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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
――ドッグヴィル。
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
冒頭で明らかにしているが、トムが良心を示したい動機は自身が尊敬されたいからだ。グレースを匿おうという発想も、良心ではなくエゴに基づくものだ。
そんなある日の夕暮れ。風の音に紛れて、トムは銃声を聞いた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
ラース・フォン・トリアー監督は『ドッグヴィル』の映像を、子供と遊んだRPGから着想を得た。なるほど、俯瞰から見た映像は確かにRPGだ。線だけの壁や記号的に置かれた家具、ノックのふりなど、どれもRPG(それも古き良きファミコン時代の)を連想させる。私もRPGは数十本遊んだがこんな映像など思いつかなかった。
映画『ドッグヴィル』には広いステージと白線だけしかない。明確なセットはなく、場所を説明する小道具や家具が点々とあるだけだ。家と家と区切るドアすらなく、役者たちは子供のごっこ遊びのように何もない場所をノックしている。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
『ドッグヴィル』のカメラは常にゆらゆらと揺れて、照明は暗く、俳優の顔も暗く影が落ちる。映画にはいわゆる映画的リアリティは皆無だが、異様な生々しさに満ちている。
ドッグヴィルの町の人々は、グレースを受け入れ、匿おうと一時は結束する。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
町の人たちは一度は結束する。しかし一枚の手配写真で、その決心をあっさりと変えてしまう。権力者からの軽い脅し。この程度の切っ掛けで街の人たちの結束は脆く崩壊する。
「人はどこでも同じだと思い知った。獣のように貪欲だ。餌を与えれば、腹が破裂するまでむさぼる」
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
良心や理想、道徳は、一種の快楽装置だ。良心はその人間に陶酔的な恍惚感を与える。“正義の側にいる”と。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、良心や理想といった演技状態を維持するのは困難になる。
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
客人の訪問は人間の本性を容赦なく剥き出しにする。むしろ今まで、隣人だからこそ我慢してきた欲望や抑圧が、客人に対して一気に放出される。暴力的欲動や性欲。客人が美しく力が弱いと、よりあからさまに欲望が姿を現す。グレースは町の人たちが隠蔽してきたエゴを暴き立てる。この映画を見終わった後はしばらく人間不信になる。
グレースはドッグヴィルの町の人々を静かに審査する。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
ドッグヴィルの町に良心が完全に消えうせ、愚かしさ一杯に満ちたとき、グレースは町の人々に然るべきジャッジを下す。
愚かしさには罰を与えねばならない。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
冒頭で明らかにしているが、トムが良心を示したい動機は自身が尊敬されたいからだ。グレースを匿おうという発想も、良心ではなくエゴに基づくものだ。
そんなある日の夕暮れ。風の音に紛れて、トムは銃声を聞いた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
ラース・フォン・トリアー監督は『ドッグヴィル』の映像を、子供と遊んだRPGから着想を得た。なるほど、俯瞰から見た映像は確かにRPGだ。線だけの壁や記号的に置かれた家具、ノックのふりなど、どれもRPG(それも古き良きファミコン時代の)を連想させる。私もRPGは数十本遊んだがこんな映像など思いつかなかった。
映画『ドッグヴィル』には広いステージと白線だけしかない。明確なセットはなく、場所を説明する小道具や家具が点々とあるだけだ。家と家と区切るドアすらなく、役者たちは子供のごっこ遊びのように何もない場所をノックしている。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
『ドッグヴィル』のカメラは常にゆらゆらと揺れて、照明は暗く、俳優の顔も暗く影が落ちる。映画にはいわゆる映画的リアリティは皆無だが、異様な生々しさに満ちている。
ドッグヴィルの町の人々は、グレースを受け入れ、匿おうと一時は結束する。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
町の人たちは一度は結束する。しかし一枚の手配写真で、その決心をあっさりと変えてしまう。権力者からの軽い脅し。この程度の切っ掛けで街の人たちの結束は脆く崩壊する。
「人はどこでも同じだと思い知った。獣のように貪欲だ。餌を与えれば、腹が破裂するまでむさぼる」
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
良心や理想、道徳は、一種の快楽装置だ。良心はその人間に陶酔的な恍惚感を与える。“正義の側にいる”と。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、良心や理想といった演技状態を維持するのは困難になる。
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
客人の訪問は人間の本性を容赦なく剥き出しにする。むしろ今まで、隣人だからこそ我慢してきた欲望や抑圧が、客人に対して一気に放出される。暴力的欲動や性欲。客人が美しく力が弱いと、よりあからさまに欲望が姿を現す。グレースは町の人たちが隠蔽してきたエゴを暴き立てる。この映画を見終わった後はしばらく人間不信になる。
グレースはドッグヴィルの町の人々を静かに審査する。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
ドッグヴィルの町に良心が完全に消えうせ、愚かしさ一杯に満ちたとき、グレースは町の人々に然るべきジャッジを下す。
愚かしさには罰を与えねばならない。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
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作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート
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