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■2010/01/21 (Thu)
映画:外国映画■
第1章 旅の仲間
THE FELLOWSHIP OF THE RING
THE FELLOWSHIP OF THE RING
言葉は神話に思いを馳せるように、渾沌の闇から聞こえてきた。
太陽は今のようにぬくもりはなく、石は今のように固くなかった。人は巨人と暮らし、神々の祝福がすべてを覆っていた。
だがかの時代の言葉はもう我々は知らない。その断片を耳にするばかりだが、そこにどんな精神が込められていたのか――かつてを訊ねて歩こうとする者もいなくなった。
歴史が本にまとめられ忘却される以前、人々は本当の英雄物語を歌にして語っていた。人間はもっと大きく、偉大で強かった。精神は気高く純潔で、一方でどこまでも邪だった。
そんな時代には古里と呼ぶべき場所があった。誰もが懐かしく心に思い描き、2度と戻っていけない場所。私たちは風景の中にその断片を見つけては心を痛め、涙を浮かべている。知らないのに、誰もがその場所を求めている。
人間は何もかも忘れてしまった。妖精たちと戯れた幸福なひとときを。古里の憩いを。邪悪な魔物と戦った英傑たちの勇気を。
人々は失われた扉を求めて、彷徨い続けている。
全ては指輪の誕生から始まった。
3つの指輪が不死の命を持つ美しい種族、エルフに託された。
7つの指輪が鉱石採掘と細工物に優れた種族、ドワーフに託され
9つの指輪は欲望と権力にまみれた人間達に託された。
それぞれの族長たちは指輪の力で、それぞれの土地を治めるはずだった。
だが指輪はもう1つあった。
モルドール国の火を吹く《滅びの山》に住まう冥王サウロンが密かに1つの指輪を作っていた。それは他のどの指輪よりも力を持っていた。サウロンはその指輪の力で、中つ国(ミドルアース)のすべてを支配しようとした。
人間とエルフは協力して連合軍を作り、サウロンの魔の軍団と戦った。その最後は人間の英雄イシルドゥアの剣によってサウロンは討ち滅ぼされた。
歴史は伝説となり、伝説は神話へ――。
かの戦いから2500年の歳月が流れていった。指輪を知る者はなく、戦いは歴史の一幕として忘却し、指輪の存在も同時に忘れられた。
しかしふとした切っ掛けで指輪は新しい持ち主を捕えた。
どの歴史にも掲載されない、特別な力も優れた知識も持たない小さな人たち――ホビット族であった。
ホビットたちは住処を4つの区域に分けて長年暮らしていた。その他の種族はホビットに無関心か、あるいは御伽噺の存在として切り捨
ホビットたちが情熱を傾けるのは食べることだけと言われているが、それは一面的な性格でしかない。ホビットたちの関心ごとはビールやパイプ草と実に様々だ。だが何より愛するのは、平和な静けさとよく耕された大地。ホビットは育ち行く生命を愛おしむ。
他の種族から見れば風変わりな暮らしと思うだろう。だがホビットの人たちはのんびりした生活の中でこう思っている。「そんな単純な暮らしを祝福するのも悪くない」と。
ホビット庄の暮らしはこうして脈々と続いてきた。小さな事件は起きても暮らしはずっと変わらない。ごく僅かな変化があるだけだ。この土地が世代を越えてすべてを受け継いでいく。――そう、これからも。
その日はビルボの111歳の誕生日だった。平均寿命100歳といわれるホビットたちの中でも111歳のビルボは記録的な高齢だった。ホビット庄には多くの人達が集り、祝賀ムードに湧き上がっていた。
魔法使いガンダルフはすぐにビルボが指輪を使ったと察して袋
ビルボはエルフ達が住まう裂け谷へと旅立ち、指輪は養子のフロドに引き渡された。ガンダルフはフロドに、指輪の件は絶対に口にするな、と警告を与えて去っていく。
数年後、ガンダルフはフロドの前に戻ってきた。指輪は神話に語られたサウロンが鍛えたあの指輪であった。しかも魔の軍勢はすでに指輪の所在を察知し、フロドから奪い去ろうと黒の乗り手ナグズルたちを放っていた。
もはや一刻の猶予はない。ガンダルフはフロドに指輪を預け、旅立たせる。
一方ガンダルフは先輩である白のサルマンに助言を求めにアイゼンガルドのオルサンクへと向った。だがサルマンはすでにサウロンの軍門に下っていた。ガンダルフはサウロンの罠に掛かり、オルサンクの屋上に幽閉される。
フロドの旅はいとこのメリーとピピンを加えて順調に進んでいた。ガンダルフと会う予定だったブリー村の踊る小馬亭へと向うが、そこにはガンダルフはいなかった。ブリー村の宿をナグズルたちが襲い掛かる。フロドたちは窮地をアラゴルンに救われ、ブリー村を脱してさらに旅を続いた。
だがナグズルたちの追跡は続いていた。ついにフロドたちは追い詰められ、ナグズルの剣で傷を負ってしまう。
ナグズルの剣には呪いの力が込められていた。フロドは呪いに蝕まれ、衰弱してしまう。そんな最中、エルフの姫アルウェンがフロドを迎え、俊足の馬でナグズルたちを振り切り裂け谷へと到着する。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作となる『指輪物語』はJ・R・R・トールキンの手によって描かれた壮大かつ長大な叙事詩だ。物語は1937年頃から執筆がはじまり、第1巻が出版されたのは1954
『指輪物語』の物語はあまりも長大で規模が大きく、しかも学術的な裏付けを持った始めてのファンタジー作品であった。それまでの子供
ファンタジーの歴史は『指輪物語』から始まり、『指輪物語』によってその概念が決定的になったのだと言ってもいい。今においても、ファ
『指輪物語』はファンタジーの原点であるが、その映像化には途方もない困難があった。実写での映像化は不可能。『指輪物語』に描か
アニメなら可能かもしれない。アニメ監督ラルフ・バクシが『指輪物
ラルフ・バクシの失敗が切っ掛けというわけではないが、『指輪物語』の映像化は半ば神話のように考えられるようになってしまった。
ピーター・ジャクソンは個人制作で趣味的なスプラッターホラー映画を作り続けていた作家だったが『バッド・テイスト』と『ブレインデッド』が
ピーター・ジャクソンのフィルモグラフィーといえば、当時それで全部
そんな男の妄言を信じてニュー・ライン・シネマは当時としては史上最大規模の340億円を投資。『指輪物語』の伝説に挑戦したのであ
結果として映画『ロード・オブ・ザ・リング』は作品として興行的にも大成功。不可能と思われた原作のシーンの一つ一つを完全再現し、多くの観客を熱狂させ、多くの映像作家に悔しい思いをさせた。ピー
ホビットたちの暮らしは穏やかでつつましく、のんびりした空気に満ち
そこは誰もが思い描く古里であるのだ。古里というのは現実の世界にはなく、詩人たちが歌の中で描く場所だ。あまりにも静かで心温まる場所であり、どこかに哀しみを備えた場所だ。
古里という場所は人間が立ち入れない場所であるのだ。思い出の中に描く場所であって、もはや失われた場所であり時間であるのだ。だから古里という場所はいつまでも穏やかさに満ちて静かに佇んでいる。
風景は浮世離れした美しさを持ち、そこに流れる空気や時間はあま
襲い掛かる魔物たちも、オークをはじめとして巨人のトロル、幽鬼と呼
もちろん映画が製作したセットや小物の数々は見事な完成度だ。目に見えるもの、見えないもの全てに神経が行き届き、一分の隙を感じさせない。
『ロード・オブ・ザ・リング』の鑑賞は通常の映画と違う印象をもたら
強いて言うなら、シリーズものに接している感覚だろうか。少しずつ物語が進み、ひとつひとつは短いが、全体を通してみると驚くほど長大
『ロード・オブ・ザ・リング』の物語はシリーズものと同じように短いプロットが少しずつ積み重ねられ、すべては必然を持って確実に大きな
だが『ロード・オブ・ザ・リング』は明らかにシリーズものとも違う。一方で間違いなく『ロード・オブ・ザ・リング』は映画であるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』はそのどちらでもなく、一方でその両方でもあるとい
その第1部『旅の仲間』はやはり長大かつ壮大な物語の前編でしか
第2章『2つの塔』を読む
第3章『王の帰還』を読む
映画記事一覧
作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:エンヤ
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
〇 ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
〇 ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
〇 オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
〇 ショーン・ビーン アンディ・サーキス
〇 ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
〇 マートン・ソーカス イアン・ホルム
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■2010/01/18 (Mon)
映画:外国映画■
西暦2154年。
ジェイク・サリーの双子の兄トミーは、地球からおよそ5光年離れた惑星パンドラへ旅立つ予定だった。そのためにインテリジェンスのトミーは、多くの知識を学んでいた。
だが出発予定の2週間前、トミーは不慮の事故で死亡する。
その代理として、ジェイク・サリーはパンドラ行きを任命された。「君と兄は同じ“DNA”を持っているから」と。
6年後――。長い長いコールドスリープの旅の末、ジェイクは惑星パンドラへ到着した。
そこは地球と同じような環境を持っているが何もかもが違う。惑星の生物や植物は大きく凶暴で、知的生命体であるナヴィと呼ばれる種族は皮膚が青く人間の1,5倍の長身、もちろん身体能力の優れた種族だった。しかもパンドラの気候は地球人には有害で、マスクなしでいると20秒で昏倒、5分で死亡する過酷な環境だった。
軍の目的は人間とナヴィのDNAを合成して作り出したアバターに人格を移すこと(リンク)だった。アバターに人格を移せば、過酷なパンドラの環境を自由に動き回れ、異星人とのコンタクトも警戒されずに可能になるのだ。
ジェイクは海兵隊員で、以前の戦争で両脚に障害を抱えていた。兄
と同じDNAを持つジェイクは、アバターにリンクできる。それを知ったジェイクは、アバターにリンクするのを承知する。
かくしてアバターにリンクしたジェイクは、自らの足で立ち上がり、土の上を疾走する感動に包まれた。
その後、アバターの体で研究者達と共にパンドラの森を散策、調査
に出かけた。その最中でジェイクは獰猛なサナターに襲われ、仲間たちとはぐれてしまう。森の中を彷徨うジェイクを助けたのは、パンドラの住民ナヴィであった。
機械文明のシーンは色彩が抑えられ、寒々とした印象で描かれる。それに対してナヴィのシーンはビビッ
ドな極彩色で。色彩で世界の違いや移動の感覚が演出されている。
映画『アバター』は冒頭から見る者を圧倒してくれる。
そこは地球ではない惑星パンドラだ。視界全体を覆いつくす機械描
写は圧倒すべき迫力で、どこまでも精密に描かれたディティールは見る者の意識をわずか数秒で映画世界へと飲み込んでくれる。
巨大な船団が次々と軍基地へと着陸し、軍施設へと入っていくと、普通の映画では1体でも出し惜しみしそうなAMPスーツ(戦
闘用ロボット)がずらりと整列している。驚きのあまり唖然とすると同時に、巨大な造形物の連続にむしろ子供心に戻って胸を躍らせている我々がいる。
映画『アバター』はごまかしのためのクローズアップが少ないのが特徴でもある。広がりのある世界や、ずらりと並ぶ戦艦や
AMPスーツをロングサイズで惜しげもなく見せてくれる。『アバター』のスケールの大きさは、出し惜しみしない構図つくりと妥協のないディティールつくりにある。この映画に接した多くの職業映画監督は嫉妬の炎に悶えるだろう。
映画中に登場する“アバター”は視覚的空間をさらなる次元へと
移行させ、あるいは身体的感覚まで未知なる領域へと展開させていく。だが“アバター”にリンクするのは登場人物だけではない。映画が始まったと同時に、我々はコールドスリープの眠りから覚まし、新たな人格と別世界へとリンクし、惑星パンドラへの旅行へと誘われるのだ。
デジタルの質感は高詳細に作られている。ナヴィの肌をクローズアップすると生々しさすら感じさせる。しかしロングになると全てがちぐはぐして一体となっていない印象がある。メカ描写も光が当たりすぎなのかどこか玩具のように見えて、非現実的な印象がある。光の感触は夢のような世界を描くには向いているが、まだ現実世界そっくりに描き出すのは難しいようだ。ゲーム『ファイナル・ファンタジー』シリーズにも共通する課題だ。
『アバター』は典型的な冒険映画であり旅行映画だ。だが現実世界に冒険すべき異世界を失ってしまった。現実の世界に驚きはなくなり、未知に出会った驚きと感動を失ってしまった。世界は単にエンターティメントとして消費するだけの場所として、俗世界とたいして変わらず、あるいは芸人が異文化との接触を大袈裟な驚きをもって笑
いに転換するだけの場所になった。
世界から新たに発見する場所を失った。それは同時に、驚嘆すべき光景を描写できなくなったと同義であった。
映画は人々を驚きと未知への世界へ誘う外部入力装置ではなくなった。ならば、と映画監督のジェイムズ・キャメロンは奮起し
た。
「世界を一から作ってしまえばいい」
地球では決してありえない冒険のフィールドを作ってしまえば、一切の既視感を飛び越えて観客を今までにない世界へと誘うことができる。映画が失った“驚嘆すべき世界への感動”を取り戻すことができたのだ。
「14歳の自分に向けて描いた」とジェイムズ・キャメロン監督は語る。尾田栄一郎もほぼ同じ発言をしている。大事な心構えだ。14歳、つまり思春期の初め頃は子供時代のドロドロした渾沌状態から脱出し、まるで『不思議な国のアリス』のアリスが体験するような世界が新しい輝きを持って煌きだす頃である。今は「中二病」と蔑む傾向があるが、この頃の感性をなくしてしまうと、作家は二度と傑作は描けないくらいに思ったほうがいい。
ジェイムズ・キャメロンの挑戦は映画『アバター』において間違いなく成功している。惑星パンドラは驚嘆すべき別世界である。ジェイムズ・キャメロンはパンドラという別世界の風景を徹底して精密に、それでいてその世界は幻想的な光を湛え、しかも科学的考証の正確さを常に配慮しながら描ききった。
惑星パンドラの生態系や植生、歴史まで目に見えるところから目に見えない領域まで、完璧な精度で一個の巨大な自己完結世界を作り上げた。
そのなかでとりわけ熱を注いで描かれたのは異星人ナヴィの描写である。ナヴィたちの身体的特徴や生活様式、彼らがどんな文化を持
ち、歴史を語り、日々を過ごしているか。ナヴィの生活環境を始めとして、その環境に合わせた風習の一つ一つ、誕生から生育、食事、性、さらには儀式と死といった宗教的側面まで妥協なく描ききった。
映画『アバター』は旅行映画であると同時に異文化交流の映画
である。アバターへと人格を映したジェイクがナヴィたちの住居にホームステイするのである。もちろん、ただ数日過ごすだけではない。ジェイクは驚くべき好奇心と探究心、それから適応能力で外見だけでなく実際にナヴィと同化し、その暮らしと文化を体得してその過程を映画のフィルムを通して我々にその一端を提供するのだ。
『アバター』という旅行映画は間違いなく成功だが、その煩雑さからおそらく流行らないだろう。我々はジェイムズ・キャメロンという稀代の才能によって、非常に稀な経験をしたのだ。
デジタル映像の難しさは制作の実態に接してみないとわからない。デジタル映像に接している人の99%くらいは「CGはボタン1つで完成する」という通俗的な説明を鵜呑みにして、デジタル映像を安易と見做す傾向がある。だが実際のデジタル映像は苦労に苦労を重ね、努力に努力を重ねた結果としてできるものだ。「ストップモーションと着ぐるみは職人的なものだが、デジタルは安易である」、という考えは広告で刷り込まれた思考に過ぎない。実態を確かめず言われた通りの思考しかしなくなると、物事を軽視する考え方が身についてしまう。
そうした夢想世界への攻撃を企てるのは地球人である。白人唯物主義の意識は100年以上の先の未来でも相変わらずで、異文化の尊敬など皆無で自分たちの経済原則の思想を押し付けようと迫ってくる。
西暦2154年の未来では地球は人口増加の結果として、あらゆる地
球資源を消費しつくして荒廃していた。そんな地球人が道楽や探究心で異世界へ旅立ち、拠点にするはずはない。惑星パンドラの地中に眠る鉱石“アンオブタニウム”が地球の資源問題のすべてを解決
する夢の魔石と信じられていた。
100年後の未来であれ200年後の未来であれ、“文化的”な白人は新しい土地を見つけると「自分たちの物」と旗を立ててしまう。彼らの理屈で土地の権利者となる。その土地に住んでいる住人は当然、白人の所有物だ。白人はその土地の生活を迎合せず、“文化的”な
彼らは自分たちの暮らしと文化を持ち込み、その他の一切を無駄・無価値・非合理的と焼き払ってしまう。
そんな白人の歴史を、白人が描く何ともいえない皮肉がこの映画にはある。
白人文明は基本的に自尊心が強烈で、「自分たちの文化こそ世界
のスタンダートだ」と優勢主義的な考えを普遍的に持ち、異文化を軽視する傾向を持つ。だから周辺国家は異境であり、また自由な地域であるから旗を立てていいし、住民は劣った人種であるから自分たちの“文化的”なルールを押し付けるのが善意だと思っている。
そんな白人文明も時に、何かの拍子に鏡を見たのかわからないが、
極端な自虐傾向を持つ。自分たちの文化を野蛮で攻撃的な文化と見做し、(優越性を維持しながら)異文化に憧れと尊敬を抱く(あるいは飽くまでも哀れむ対象として)。日本も西洋にとってそういうポジションにある国である。西洋は日本人を下等な黄色猿と見下す一方で、脅威を抱いているのだ。ナヴィたちと同じように。
『アバター』はそういう白人文明の自虐的な側面が描いた物語であるといえる。
ナヴィ族は後頭部から伸びる触手は、自然界の動物と連結して魂の交流を可能とする。これは土着的宗教を徹底的に駆逐し、自然を支配の対象と見做してきた白人文明の憧れと反省が描いたものだ。ま
た同じ領域に達した高度文明が抱きがちな幻想だ。そのナヴィ族を容赦なく攻撃し蹂躙しようとする姿は、そのまま現代にも通ずる戦争の風刺のようだ。
『アバター』にはそんな白人特有の自虐的な側面を強く感じさせる。だからなのか、白人文明は『アバター』の物語を拒絶をもって距離を
置こうとしているようだ(『アバター』的な侵略行為に覚えるある国が国家レベルで批判しているのも、あからさますぎて滑稽だ)。
言うまでもなく3D上映が、“かつて体験したことのない映像”という感覚を補強している。3Dは補強に過ぎないが、ファーストインパクトとして『アバター』をお勧めしたい。

映画は光と影が作り出す幻覚であり、映画に接している瞬間は我々は夢に近い感覚を感じている。
真っ暗闇で身体感覚をなくした我々は、眼前に迫る“ここではないどこか”へと意識を飛翔させる。映画の世界には現実世界にはありえ
ないような美男美女のロマンスがあり、美しい光景があり、俗世界では決して経験できないようなあらゆる体験を提供してくれる。それは一種の神秘体験に通じるものでもある。
忘れている人もいるかもしれないが、そもそも演劇はロールプレイ的な趣旨を持つ。自分ではない別人格、多くの場合は神や鬼をその身
に宿し、その人間の魂を俗世界から引き離し、意識を恍惚の世界へと引き上げる。自分ではない何かに姿を変え、ここではないどこかへ冒険していくことが演劇の本質であり、当然、映画の本質も同様のところにあるはずだった。
だがいつの間にか“映画の向う”の世界は特に驚嘆すべき場所では
なくなってしまった。あまりにも見慣れてしまった物語に情景。
ふと気付けば、映画の世界は平凡な俗世界とあまり変わらないか、その延長となってしまった。馴れすぎてしまったのだ。映画という経験が特殊というにはあまりにも日常的になってしまったし、作り手も一時の享楽を提供
するだけでそれ以上の驚きと発見をそこに描こうという努力をしなくなってしまった。「リアリティ」という考え方が映画から神秘的なものを積極的に排除してしまった(リアリティなどクソ喰らえ)。
さらにこれはテレビゲームが切っ掛けで言われるようになったことだが、「現実と非現実の
区別がつかなくなる」とまで言い始めた。つまり非現実的体験は有害である、と考え始めたのだ。多くの人が刷り込みで接している世界は絶対1つだけのものであって、そこに発見や止揚の可能性すらなく、絶対的堅牢な空間である、というわけだ。
だが『アバター』は、そんな我々を異世界へと導き、そこでの一時を現実感のある物として体験させてくれた。映画が始まると同時に俗世界の原理を一切忘れさせてくれた。『アバター』が描き出したのは驚嘆すべき異世界であり、異世界を体験するために作られた映画である。
『アバター』に接している間、我々は映画の主人公ジェイクと同じように“アバター”に“リンク”し、あのジャングルを駆け巡るのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本・製作・編集:ジェイムズ・キャメロン
撮影監督:マロウ・フィオーレ 音楽:ジェームス・ホーナー
プロダクションデザイナー:リック・カーター ロバート・ストームバーグ
編集:スティーブン・リフキン ジョン・ルフーア
シニア・ビジュアル・スーパーバイザー:ジョー・レッテリ
衣装:マイェス・C・ルベオ デボラ・L・スコット
出演:サム・ワーシントン ゾーイ・サルダナ
〇 シガーニー・ウィーバー スティーブン・ラング
〇 ミシェル・ロドリゲス ジョヴァンニ・リビシ
〇 ジョエル・デヴィッド・ムーア ウェス・ステューディ
ジェイク・サリーの双子の兄トミーは、地球からおよそ5光年離れた惑星パンドラへ旅立つ予定だった。そのためにインテリジェンスのトミーは、多くの知識を学んでいた。
だが出発予定の2週間前、トミーは不慮の事故で死亡する。
その代理として、ジェイク・サリーはパンドラ行きを任命された。「君と兄は同じ“DNA”を持っているから」と。
6年後――。長い長いコールドスリープの旅の末、ジェイクは惑星パンドラへ到着した。
そこは地球と同じような環境を持っているが何もかもが違う。惑星の生物や植物は大きく凶暴で、知的生命体であるナヴィと呼ばれる種族は皮膚が青く人間の1,5倍の長身、もちろん身体能力の優れた種族だった。しかもパンドラの気候は地球人には有害で、マスクなしでいると20秒で昏倒、5分で死亡する過酷な環境だった。
ジェイクは海兵隊員で、以前の戦争で両脚に障害を抱えていた。兄
かくしてアバターにリンクしたジェイクは、自らの足で立ち上がり、土の上を疾走する感動に包まれた。
その後、アバターの体で研究者達と共にパンドラの森を散策、調査
映画『アバター』は冒頭から見る者を圧倒してくれる。
そこは地球ではない惑星パンドラだ。視界全体を覆いつくす機械描
巨大な船団が次々と軍基地へと着陸し、軍施設へと入っていくと、普通の映画では1体でも出し惜しみしそうなAMPスーツ(戦
映画『アバター』はごまかしのためのクローズアップが少ないのが特徴でもある。広がりのある世界や、ずらりと並ぶ戦艦や
映画中に登場する“アバター”は視覚的空間をさらなる次元へと
世界から新たに発見する場所を失った。それは同時に、驚嘆すべき光景を描写できなくなったと同義であった。
映画は人々を驚きと未知への世界へ誘う外部入力装置ではなくなった。ならば、と映画監督のジェイムズ・キャメロンは奮起し
「世界を一から作ってしまえばいい」
地球では決してありえない冒険のフィールドを作ってしまえば、一切の既視感を飛び越えて観客を今までにない世界へと誘うことができる。映画が失った“驚嘆すべき世界への感動”を取り戻すことができたのだ。
そのなかでとりわけ熱を注いで描かれたのは異星人ナヴィの描写である。ナヴィたちの身体的特徴や生活様式、彼らがどんな文化を持
映画『アバター』は旅行映画であると同時に異文化交流の映画
『アバター』という旅行映画は間違いなく成功だが、その煩雑さからおそらく流行らないだろう。我々はジェイムズ・キャメロンという稀代の才能によって、非常に稀な経験をしたのだ。
西暦2154年の未来では地球は人口増加の結果として、あらゆる地
100年後の未来であれ200年後の未来であれ、“文化的”な白人は新しい土地を見つけると「自分たちの物」と旗を立ててしまう。彼らの理屈で土地の権利者となる。その土地に住んでいる住人は当然、白人の所有物だ。白人はその土地の生活を迎合せず、“文化的”な
そんな白人の歴史を、白人が描く何ともいえない皮肉がこの映画にはある。
白人文明は基本的に自尊心が強烈で、「自分たちの文化こそ世界
そんな白人文明も時に、何かの拍子に鏡を見たのかわからないが、
ナヴィ族は後頭部から伸びる触手は、自然界の動物と連結して魂の交流を可能とする。これは土着的宗教を徹底的に駆逐し、自然を支配の対象と見做してきた白人文明の憧れと反省が描いたものだ。ま
『アバター』にはそんな白人特有の自虐的な側面を強く感じさせる。だからなのか、白人文明は『アバター』の物語を拒絶をもって距離を
映画は光と影が作り出す幻覚であり、映画に接している瞬間は我々は夢に近い感覚を感じている。
真っ暗闇で身体感覚をなくした我々は、眼前に迫る“ここではないどこか”へと意識を飛翔させる。映画の世界には現実世界にはありえ
忘れている人もいるかもしれないが、そもそも演劇はロールプレイ的な趣旨を持つ。自分ではない別人格、多くの場合は神や鬼をその身
だがいつの間にか“映画の向う”の世界は特に驚嘆すべき場所では
ふと気付けば、映画の世界は平凡な俗世界とあまり変わらないか、その延長となってしまった。馴れすぎてしまったのだ。映画という経験が特殊というにはあまりにも日常的になってしまったし、作り手も一時の享楽を提供
さらにこれはテレビゲームが切っ掛けで言われるようになったことだが、「現実と非現実の
だが『アバター』は、そんな我々を異世界へと導き、そこでの一時を現実感のある物として体験させてくれた。映画が始まると同時に俗世界の原理を一切忘れさせてくれた。『アバター』が描き出したのは驚嘆すべき異世界であり、異世界を体験するために作られた映画である。
『アバター』に接している間、我々は映画の主人公ジェイクと同じように“アバター”に“リンク”し、あのジャングルを駆け巡るのだ。
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作品データ
監督・脚本・製作・編集:ジェイムズ・キャメロン
撮影監督:マロウ・フィオーレ 音楽:ジェームス・ホーナー
プロダクションデザイナー:リック・カーター ロバート・ストームバーグ
編集:スティーブン・リフキン ジョン・ルフーア
シニア・ビジュアル・スーパーバイザー:ジョー・レッテリ
衣装:マイェス・C・ルベオ デボラ・L・スコット
出演:サム・ワーシントン ゾーイ・サルダナ
〇 シガーニー・ウィーバー スティーブン・ラング
〇 ミシェル・ロドリゲス ジョヴァンニ・リビシ
〇 ジョエル・デヴィッド・ムーア ウェス・ステューディ
■
3D映画体験記録
■2010/01/16 (Sat)
映画:外国映画■
そして見よ。
野獣は美女の顔を見上げた。
が、その首を絞めようと伸びた手はとどまり、
その日を境に野獣は抜け殻のようになった。
〇 ――古代アラビアの諺
野獣は美女の顔を見上げた。
が、その首を絞めようと伸びた手はとどまり、
その日を境に野獣は抜け殻のようになった。
〇 ――古代アラビアの諺
だがそこを男が呼び止める。
「これは映画撮影隊の船か?」
「そうだが?」
「あんた、あの噂の旅行に行くのか? 旅を指揮する奴がイカレてるって話だぞ」
「カール・デナムか?」
今まさに男が会うつもりでいる映画監督の名
「その男だ。とにかく無鉄砲な奴らしい。相手がライオンであろうと容赦なしだそうだ。貨物のことも話題の1つだが、船の大きさにしては乗組員の数が多すぎるんだ。通常の3倍だぞ。どこに寝る場所があるんだか」
何やら噂が流れているらしい。こんな失業者だかわからない流れ者が通りがかりの誰かに話すくらい広まっているようだ。
俳優代理業者の男は、充分警戒して船に乗り込んだ。
だが次回作には不穏な影が付きまとっていた。
そんな撮影に、俳優業者は女優は手配できないと宣告した。そこはかとない危険を感じた。
「まるで生存者がいなかったみたいだな。ここにいる2人はご覧のとおり、2回の冒険を無事に帰ってきたぞ」
「女性がいるのでは話が違う」
船長が俳優代理業者に味方してカール・デナムに反対した。
「ではニューヨークは危険ではないのか? 今夜、彼女たちが遭遇する危険のほうがよっぽど危ない」
それは危険の種類が違う。このままカール・デナムと船に乗せると、自ら避けられない危険へと向っていくように思えた。
「頼むよ。明朝の夜明けには出港なんだ。理由があるんだ」
女優を手配しなくて正解だった。俳優代理業者はカール・デナムの申し出を拒否した。
「そんなことで挫けると思っているのか。いいか、俺は今までにない最高の映画を撮るんだ。後で後悔しても知らんぞ」
カーで・デナムは逆上して街へと出て行った。
そうしてカール・デナムが果物屋で偶然出会ったのがアン・ダロウだった。アンは俳優志望だったが出演はエキストラの経験だけ。しかも大恐慌の影響で職を失っていた。
だがカール・デナムにとってそんなのはどうでも良かった。カメラの前に立つ女優がいればそれでいい。カール・デナムはアンを連れて蒸気船を出発させた。
「約束だろう。ここまで来たら、行き先を告げると」
船長がデナムに切り出した。今まで行き先を告げていなかったのだ。
行き先はスマトラ沖を南西に向った場所。一般に流通している海図には決して掲載されない謎の場所だ。その島へ至る地図を見つけたのは、バーク船の船長だった。
「いいか。この島の人間がカヌーで海に流され、バーク船が発見した。たった1人の生存者もすぐ死んだ。その前にバーク船の船長は生き残りから島の詳細を聞きだし、位置を記録したのだ」
実際に存在するのかも怪しい幻の場所。そこには大昔の高度文明が残され、怨霊に捉われた土人たちが恐ろしい儀式を夜毎に催している。
だが注目すべきはその土人たちではない。滅んだ古代文明が築いた巨大な壁。その向うに、何かがいる――。その名は『コング』。
獣でも人間でもない、それでいて島の住民達を脅かし続ける謎の存在。迷信が作り出した神霊か?
いや、迷信は真実を映し出す。島には我々のかつて見た経験のない何かが存在している……。
大恐慌の影響で世界が混沌とした不安に喘いでいた時代。文明の光は自ら作り出したシステムを前に頼りなげに揺れていた。世界はまだ闇に包まれた未知を領域を多く残していた。
『キング・コング』が制作された背景には、そんな真っ暗闇の不安と未知に対する恐怖のようなものがドロドロになって渦巻いていた。髑髏
世界旅行の時代が終わり、文明から遠く離れた未開地と思われる場所ですら、すでに旅行者の迎え方を心得てしまっている時代。だがひょっとしたらまだ人跡未踏の土地がどこかにある
1930年代は真っ暗闇の不安と同時に、そんな期待を同時にどこかに残している時代だった。もしかすると、ペシミズムが蔓延する閉塞的な現代よりももっと楽天的だったかもしれない。
とにかく人々は現実の暗い不安を虚構の世界に求め、光と影である
蒸気船での移動場面は緩慢に進んでいくが、髑髏島に入ってから一気に物語は急な勢いを持ち始める。怪しげな原住人に、想
その展開の一つ一つを見ていると、意外にも最近の冒険映画とあまり変わらないと気付かされる。物語の進み方や、怪獣の登場、犠牲者の残し方。どれも最近の映画でも似た場面を見たような、過去の作品だというのに不思議なデジャビュを感じさせ
ただ、展開の速度は現代の映画よりずっと早く進む。コングの足跡を見つける場面でも詳しい解説や判じ解きはないし、沼を前にする場面でも「よし筏だ!」と言った次のカットにはもう立派な筏が完成している。その合間に描かれる過程をごっそり省いてしまっている。もっと言えば、間に語られるべきドラマが何一つ
冒険映画の文法はすでに作り出されていて、現代に至るまでその方法論は変わっていないようだ。現代は映像の手法が洗練され、描写の密度がどこまでも高詳細になり、過剰に装飾が施され、やはり人間の心理は詳しく掘り下げられるようになった。
それでも古い映画を見ると、本質的なところは実はあまり変わっていないのだと発見できる。
人間の側から見ると、コングは恐ろしげな怪物でしかない。ア
だがニューヨークに入って物語はキング・コングを中心に描くようになる。人間の美女に恋し、その姿をひたすら追い求める哀れな怪物の姿だ。
映画のラストで、コングはエンパイアステートビルへと登って行
言葉を持たないコングは自らの胸の内も何も語らない。ただただ人間の文明を凶暴な顔で睨みつけ、獣の声で吠えるばかりだ。
コングは文明の先端であらん限りの声を上げて、拳を振り上げる。だがその叫びは空しく轟くだけだった。マシンガンの銃撃が
ついにコングは死ぬ。人間の文明に打ちのめされるかのように――獣の王は新しく君臨した鉄の王に戦いを挑み、一番高いところから叩き落されたのだ。
だがコングは我々の思い出の中に永遠に残された。獣の王の肉体は死んだが、その魂は永遠の輝きを得たのだった。
『キング・コング』2005年版 ピーター・ジャクソン監督
『キング・コング』2005年版 エクステンテッド・エディション
作品データ
監督:メリアン・C・クーパー アーネスト・B・シュードサック
脚本:ジェームス・クリールマン ルース・ローズ
撮影:エドワード・リンドン バーノン・L・ウォーカー
特殊効果:ハリー・レッドモンド・Jr 恐竜制作:マーセル・デルガド
特殊撮影:F・ウィリス・H・オブライエン レイ・ハリーハウゼン
音楽:マックス・スタイナー
出演:フェイ・レイ ロバート・アームストロング
〇 ブルース・キャボット フランク・ライチャー
〇 サム・ハーディー ノーブル・ジョンソン
■2010/01/06 (Wed)
映画:外国映画■
救貧院での暮らしは劣悪だった。昼は麻屑つくりの仕事を強制され、食事は僅かなお粥だけ。
この一言に、教区史たちは激怒した。オリバーの一言は問題発言として取り上げられ、オリバーは問題行動を引き起こしたとして救貧院から追い出されてしまう。
サワベリーはオリバーに理解を示し、自身のお気に入りとして葬儀のお供に抜擢する。
ロンドンにたどり着くと、ドジャーと名乗る少年がオリバーに話しかけてきた。ドジャーはオリバーが家出少年と察すると「何か食べさせて
ドジャーは泥棒の少年だった。オリバーは窃盗団の頭であるフェイギンに引き取られ、盗みのやり方を教わる。
数日が過ぎて盗みのテクニックを学んだオリバーは、ドジャーたちとと
しかしオリバーは盗みに失敗して捕まってしまう。ただちに裁判所に送られるが、幸運にも盗品を持っていなかった。オリバーは冤罪だと判断されて解放されることとなった。
だがフェイギンたちは危機を募らせていた。
フェイギンはオリバーを誘拐する計画を立てる。
『オリバー』は純然たる物語映画だ。この作品に驚くような特撮やアクションはない。オリバー少年がいかにに行動し、判断し、どんな結
優れた語り手による映画で、物語は淀みなく静かに流れていく。流麗に流れる映像や言葉のやり取りは語り口に相当するもの
オリバーという少年に主人公としての主体性はない。ただただ周囲の状況に流されていくだけで、自身の意思はどこにもない。どこか、「捉われのお姫様」を連想させる弱々しさだ。オリバーという少年が力を発揮して、物語を動かしていく場面はない。常に誰かに助けられ、幸運に助けられ、周囲の世界のほうが勝手に動いていく、といった具合だ。
それはオリバーが純粋だからだ。あまりにも汚れた世界に対して、オリバーの内面は純潔そのものである。
不潔と不徳と不法ばかりが横行するイギリス社会に対して、作者はオリバーという少年を使って警鐘する。少年達ですら日常の言葉や行動は汚く、道徳の意識は希薄だ。そんな社会に入っていこうとしたら、どんな純粋に育てられた少年もいつか汚されてしまうだろう。
そんな中で、オリバーは天使のような理想像として描かれる。おそらく作者が夢想した理想の人間像なのだろう。
途方もない人間不信と社会に対する絶望が、『オリバー』という物語を生んだのではないだろうか。
あらゆる構図、音楽、色彩が物語を語るために機能している。優れた語り手の名調子であると共に、合奏のような調和の取れた作品だ。
しばらく時間を忘れて、創作者の語りに身を預けていたい――。そう思える映画だ。
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作品データ
監督:ロマン・ポランスキー 原作:チャールズ・ディケンズ
音楽:レイチェル・ポートマン 脚本:ロナルド・ハーウッド
出演:バーニー・クラーク ベン・キングスレー
〇 ハリー・イーデン ジェイミー・フォアマン
〇 エドワード・ハードウィック リアン・ロウ
■2010/01/06 (Wed)
映画:外国映画■
だが力は弱く、転校してきたばかりだというのに街の悪餓鬼ルーポに目をつけられ、いびられていた。
ルーポは、ジェイソンが中国人質屋に出入りしているのに目をつけ、強盗を思いつく。ジェイソンを脅して店主のホップ老人をおびき出し、老人が安心している隙に襲い掛かる。
「金はどこだ!」
ルーポたちは老人を脅し、店の商品を物色し始める。
死に際のホップは、ジェイソンに如意棒を託し「これを真の持ち主に返すのだ」と残して息絶える。
しかしすぐにもルーポたちに追跡され、間もなく追い詰められてしまう。
ジェイソンが次に目を覚ますと、そこは中世の中国だった。山に
そんな場所に、騎馬の一団がやってくる。騎馬の一団はジェイソンが持っている如意棒に気付き奪い取ろうと襲い掛かる。
そんな時、謎の酔拳の達人ルー・ヤンが現れ、ジェイソンを救い出す。
伝承によれば、いつか選ばれし者が現れ、如意棒を孫悟空の手に戻
映画『ドラゴン・キングダム』において注目すべきは、ジャッキー・チェンとジェット・リーの対決シーンだ。中国映画好きにとって、夢のドリームマッチである。
注目の対決シーンも構図の作りは決してうまいとは言い切れず、俊
対決に至る展開もあまりにも強引で、対決させるためにムリヤリ時間を作った、という感じだ。2人はあくまでも共演しただけであって、対決をテーマにした映画ではないから仕方ないのかもしれない。
中世の中国ふうの世界観が描かれているが、まったくのファンタジー映画である。わかりやすい悪の支配者が登場し、奇怪な技を持った刺客が次々とジェイソン少年に襲い掛かる。
はじめは非力だったジェイソン少年も、数々の試練に打ち克ち、次第に力を手にしていく。
『ドラゴン・キングダム』はジャッキー・チェンとジェット・リーの対決が売り文句だったが、実際は少年による異世界への冒険と成長物語がテーマである。
中国風の舞台に中国風の伝承が背景におか
あるいは中国映画に憧れを抱き、物まねして見せたティーンズの映画というべきなのか。
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作品データ
監督:ロブ・ミンコフ アクション監督:ユエン・ウーピン
音楽:デヴィッド・バックリー 脚本:ジョン・フスコ
出演:ジャッキー・チェン ジェット・リー
〇 マイケル・アンガラノ コリン・チョウ
〇 リウ・イーフェイ リー・ビンビン