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■2010/01/18 (Mon)
西暦2154年。
ジェイク・サリーの双子の兄トミーは、地球からおよそ5光年離れた惑星パンドラへ旅立つ予定だった。そのためにインテリジェンスのトミーは、多くの知識を学んでいた。
だが出発予定の2週間前、トミーは不慮の事故で死亡する。
その代理として、ジェイク・サリーはパンドラ行きを任命された。「君と兄は同じ“DNA”を持っているから」と。
a72e548f.jpg314678db.jpgacf0bfdf.jpg7693c80f.jpg
6年後――。長い長いコールドスリープの旅の末、ジェイクは惑星パンドラへ到着した。
そこは地球と同じような環境を持っているが何もかもが違う。惑星の生物や植物は大きく凶暴で、知的生命体であるナヴィと呼ばれる種族は皮膚が青く人間の1,5倍の長身、もちろん身体能力の優れた種族だった。しかもパンドラの気候は地球人には有害で、マスクなしでいると20秒で昏倒、5分で死亡する過酷な環境だった。
45f11630.jpg軍の目的は人間とナヴィのDNAを合成して作り出したアバターに人格を移すこと(リンク)だった。アバターに人格を移せば、過酷なパンドラの環境を自由に動き回れ、異星人とのコンタクトも警戒されずに可能になるのだ。
ジェイクは海兵隊員で、以前の戦争で両脚に障害を抱えていた。兄acc90315.jpgと同じDNAを持つジェイクは、アバターにリンクできる。それを知ったジェイクは、アバターにリンクするのを承知する。
かくしてアバターにリンクしたジェイクは、自らの足で立ち上がり、土の上を疾走する感動に包まれた。
その後、アバターの体で研究者達と共にパンドラの森を散策、調査26458884.jpgに出かけた。その最中でジェイクは獰猛なサナターに襲われ、仲間たちとはぐれてしまう。森の中を彷徨うジェイクを助けたのは、パンドラの住民ナヴィであった。
f5748d69.jpg機械文明のシーンは色彩が抑えられ、寒々とした印象で描かれる。それに対してナヴィのシーンはビビッbaecfb3e.jpgドな極彩色で。色彩で世界の違いや移動の感覚が演出されている。

映画『アバター』は冒頭から見る者を圧倒してくれる。
そこは地球ではない惑星パンドラだ。視界全体を覆いつくす機械描75c7aa54.jpg写は圧倒すべき迫力で、どこまでも精密に描かれたディティールは見る者の意識をわずか数秒で映画世界へと飲み込んでくれる。
巨大な船団が次々と軍基地へと着陸し、軍施設へと入っていくと、普通の映画では1体でも出し惜しみしそうなAMPスーツ(戦f810d439.jpg闘用ロボット)がずらりと整列している。驚きのあまり唖然とすると同時に、巨大な造形物の連続にむしろ子供心に戻って胸を躍らせている我々がいる。
映画『アバター』はごまかしのためのクローズアップが少ないのが特徴でもある。広がりのある世界や、ずらりと並ぶ戦艦やd456e2c9.jpgAMPスーツをロングサイズで惜しげもなく見せてくれる。『アバター』のスケールの大きさは、出し惜しみしない構図つくりと妥協のないディティールつくりにある。この映画に接した多くの職業映画監督は嫉妬の炎に悶えるだろう。
映画中に登場する“アバター”は視覚的空間をさらなる次元へと13a687be.jpg移行させ、あるいは身体的感覚まで未知なる領域へと展開させていく。だが“アバター”にリンクするのは登場人物だけではない。映画が始まったと同時に、我々はコールドスリープの眠りから覚まし、新たな人格と別世界へとリンクし、惑星パンドラへの旅行へと誘われるのだ。
1dba1122.jpgデジタルの質感は高詳細に作られている。ナヴィの肌をクローズアップすると生々しさすら感じさせる。しかしロングになると全てがちぐはぐして一体となっていない印象がある。メカ描写も光が当たりすぎなのかどこか玩具のように見えて、非現実的な印象がある。光の感触は夢のような世界を描くには向いているが、まだ現実世界そっくりに描き出すのは難しいようだ。ゲーム『ファイナル・ファンタジー』シリーズにも共通する課題だ。
cefd3392.jpg『アバター』は典型的な冒険映画であり旅行映画だ。だが現実世界に冒険すべき異世界を失ってしまった。現実の世界に驚きはなくなり、未知に出会った驚きと感動を失ってしまった。世界は単にエンターティメントとして消費するだけの場所として、俗世界とたいして変わらず、あるいは芸人が異文化との接触を大袈裟な驚きをもって笑8ef41e14.jpgいに転換するだけの場所になった。
世界から新たに発見する場所を失った。それは同時に、驚嘆すべき光景を描写できなくなったと同義であった。
映画は人々を驚きと未知への世界へ誘う外部入力装置ではなくなった。ならば、と映画監督のジェイムズ・キャメロンは奮起しabb15dc7.jpgた。
「世界を一から作ってしまえばいい」
地球では決してありえない冒険のフィールドを作ってしまえば、一切の既視感を飛び越えて観客を今までにない世界へと誘うことができる。映画が失った“驚嘆すべき世界への感動”を取り戻すことができたのだ。
8e98dff3.jpg「14歳の自分に向けて描いた」とジェイムズ・キャメロン監督は語る。尾田栄一郎もほぼ同じ発言をしている。大事な心構えだ。14歳、つまり思春期の初め頃は子供時代のドロドロした渾沌状態から脱出し、まるで『不思議な国のアリス』のアリスが体験するような世界が新しい輝きを持って煌きだす頃である。今は「中二病」と蔑む傾向があるが、この頃の感性をなくしてしまうと、作家は二度と傑作は描けないくらいに思ったほうがいい。
f0b87d16.jpgジェイムズ・キャメロンの挑戦は映画『アバター』において間違いなく成功している。惑星パンドラは驚嘆すべき別世界である。ジェイムズ・キャメロンはパンドラという別世界の風景を徹底して精密に、それでいてその世界は幻想的な光を湛え、しかも科学的考証の正確さを常に配慮しながら描ききった。
9707063c.jpg惑星パンドラの生態系や植生、歴史まで目に見えるところから目に見えない領域まで、完璧な精度で一個の巨大な自己完結世界を作り上げた。
そのなかでとりわけ熱を注いで描かれたのは異星人ナヴィの描写である。ナヴィたちの身体的特徴や生活様式、彼らがどんな文化を持05dad85b.jpgち、歴史を語り、日々を過ごしているか。ナヴィの生活環境を始めとして、その環境に合わせた風習の一つ一つ、誕生から生育、食事、性、さらには儀式と死といった宗教的側面まで妥協なく描ききった。
映画『アバター』は旅行映画であると同時に異文化交流の映画151ed51e.jpgである。アバターへと人格を映したジェイクがナヴィたちの住居にホームステイするのである。もちろん、ただ数日過ごすだけではない。ジェイクは驚くべき好奇心と探究心、それから適応能力で外見だけでなく実際にナヴィと同化し、その暮らしと文化を体得してその過程を映画のフィルムを通して我々にその一端を提供するのだ。
『アバター』という旅行映画は間違いなく成功だが、その煩雑さからおそらく流行らないだろう。我々はジェイムズ・キャメロンという稀代の才能によって、非常に稀な経験をしたのだ。
a0026ad8.jpgデジタル映像の難しさは制作の実態に接してみないとわからない。デジタル映像に接している人の99%くらいは「CGはボタン1つで完成する」という通俗的な説明を鵜呑みにして、デジタル映像を安易と見做す傾向がある。だが実際のデジタル映像は苦労に苦労を重ね、努力に努力を重ねた結果としてできるものだ。「ストップモーションと着ぐるみは職人的なものだが、デジタルは安易である」、という考えは広告で刷り込まれた思考に過ぎない。実態を確かめず言われた通りの思考しかしなくなると、物事を軽視する考え方が身についてしまう。
202895b2.jpgそうした夢想世界への攻撃を企てるのは地球人である。白人唯物主義の意識は100年以上の先の未来でも相変わらずで、異文化の尊敬など皆無で自分たちの経済原則の思想を押し付けようと迫ってくる。
西暦2154年の未来では地球は人口増加の結果として、あらゆる地72267703.jpgafeae44c.jpg球資源を消費しつくして荒廃していた。そんな地球人が道楽や探究心で異世界へ旅立ち、拠点にするはずはない。惑星パンドラの地中に眠る鉱石“アンオブタニウム”が地球の資源問題のすべてを解決ecea6456.jpgする夢の魔石と信じられていた。
100年後の未来であれ200年後の未来であれ、“文化的”な白人は新しい土地を見つけると「自分たちの物」と旗を立ててしまう。彼らの理屈で土地の権利者となる。その土地に住んでいる住人は当然、白人の所有物だ。白人はその土地の生活を迎合せず、“文化的”なd1b98d84.jpg彼らは自分たちの暮らしと文化を持ち込み、その他の一切を無駄・無価値・非合理的と焼き払ってしまう。
そんな白人の歴史を、白人が描く何ともいえない皮肉がこの映画にはある。
白人文明は基本的に自尊心が強烈で、「自分たちの文化こそ世界211ef47a.jpgのスタンダートだ」と優勢主義的な考えを普遍的に持ち、異文化を軽視する傾向を持つ。だから周辺国家は異境であり、また自由な地域であるから旗を立てていいし、住民は劣った人種であるから自分たちの“文化的”なルールを押し付けるのが善意だと思っている。
そんな白人文明も時に、何かの拍子に鏡を見たのかわからないが、6a1d1483.jpg極端な自虐傾向を持つ。自分たちの文化を野蛮で攻撃的な文化と見做し、(優越性を維持しながら)異文化に憧れと尊敬を抱く(あるいは飽くまでも哀れむ対象として)。日本も西洋にとってそういうポジションにある国である。西洋は日本人を下等な黄色猿と見下す一方で、脅威を抱いているのだ。ナヴィたちと同じように。
20b036d6.jpg『アバター』はそういう白人文明の自虐的な側面が描いた物語であるといえる。
ナヴィ族は後頭部から伸びる触手は、自然界の動物と連結して魂の交流を可能とする。これは土着的宗教を徹底的に駆逐し、自然を支配の対象と見做してきた白人文明の憧れと反省が描いたものだ。ま29831772.jpgた同じ領域に達した高度文明が抱きがちな幻想だ。そのナヴィ族を容赦なく攻撃し蹂躙しようとする姿は、そのまま現代にも通ずる戦争の風刺のようだ。
『アバター』にはそんな白人特有の自虐的な側面を強く感じさせる。だからなのか、白人文明は『アバター』の物語を拒絶をもって距離をa49020c6.jpg置こうとしているようだ(『アバター』的な侵略行為に覚えるある国が国家レベルで批判しているのも、あからさますぎて滑稽だ)
df0e9f5c.jpg言うまでもなく3D上映が、“かつて体験したことのない映像”という感覚を補強している。3Dは補強に過ぎないが、ファーストインパクトとして『アバター』をお勧めしたい。

69929f01.jpg
映画は光と影が作り出す幻覚であり、映画に接している瞬間は我々は夢に近い感覚を感じている。
真っ暗闇で身体感覚をなくした我々は、眼前に迫る“ここではないどこか”へと意識を飛翔させる。映画の世界には現実世界にはありえ5577259c.jpgないような美男美女のロマンスがあり、美しい光景があり、俗世界では決して経験できないようなあらゆる体験を提供してくれる。それは一種の神秘体験に通じるものでもある。
忘れている人もいるかもしれないが、そもそも演劇はロールプレイ的な趣旨を持つ。自分ではない別人格、多くの場合は神や鬼をその身273fc95b.jpgに宿し、その人間の魂を俗世界から引き離し、意識を恍惚の世界へと引き上げる。自分ではない何かに姿を変え、ここではないどこかへ冒険していくことが演劇の本質であり、当然、映画の本質も同様のところにあるはずだった。
だがいつの間にか“映画の向う”の世界は特に驚嘆すべき場所では31da057e.jpgなくなってしまった。あまりにも見慣れてしまった物語に情景。
ふと気付けば、映画の世界は平凡な俗世界とあまり変わらないか、その延長となってしまった。馴れすぎてしまったのだ。映画という経験が特殊というにはあまりにも日常的になってしまったし、作り手も一時の享楽を提供1dd0b789.jpgするだけでそれ以上の驚きと発見をそこに描こうという努力をしなくなってしまった。「リアリティ」という考え方が映画から神秘的なものを積極的に排除してしまった(リアリティなどクソ喰らえ)
さらにこれはテレビゲームが切っ掛けで言われるようになったことだが、「現実と非現実の46b0d3f6.jpg区別がつかなくなる」とまで言い始めた。つまり非現実的体験は有害である、と考え始めたのだ。多くの人が刷り込みで接している世界は絶対1つだけのものであって、そこに発見や止揚の可能性すらなく、絶対的堅牢な空間である、というわけだ。
だが『アバター』は、そんな我々を異世界へと導き、そこでの一時を現実感のある物として体験させてくれた。映画が始まると同時に俗世界の原理を一切忘れさせてくれた。『アバター』が描き出したのは驚嘆すべき異世界であり、異世界を体験するために作られた映画である。
『アバター』に接している間、我々は映画の主人公ジェイクと同じように“アバター”に“リンク”し、あのジャングルを駆け巡るのだ。

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作品データ
監督・脚本・製作・編集:ジェイムズ・キャメロン
撮影監督:マロウ・フィオーレ 音楽:ジェームス・ホーナー
プロダクションデザイナー:リック・カーター ロバート・ストームバーグ
編集:スティーブン・リフキン ジョン・ルフーア
シニア・ビジュアル・スーパーバイザー:ジョー・レッテリ
衣装:マイェス・C・ルベオ デボラ・L・スコット
出演:サム・ワーシントン ゾーイ・サルダナ
  シガーニー・ウィーバー スティーブン・ラング
  ミシェル・ロドリゲス ジョヴァンニ・リビシ
  ジョエル・デヴィッド・ムーア ウェス・ステューディ



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3D映画体験報告

私にとって『アバター』は初めての3D映画だった。普通に映画雑誌は読んでいるから3D映画について詳しい情報が入ってくるものの、実際どんなものか見るまでイメージがわからなかった。おそらく、まだ未体験の人はやはりイメージがつかめないのでは、と思う。というわけで、ここでは3Dを見て感じた印象を書いてみようと思う。もちろん個人的体験なので、別の人に聞いたらまったく違う印象が出てくるだろう。最終的には自分で体験していただくのが一番だ。

まず始めとして、「ちゃんと3Dだった」と報告すべきだろう。「あれ? ここ3Dじゃないぞ?」とか「ここは立体にすべきじゃないのでは?」という部分はなかった。ちゃんと映像に描かれるパースラインに合わせて世界がせり出してくる感覚があった。
そもそも始めから3D映画を前提として撮影されているのだから当然といえば当然なんだが、3Dの表現に懐疑的だったからちょっとした驚きだった。
次に3D表現だが、あくまで“擬似立体”であり、“強調された立体”である、と書いておくべきだろう。
例えば人物が3人並んでいる、という映像がある。この場合、人物と人物の間に空間と距離感が意識される。距離感が“強調される”というくらいせり出してくる。だが、人物の鼻や首といった細かな立体はほとんど意識されないというか無視される。もしかしたら立体的に描かれているのかもしれないが、平面世界の刷り込みのせいか、その他の強調されすぎた立体のせいか、細かな立体は意識できなかった。
また物体や風景が視界からはみ出すといった錯覚も起きる。例えば画面左端か右端から人物が飛び出すと、本当に視界の死角から飛び出したような感覚を得ることができる。これは実際に視界の死角から出てきたのではなく、そういう錯覚に過ぎないが、ちょっと新鮮で面白く感じた部分だった。普段我々は、映画のスクリーンないしテレビの画像は端から端まで視界に収まるのが良い、と考える癖があるが、3Dになるとスクリーン全体を視界に収めても、それでも死角から何かが飛び出してくる錯覚が得られるのである。
もう一度繰り返すがこれは“強調された3D”である。実際以上に強調された立体が描かれるので、3Dカメラを外して現実世界に戻ると、現実世界がむしろ平面のように感じられる、という奇妙な感覚があった(これは脳の作用で“平面に感じられる”ように処理されているそうだが)

3Dになると、映画の表現手法にも影響すると考えられる。
というのも、これまで映画はあくまで2Dだった。実際が3Dであっても、完成したフィルムは2Dなのである。だから平面上でいかに奥行きを表現できるか、が演出家の腕の見せ所だった。
例えば、手前に何かが浮かんでいたとする。距離はどれくらいなのか、大きさはどれくらいなのか、観ている人にどういった質感を感じて欲しいのか。
2D映画の場合、「そのように見える」工夫が必要だったわけだが、3D映画では直裁的に距離感を表現できるわけである。騙し絵的な錯覚を使わず、簡単に距離感や空間が作り出せるのだ。
特に有効に思えたのは“絶壁”の表現だ。映画にはよく絶壁を飛び降りる場面がある。ハリウッド映画では、何かあったらとりあえず飛び降りる勢いだ。だが所詮は2Dでの表現だ。絶壁がどれくらい高く、そこに立った感覚がどれだけ恐ろしいのか実感がわかなかった。スタントが飛び降りて、悲鳴やリアクションなどを手掛かりに実体験と組み合わせて何となくこれくらいだろう、みたいに捉えていた場面である。それでもギアナ高地くらいの絶壁になると、実体験がなくてリアリティを感じなくなってしまう。
『アバター』にも絶壁が登場し、やはり飛び降りるわけだが、その高さや落下の感覚が3Dで表現されていた。3Dになると、立体的に高さと落下の感覚を表現できるわけである。
また手前に飛び出してくるのだから、観客の視線を誘導も簡単にできる。これまでは主人公はどこにいるのか、作家はどこを見て欲しいのか、視線を誘導するためにあらゆるトリックが使われてきた。ほとんどの人は気付かないまま作家の思惑通りに視線を移動させてきたのだが、実は視線誘導にも様々な技法やトリックが背景にあったのだ。そのための構図作りも演出家にとって悩みの種だった。
だが3D映画だと手前にせり出してくるから、その方法論が根底から変わる。安直なやり方を書くが、作家が見てほしいものを手前に置けばいいわけだ。
もちろん、本当に主人公を手前に置いただけの映像を作れば安直・手抜きの非難を浴びるだけだ。むしろ簡単に視線誘導ができるようになったのだから、作家はさらなる演出の違いを模索する必要が出てきたわけだ。

次に、3D映画を見てマイナス点、弱点に思ったことを書いていこうと思う。
まず、画面に奥行きが作られるのだから、観客は視線移動に加えてピント移動も必要になってくる。字幕の映画だと、手前に浮かぶ文字(字幕の文字はかなり手前)とパース上の奥の人物を見るとき、目のピントを合わせながら見なければいけない。それに時間がかかってちょっと映像を見逃すやら字幕を読み逃すなどがあった。
また映画がはじまって30分ほど、どうしても全体がぼんやりとボケる感覚があった。初めての3D映画でどこにピントを合わせるべきなのかわからなかったのだ。映画の終盤に入って、スムースにピントを合わせられるようになったから、これは単に経験上のものだろう。今後も3D映画が流行すれば、自然に身に付く感覚ではないかと思う。
次に観ている間、軽い頭痛を感じた。多分、上の理由による眼精疲労のものと思われる。これもやはり経験的な問題だろうと思う。
3Dメガネだが付け心地は最悪だった。うまく頭に固定できないばかりか、耳にかけるブリッジ部分の圧迫が大きかった。しかも私はメガネをかけた上に3Dメガネだったので、頭が非常の重かった。3Dメガネそれ自体の設計を見直す必要がありそうだ。
映画中、一度3Dメガネを外してみたのだが、元の画面が非常に明るいのに驚かされた。最初から最後まで3Dメガネをかけていたら気にならないと思うのだが、もしかしたら2D映画より色彩や光の効果が少しマイナスになっているのかもしれない。もちろん、作り手側もそれを前提にして通常より明るい画面を作っている筈だと思うが。
映画が終わり、3Dメガネを外して映画館を後にしようとした時、3Dメガネがひどく汚れているのに気付いた。まだこれから、という人は鑑賞前に3Dメガネを軽く普通メガネ用の布で拭くのをお勧めする。というか、まさか画面が暗く見えた原因ってこれじゃあるまいな。

補足:この記事を書いてから、3D映画の問題点が少しずつ見えてくるようになったので、書き足しておこうと思う。
3D映画は、距離感を克明にする性質を持つ。どうやら、それが弱点になりそうだ。
例えば、2人の俳優が向かい合って殴り合うシーン。これまでは、殴る側の後ろにカメラが回り、パンチ、殴られたほうが殴られた振りをして吹っ飛ぶ。従来の2D撮影では、距離感が圧縮され、例え50センチ離れたとしてもパンチが当たったように見える(基本的に、映画撮影は安全が徹底されているので、本当に殴りあうことはない)。
これが3D撮影になると、距離感を明快にしてしまう。50センチ離れていたら50センチ、10センチ離れていたら10センチの距離だ、とわかってしまうのだ。これを回避しようと思ったら、パンチを本当に当てるか、ぎりぎりまで接近して当たった振りするしかない。
俳優は顔が命だ。その俳優の顔にパンチを当てるとなると、大問題だ。3D映画では主演級俳優の顔面は絶対殴られない、なんていう不思議なルールが発生するかもしれない。将来的には、デジタルで距離感を修整する技術が生まれると思うが、それまで有名俳優同士の殴りあいシーンは3Dで見られそうにない
思えば映画はずっと2Dであり、2Dを前提に技法が模索されてきた。そのシーンを表現するために、どういった構図を使うか、どのようなレンズ効果を使えばもっともらしく見えるか。
例えば、『スタンド・バイ・ミー』で少年たちが汽車に追いかけられ、線路の上を必死に走っていくシーン。ヒッチコックは『めまい』で高さを表現するために、逆ズームという不思議な技法を編み出した。遠近法を利用して小人族を表現した『ロード・オブ・ザ・リング』という作品がある。某メーカーでは、3Dに対応していない過去作品も3Dにするテレビを開発しているが、これでうっかり『ロード・オブ・ザ・リング』などを見たら、俳優同士の目線があっていないことがバレて興醒めしてしまう。
3D映画は新しい技法なのは間違いないが、だが一方でこれまでの演出技法・様式の一部が完全否定されてしまうようだ。3D映画は3D映画のための手法を考案していく必要が発生するが、そこで考案された手法・技法は2D映画ではなんら効果を持たないという弱点が発生してしまう。3Dでは距離感が表現されるから迫力充分、というカットも、DVDなどで2Dになってしまうと、なんとなく拍子抜け、という感じになってしまう。全ての家庭に3Dテレビがあれば別だが、結局は従来どおりの2D撮影技法のほうがよかった、ということにもなりかねない。
3D映画は新しい表現だけに、開拓していく余地があり、それが楽しみであるのは間違いないが、その前途はまだ少し多難のようである。
(追加 2010.8.3)

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