与えれば、腹が破裂するまでむさぼる」
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
良心や理想、道徳は、一種の快楽装置だ。良心はその人間に陶酔的な恍惚感を与える。“正義の側にいる”と。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、
良心や理想といった演技状態を維持するのは困難になる。
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
客人の訪問は人間の本性を容赦なく剥き出しにする。むしろ今まで、隣人だからこそ我慢してきた欲望や抑圧が、客人に対して一気に放出される。暴力的欲動や性欲。客人が美しく力が弱いと、よりあからさまに欲望が姿を現す。グレースは町の人たちが隠蔽してきたエゴを暴き立てる。この映画を見終わった後はしばらく人間不信になる。
グレースはドッグヴィルの町の人々を静かに審査する。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
ドッグヴィルの町に良心が完全に消えうせ、愚かしさ一杯に満ちたとき、グレースは町の人々に然るべきジャッジを下す。
愚かしさには罰を与えねばならない。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
そこは深い森の闇の奥。文明の光がまだ届かない場所に、1つの部族が小さな村を作って過ごしていた。訪ねる者は少なく、一族の者も、外の世界を知らずにいた。
ある朝、ジャガーと呼ばれる村の若者は夢を見ていた。
森の影から現われる男。
男は引き攣った表情で凍りつき、喘ぐように空気を求めていた。
「何か用か?」
ジャガーの問いは不自然なくらい冷徹だった。
すると男は、息を止めて「気をつけろ!」と叫んだ。
そこでジャガーは目を覚ました。
まだ朝の早い時間だ。村の広場に、暗い影が落ちている。夜明けの輝きは、まだ茂みの向うに留まっている。
犬が騒がしく吠えている。ジャガーはまどろみに戻るつもりもなく、寝床を後にして、村の広場に目を向けた。
村の人達はまだみんな眠っている。静かな様子だが、犬だけが騒がしく吠え続けている。
が、急に犬の鳴き声がやんだ。
何だ。
緊張を感じた瞬間、向うの家の影に、ふっと何者かの影が現れた。
侵入者だ!
ジャガーは危険を察知し、妻と子を起こして家を飛び出した。
侵入者たちは間もなく姿を現し、村を襲った。各家に火をつけ、飛び
出してきた村人を攻撃し、手と足を縄で縛りつけた。
ジャガーは妻と子を村の外れの大穴まで行き、その影の中に妻と子を隠した。
「必ず助けに戻る!」
ジャガーは妻と子に言い残すと、村人たちを助けに戻った。
村では戦いが始まった。あちこちで悲鳴が上がり拳が振り下ろされていた。だが敵は鍛えられたマヤの戦士だった。マヤの戦士の強さは圧倒的で、鍛えられたナイフを持っていた。
村はたちまち占領され、人々は捕らえられてしまう。ジャガーも力及ばず、父親が殺され、侵入者に捕らえられてしまう。

ファンタジーの創作について一般に抱かれがちな誤解がある。「ファンタジーは子供向けだから、通俗的なものを羅列させればよい」という考え方だ。実際はファンタジーほど考証と学術が必要なものはない。
映画『アポカリプト』は知られざるマヤ文明を描いた作品だ。
16世紀中頃。ユカタン半島にスペイン人が侵略し、間もなく崩壊の時を迎えようとするマヤ文明。文明の中心地は狂気に捉われて、自滅に向かい進んでいる。
だが、映画にはマヤ文明の崩壊そのものは描かれていない。
物語の中心となるのはマヤ文明に襲撃された周辺の村と、脱出する男の壮絶な追跡劇だ。ジャングルを中心に、逃亡者とマヤの戦士による力と力、肉体と肉体のぶつかり合い。
安直な特撮やデジタルの力には頼らない、直球的な腕力勝負で挑みかける映画だ。
マヤ文明の中心地は間違いなく最も予算が掛けられている。映画の予算は常に限られているし、どこに力を注ぐかで監督の判断力が問われる。映画監督には会計士の才能も必要なのだ。
『アポカリプト』は『パッション』に続いて、死語になった言語だけで撮影された映画だ。聞きなれない言葉が、異国的な空気を増幅させている。
世界観の造形はマヤ文明を下敷きにしているが、さらに空想の力で膨らませている。実際の時代考証とは違
うが、それはあくまでもフィクション、あるいはファンタジー映画だと思って接すればいいだろう。
衣装や入れ墨、住居といったディティールが詳らかに描写され、民族の暮らしをリアリズムを持って描き出している。マヤ文明の住人は、原初的な狩猟採取の生活を送っているが、いかにも劣った原始人として描かれていない。聡明で文化的で、なによりそれぞれが美意識を持って自身を飾り立てている。
有名俳優が1人も登場しない映画だが、俳優達の容姿、肉体は美しく、簡素な装飾で飾り立てられた姿が肉体の美しさを際立たせている。
肉弾アクションの連発。アクション俳優だったメル・ギブソンらしい演出だ。対決の構図の作り方など作法を心得ている感じだ。左カットでは本物のジャガーに追いかけられている。容赦のない演出だ。
アクションが中心の映画だが、『アポカリプト』は余計な小細工が使われていない。デジタル技術や飛躍したアイテム、怪獣キャラクターも登場しない。
とことん肉体でぶつかり合い、全力で疾走する映画だ。
“血沸き肉踊る”という言葉どおりの展開が矢継ぎ早に迫ってくる。
映画『アポカリプト』はファンタジーのお手本としてよく練られているし、エンターティメント映画として骨のある映画だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:メル・ギブソン
音楽:ジェームズ・ホーナー 脚本:ファラド・サフィニア
出演:ルディ・ヤングブラッド ダリア・エルナンデス
〇 ジョナサン・ブリューワー ラオール・トゥルヒロ
〇 モリス・バード ヘラルド・タラセナ
〇 ルドルフォ・パラシオス フェルナンド・エルナンデス
ある朝、ジャガーと呼ばれる村の若者は夢を見ていた。
男は引き攣った表情で凍りつき、喘ぐように空気を求めていた。
「何か用か?」
ジャガーの問いは不自然なくらい冷徹だった。
すると男は、息を止めて「気をつけろ!」と叫んだ。
そこでジャガーは目を覚ました。
まだ朝の早い時間だ。村の広場に、暗い影が落ちている。夜明けの輝きは、まだ茂みの向うに留まっている。
犬が騒がしく吠えている。ジャガーはまどろみに戻るつもりもなく、寝床を後にして、村の広場に目を向けた。
村の人達はまだみんな眠っている。静かな様子だが、犬だけが騒がしく吠え続けている。
が、急に犬の鳴き声がやんだ。
緊張を感じた瞬間、向うの家の影に、ふっと何者かの影が現れた。
侵入者だ!
ジャガーは危険を察知し、妻と子を起こして家を飛び出した。
侵入者たちは間もなく姿を現し、村を襲った。各家に火をつけ、飛び
ジャガーは妻と子を村の外れの大穴まで行き、その影の中に妻と子を隠した。
「必ず助けに戻る!」
ジャガーは妻と子に言い残すと、村人たちを助けに戻った。
村はたちまち占領され、人々は捕らえられてしまう。ジャガーも力及ばず、父親が殺され、侵入者に捕らえられてしまう。
16世紀中頃。ユカタン半島にスペイン人が侵略し、間もなく崩壊の時を迎えようとするマヤ文明。文明の中心地は狂気に捉われて、自滅に向かい進んでいる。
だが、映画にはマヤ文明の崩壊そのものは描かれていない。
物語の中心となるのはマヤ文明に襲撃された周辺の村と、脱出する男の壮絶な追跡劇だ。ジャングルを中心に、逃亡者とマヤの戦士による力と力、肉体と肉体のぶつかり合い。
安直な特撮やデジタルの力には頼らない、直球的な腕力勝負で挑みかける映画だ。
世界観の造形はマヤ文明を下敷きにしているが、さらに空想の力で膨らませている。実際の時代考証とは違
衣装や入れ墨、住居といったディティールが詳らかに描写され、民族の暮らしをリアリズムを持って描き出している。マヤ文明の住人は、原初的な狩猟採取の生活を送っているが、いかにも劣った原始人として描かれていない。聡明で文化的で、なによりそれぞれが美意識を持って自身を飾り立てている。
有名俳優が1人も登場しない映画だが、俳優達の容姿、肉体は美しく、簡素な装飾で飾り立てられた姿が肉体の美しさを際立たせている。
とことん肉体でぶつかり合い、全力で疾走する映画だ。
“血沸き肉踊る”という言葉どおりの展開が矢継ぎ早に迫ってくる。
映画『アポカリプト』はファンタジーのお手本としてよく練られているし、エンターティメント映画として骨のある映画だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:メル・ギブソン
音楽:ジェームズ・ホーナー 脚本:ファラド・サフィニア
出演:ルディ・ヤングブラッド ダリア・エルナンデス
〇 ジョナサン・ブリューワー ラオール・トゥルヒロ
〇 モリス・バード ヘラルド・タラセナ
〇 ルドルフォ・パラシオス フェルナンド・エルナンデス
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
同じ頃、アパートの隣部屋に若い女性が引っ越してくる。ステファニーだ。
うまくいかない現実の不満を、ステファンは夢の中でぶちまける。
夢の中が子供じみているように、ステファン自身、子供だった。
夢とは現実の縮図であり、本人の主観によって再構築された一
ステファンは自分の夢に、何でも取り入れようとしていた。はじめは世界を自分の思い通りに描くために。嫌いなものを排除
しかし夢はやがて主体意思を持ち始め、ステファニーを得ようとする。夢は暴走し、願望は悪夢をもたらす。
今度はステファニーが、ステファンの夢の中に潜り込んでいく。
映画と夢は似ている。映画は夢のイメージと現実を繋ぎ合わせた姿をこの世に現出させる手段であり、装置だ。
ただし映画は、徹底的に制御され、社会性が意識されている。
『恋愛睡眠のすすめ』では意識的に“無秩序”の状態が演出されている。
しかし、渾沌とした夢世界に恐ろしげなものはない。子供のおもちゃ箱のように、温かみに溢れている。
『恋愛睡眠のすすめ』は映画の実体の1つである夢を描いた作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督:ミシェル・ゴンドリー
音楽:ジャン=ミシェル・ベルナール
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル シャルロット・ゲンズブール
〇 ミュウ=ミュウ アラン・シャバ
〇 エマ・ドゥ・コーヌ ピエール・ヴァネック
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
焔をまとった岩石はが次々と迫り、ニューヨークの高層ビルを次々と破壊する。高く聳え立つビルの先端は潰され、
それは遥か天空から放たれたものだった。青空よりもずっと向う、漆黒の宇宙からからだ。だがそれは、本当の危機への序章に過ぎなかった。
その日まで、あと18日。
映画は、見る者の想像をはるかに越えて展開していく。
シーンの一つ一つはファンタジックで、古典的な科学冒険ものを髣髴とさせる。
特撮やデジタルが中心だが、パニック映画の要素をふんだんに取り入れている。
それに映像が美しい。どのシーンも光が自在に制御され、色彩を感じる感性は極めて高い。
物質の質感は、光の効果によって実際以上の迫力を与えている。破
そうしたカットの数々が、とてつもない速度で連続する。それが見るものの判断力を越えて、圧倒的な印象を与えている。
ド派手なアクションの次はロマンス。その次はまたアクションといった具合で落ち着きがない。どの台詞も解説としてもドラマとしても機能せず、クライマックスシーンだけが次々と性急に迫ってくる感じだ。
一方で、『アルマゲドン』のような特撮映画の周辺を見ると、人々の葛藤がわかる。
「特撮ばかりの映画は、退屈だ」「最近の映画は、デジタルに頼ってばかりだ」
しかし一方で、物語中心の映画に接すると退屈してしまう。台詞がドラマとして機能しはじめるまで我慢ができない。
「痛快な“見世物”としての特撮映画に飽きているが、物語映画を最後まで見通す根気がない」
技術の映画か、物語の映画か。そのどちらにも移れない。
映画が迷走するのではない。映画の鑑賞者が、自身の望みがわからず迷走するのだ。
それでも美しい映像が圧倒的印象をもたらしている。
力のあるアクション、破壊、渾沌。
カットがとてつもない速度で羅列し見る者に強烈な心理作用を与える。
台詞のつくりはどれも子供じみている。だが音楽と映像美によって、強引にシーンを成立させてしまっている。
ドラマとしての映画はすでに解体している。高度に発達した映画技術が新たな種類の映画を誕生させたのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:マイケル・ベイ 音楽:トレヴァー・ラビン
脚本:ジョナサン・ヘンズリー J・J・エイブラムス
スコット・マイケル・ローゼンバーグ
出演:ブルース・ウィリス ベン・アフレック
〇 リヴ・タイラー ウィル・パットン
〇 スティーヴ・ブシェミ オーウェン・ウィルソン