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■2010/01/24 (Sun)
映画:外国映画■
第3章 王の帰還
THE RETURN OF THE KING
THE RETURN OF THE KING
ゴラムは以前、スメアゴルと呼ばれるホビットであった。アンドゥインのほとりに住むホビット三支族の1つである、ストゥア族の生まれであった。
ゴラムに悲劇が訪れたのは不運によるものであった。
その日、スメアゴルは友人のデアゴルと釣りに出かけていた。小さな小舟に乗り、のどかに釣り糸を垂らしていた。間もなくデアゴルの釣り針に魚が食いついた。デアゴルは引き上げようとしたが魚は大きく、デアゴルを水中に引きこんでしまった。
間もなくデアゴルは岸に這い上がるが、その頭に水草を絡め、手には一掴みの泥が握られていた。その泥に、金色に輝く指輪が混じっていた。
「デアゴル。それを俺にくれないか? 俺の誕生日だろう?」
デアゴルは拒否した。奪い合いになった。スメアゴルはデアゴルを押し倒し、首を掴み締め上げた。間もなくデアゴルは体をひくひくとさせて動かなくなってしまった。
こうしてスメアゴルは金の指輪を手に入れた。
ストゥア族の者たちはスメアゴルを「人殺し」罵り、石を投げて里から追放した。スメアゴルは古里を遠く離れ、霜降り山脈を住処にした。
もはやスメアゴルの名を呼ぶ者はいない。スメアゴルの体は衰弱し、髪は抜け落ち服もボロボロになって、ホビットらしい陽気さと理性を失ってしまった。金の指輪はスメアゴルの精神を蝕み、その寿命を長く引き伸ばした。
いつしかスメアゴルは、自身の名前も忘れ、ただただ指輪に取り憑かれるだけのおぞましい生き物になってしまった。
角笛城での戦いに勝利したガンダルフとアラゴルンは、セオデン王と少ない従者を連れてファンゴルンの森の中へと入っていった。深い森を抜けアイゼンガルドに出ると、そこは戦の後のように崩壊し、濁った水で浸されていた。その入口で待っていたのは暢気にタバコをふかしているメリーとピピンだった。
「何て奴らだ! あちこち探してみたのに、見つけてみりゃ腹いっぱい食い、パイプ草!」
アイゼンガルドの戦いもちょうど終ったところだった。エントたちの怒りの襲撃によってアイゼンガルドの施設は崩壊し、忌まわしき地下の溶鉱炉もダム決壊の濁流によって洗い流された後であった。ウルク=ハイの軍団ももはや1人も残っていなかった。アイゼンガルドに残されていたのはオルサンクに篭城するサルマンただ1人だけだった。
ガンダルフはオルサンクの前に進み、サルマンと話し合いを始めた。サルマンは哀れな老人の振りをしてセオデンを誘いかけるが、セオデンはサルマンの魔術を察して断固拒否。
逆上したサルマンはパランティアの石を持ち出し、ガンダルフを挑発した。対するガンダルフはサルマンの杖を破壊し、魔法使いの力を取り去った。
怒りの収まらないサルマンはオルサンクの屋根の上で喚き散らし、従者であるグリマを「野良犬!」と侮辱して殴りつける。
グリマに反抗心が浮かび、サルマンに飛び掛って背中からナイフを突き立てた。そのグリマをレゴラスが矢で射抜く。絶命したサルマンはオルサンクの塔から落ちて絶命した。
ガンダルフはパランティアの石を手にし、仲間たちとともにエドラスの黄金館に戻った。
ローハンの男達は戦いを終えて祝杯を上げていた。だがサウロンとの戦いはまだ終わってないし、次にどんな手を討ってくるのか想像もできない。それにフロドの生死も不明だった。無事にモルドールに向っているのか、手掛かりは何もなかった。
そんなある夜、ピピンは眠っているガンダルフからパランティアを奪い取り、その中を覗きこんでみた。するとパランティアは、魔法の力を宿してピピンに取り憑いた。
アラゴルンとガンダルフが助けに入ってピピンからパランティアを引き離した。ピピンは悪しき魔力に消耗していたが、パランティアから白い木のイメージを読み取っていた。
白い木――それはミナス・ティリスに置かれているイシリアンの木だ。ゴンドールに再び王が戻るその時、花を咲かせると呼ばれる木だ。
サウロンの次なる手が判明した。サウロンはゴンドールの首都ミナス・ティリスを襲うつもりだ。ゴンドール王が帰還する前にその玉座を破壊する計画だ。
ガンダルフはピピンを連れて飛蔭に跨った。サウロンはピピンが指輪を持っていると思っている。だからあえてピピンを連れてゴンドールへ向うのだ。
3日後、ガンダルフはミナス・ティリスに到着した。デネソールに面会を求めるが、デネソールはボロミアの死を知り、深く嘆いていた。ガンダルフは狼煙を上げてローハンに救援を求めよ、と忠言するがデネソールは受け付けなかった。そんなデネソールの哀れな様にピピンは責任を感じ、奉公すると申し出る。
ペレンノール野に暗雲が覆いつつあった。あれは自然の風が送り込んでくる雲ではない。陽の光を嫌うオークの軍団を送り込むために、サウロンが作り出した雲だ。
間もなくオスギリアスを守備していたファラミアが、襲撃を受けてミナス・ティリスに遁走してきた。サウロンの闇の軍勢はオスギリアスの防衛線を乗り越えて次々と押し寄せようとしている。戦いの時が今まさに訪れようとしていた。
フロドとサムはゴラムを案内人に旅を続けていた。いよいよキリス・ウンゴルの暗い山脈を前にしようとしていた。その手前にミナス・モルグルと呼ばれる城があった。フロドたちが通り抜けようとするとミナス・モルグルは不気味な光を空へ吹き上げた。それに呼応するようにおぞましい獣に乗ったアングマールの魔王が姿を現し、続くようにオークの軍隊が隊列を作って出てきた。
フロドたちはオークの軍団に見つからないように身を潜め、ゴラムの案内で崖に刻まれた長い階段を登って行く。
その途上で、ゴラムは唯一の食糧であるレンバスを投げ捨てて、「サムが全部食べてしまった」とフロドに吹き込む。ゴラムを信じたフロドは、サムに「お前はもういい。家に帰れ」と切り捨てる。
フロドはゴラムとともに階段を登りきり、その先のトンネルに入り込む。そこは大蜘蛛シェロブが巣を作る危険な場所だった。フロドはシェロブの存在を知らず不用意にトンネルの中に入っていき、その毒針に胸を刺されて倒れる。
ようやく駆けつけたサムがシェロブを撃退するが、すでにフロドは息をしていなかった。しかもそこにオークたちがやって来る。サムはとっさの判断でフロドから指輪を抜き取り岩陰に身を潜める。
とそこで、サムはオークたちの会話で、フロドは仮死状態になっただけで死んでいないと知る。しかしフロドはオークたちが根城にする塔に従れさらわれてしまった。
サルマンの死は原作と異なる。原作ではホビット庄で冒険を終えたフロドたちを待ち構えていた。死ぬまでのやりとりは映画版と同じ。サウロンとの壮絶な戦いの後にもう1つ冒険、というのは冗長であると判断されたのだろう。
サルマンはナイフで刺され、串刺しになり、さらに水に沈められる。これは「魔法使いは3度殺さないと死なない」という言い伝えに従ったものだそうだ。
映画史上最大級の叙事詩もいよいよ終わりの時を迎えた。第3部においてすべての戦いに決着がつき、物語が収束していく。これまでの伏線がより大きなドラマへと発展していき、より暗く過酷な運命の時を迎える。
最終章だが物語が小さくつづまっていく感じはない。これまで以上に複雑で雄大かつ壮絶な戦いの物語が繰り広げられ、英雄達のドラマはより力強い生命力を持って語られていく。
映画の背景においてもはや解説の必要がなく、ドラマを語るべき段階に入ったからだ。だからこそ第3部は、シリーズにおいて最も感動的な情緒に溢れている。
第3部に入って、登場人物たちはそれぞれに試練が与えられる。狂気に捉われたデネソールから父としての愛を得ようとするファラミア。同じくデネソールに奉公することになったピピン。戦いを前に葛藤するローハンのセオデン王や、その後を追って戦いに参加するエオウィンとメリーの存在も忘れてはならない。ゴンドールの魔の気配に冒され、衰弱していくアルウィンもいる。
その中でもとりわけ存在感を放つのがさすらいのレンジャー・アラゴルンだろう。アラゴルンは指輪に捉われて殺されたイシルドゥアの末裔にして正当なる後継者である。だがそれだけに、自身の弱さを恐れている。かつてイシルドゥアが犯した過ちを自分も犯すのではないか――その血を引いている限り、指輪に捉われた王という宿命から逃れられないのではないか。
だからアラゴルンは身分を隠し、野伏として生きてきた。それはサウロンたちの勢力から身を隠すためでもある。
だが第3部において、ついにアラゴルンは自らの宿命を受け入れて戦いの覚悟を決める。王の剣であるナルシルが鍛えなおされ、アンドゥリルの剣として復活した。アラゴルンはイシルドゥアの後継者として王の剣を持ち、かつて王に忠誠を誓った軍団を束ねていく。
それからのアラゴルンの活躍、勇猛さは映画をご覧のとおりだ。アラゴルンを演じたヴィゴ・モーテンセンは王の風格と聡明さを見事に体現している。ヴィゴ・モーテンセンなら王として君臨しても相応しいという気にさせてくれる。
ピーター・ジャクソン監督がメイキングなどで公言しているが20年後にアニバーサリーを企画しているようだ。その時には現段階でも未公開にしている映像や、メイキングにちらと映し出された秘蔵映像を加えた“本当の完全版”を作るらしい。もちろんCGなどは最新の技術で描き直す計画だ。すべてのエピソードも時系列順に整列される、とも語っている。ただ、トータルで何時間の映画になるのかは不明だ。
第3部においてもっと感動的なドラマを演じてみせたのは、間違いなくフロドたちであろう。指輪の魔力で衰弱し、それでも諦めず滅びの山を目指していく。ゴラムに騙され仲間に疑いを抱き、その身がボロボロになって崩れそうになっても、なおもがくように目的地を目指して進んでいく。
フロドは容赦なく痛めつけられ、傷付けられ、死の淵のぎりぎりのところまで追い込まれていく。次第に衰弱し、体は痣だらけになっていく。そんな様に我々の心は鷲掴みにされ、その過酷な試練に挑戦していく姿に一時も目を離せなくなる。
第3部はどこまでも厳しくつらい試練の場面である。誰もがぎりぎりの戦いに挑戦し、その苦しみに対し、恐れは抱くものの決して避けようとしない。なぜなら彼らは、避ける時ではないと知っているからだ。今こそ受け入れるときだと。試練を受け入れ乗り越えないと、その先にもう明日はないと察しているからだ。だから彼らは、躊躇いを捨てて試練に挑戦していく。
ピーター・ジャクソンは3部作全てに出演。皆勤賞を果たした(カメオ出演で)。第3部では、海賊の役でプロデューサーを初め裏方スタッフが揃って出演している。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』において素晴らしい成長を遂げたのは映画内におけるキャラクター達だけではない。映画製作会社WETAは今や映画産業においてなくてはならない制作会社になった。
もともとは『ロード・オブ・ザ・リング』の制作のためだけに作られた制作スタジオだったが、今やその枠をとっくに超えてしまっている。当初は専門学校をちょっと出たばかりの学生ばかりが集る頼りなげな制作会社だったが、映画が終わる頃には世界中が認める一流企業になった。
最近制作された規模の大きな映画はほぼすべてWETAが関わっているといっていいくらいだ。WETAの個性はデジタル技術だけではなく(デジタルばかり注目されるが)、あらゆる物もなければ作ってしまえ、という心構えにある。衣装やプロップといったものを、紛い物ではなく本物を作ってしまう技術と職人を抱えているのだ。緻密に作られた装飾品や、鍛冶職人が鍛え上げた本物のようではなく、紛れもなく本物の鎧や剣。そうした本物を作れる職人がいるのもWETAの魅力でもある。
このシリーズにおいて乗馬は必須スキルであったが、ファラミアを演じたデヴィッド・ウェンハムは最後まで乗馬を習得できなかった。だからファラミアの乗馬シーンはすべて腰から上のクローズアップである。実は樽に乗って振りをしているだけだからだ。それでも乗馬していると疑わせないのは演技力の賜物だ。
総制作費340億円という大きな予算も第1作目で全て回収し、第2部はそれ以上の利益を上げてしまった『ロード・オブ・ザ・リング』である。もはや世界中の誰もが待ち望む作品の1つであった。それだけに、待ちに待った第3部の熱狂はすさまじいものであった。
日本におけるワールド・プレミアは増上寺で開催された。東京タワーをバラド=ドゥアに見立てて、魔法の指輪を本殿に奉納するという式典であった。
日本のワールド・プレミアも相当金のかけた大掛かりなものであったが、本国ニュージーランドはもっと際立っていた。
ウェリントンの国会議事堂をスタート地点としておよそ3キロに及ぶレッドカーペットが敷かれ、出演者達がオープンカーに乗ってパレードをするのである。レッドカーペットの周囲にはニュージーランド中から人々が押し寄せて、大興奮で出演者達を迎え入れた。そんなパレードが始まると、空中をフロドたちの写真をプリントされた旅客機が旋回するのである。
まさに偉大なる戦いを勝利した英雄を歓迎する行進であった。
ペレンノール野でのローハン軍突撃はこの映画においてもっとも胸躍る瞬間の1つだ。ここで改めて原作の記述を確かめてみよう。
「すると見よ! 盾は太陽の化身さながらに燦然と輝き、乗馬の白い足の駆けるところ、草は緑にもえ立ちました。夜明けが来たのです。夜明けと風が海から訪れたのです。暗闇は取り除かれ、モルドールの軍勢は泣きわめきました。恐怖が彼らをとらえ、彼らは逃げまどって絶命しました。そしてその上を憤怒に駆られた蹄が踏みにじっていきました。」(新版指輪物語8 王の帰還・上 233ページ)
なんと“暗闇は取り除かれる”以外は記述通りそのままだ。監督がこの記述からどのようなイメージを持ち、どう発展させていったか。『キング・コング』の事例でもそうであったが、ピーター・ジャクソンのイマジナリティを読み解く1つのヒントになりそうだ。
ところでエンディング曲であるアニー・レノックスが歌う《イントゥ・ザ・ウエスト》には1つの物語が隠されている。
《イントゥ・ザ・ウエスト》は過酷な旅に疲れた者の心を癒し、安らぎを与える歌である。まさに映画『ロード・オブ・ザ・リング』のラストを飾る歌として、英雄達に相応しい曲である。
だがこの歌の中心人物はフロドやアラゴルンとは別にもう1人いる。わずか16歳でこの世を去った若き映画監督キャメロン・ダンカンである。
ピーター・ジャクソンは妻のフラン・ウォルシュとともに臓器提供の促進運動を支援していた。CM製作などをしていたのだが、その時に出会ったのがキャメロン・ダンカンであった。ピーター・ジャクソンがキャメロン・ダンカンと出会った頃はまだ12歳の少年であったが、素晴らしい感性と洞察力に満ちた映画を作り上げていた。
だがコンタクトを取ってみるとキャメロン・ダンカンはすでにガンに侵されていた。骨肉腫であった。余命は短く、キャメロン・ダンカン自身もすでに自分の寿命が終わるのを察していた。
それでもキャメロン・ダンカンは死に怯えず映画製作に打ち込んだ。自身を主役に据えて、自身の痕跡を残すために映画を作り、短編映画『ストライク・ゾーン』を完成させたと同時に死亡した。
同じ頃、フラン・ウォルシュは《イントゥ・ザ・ウエスト》の作詞の最中であったが、この事件が作詞に大きな影響を与えた。《イントゥ・ザ・ウエスト》の歌詞が示している安らぎと祝福の対象はもちろんフロドたちであるが、もう1人キャメロン・ダンカンに向けられているのだ。
広大に思えるミナス・ティリスのセットだが実際はほんの一部しか作られていない。同じ場所をカメラの位置、物や人の配置を入れ替えて何度も撮影したのだ。移動しているように見えて実は同じ場所を何度もぐるぐる回っている。これも映画トリックの1つだ。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』は興行的な利益をもたらしただけでなく、多くの栄誉が与えられた映画でもあった。
アカデミー賞11部門ノミネート、その全てにおいて受賞。これはアカデミー賞始まって以来の快挙だったそうだ。しかも『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズトータルで17本のアカデミー賞を獲得している。それ以外の映画賞を加えるとどれだけのトロフィーを手にしたのかもはやわからない。『ロード・オブ・ザ・リング』は実に3年もの間、人々の関心と注目をさらい続けた映画であった。
だがそんな映画にもお別れのときがやって来た。その最後は最も激しく、最も過酷な渾沌を前にして燃え上がり、主人公は恐るべき艱難に立ち向かっていく。
闇の世界から放たれた大波は、緑の野と山々を飲み込み、何もかもを暗く覆い尽くしていく。そして私は、真っ暗な水の底を孤独になって見詰めている。何もできず、無力感に絶望しながら。背中に光を感じていたけど私は振り向けず、ただ立ち尽くしていた。
希望がどこにも見えない物語。しかしそれでも私たちの心を離さず、強く捕らえて進んでいく。
そんな物語の最後には英雄が平和を獲得する。古里に帰っていくと、古い友人たちが旅立った者を受け入れ、途切れていた時間などなかったかのように日常が回りだす。
緑竜館へ行くと、皆はいつもと変わらない様子で大騒ぎしていた。彼らは何も知らない。彼らがどんな世界を旅して戦ってきたか。彼らは何も知らない。平和の尊さを。それから深い傷を負った英雄たちの心中を。
戦いの思い出と傷は共に旅した仲間の胸にひっそりとしまい、今は平和の暖かさを深く噛み締めながら乾杯をしたい。
だが一度平和の里を出てしまった者にとって、途切れてしまった日常は元に戻せない。時が元に戻せないように、一度知ったものを戻すわけにはいかない。恐ろしい恐れと不安はその後も胸を取り憑いている。英雄には安らぎが必要だ。それも静かで、永遠に続く安らぎだ。
彼は海の向うへと旅立ってしまった。さあ、長い長い物語ももうおしまいだ。そんな言葉を我々に戻して。
こうして物語は閉じていく。創作の世界が我々の前に扉を開けるのはほんの僅かな時でしかない。夢の世界の住人と共にできるのは束の間でしかない。あのどこまでも広がる野も、白く輝く浜も、静かな空を舞う鳥たちも、潤いの雨を降らす雲も、物語の終わりと同時に我々の前から去っていく。
さあおしまいだ。
あそこは今や失われてしまった場所だ。別れを惜しんでも構わない。涙の全てが悪しきものではない。
だが誰にとっても『ロード・オブ・ザ・リング』の物語は離れがたいものであった。読者の全てが通過したように、出演者や製作スタッフたちも別れを惜しんだ。出演者や製作スタッフにとって、単純な別れではなかった。もはや人生の一部になりかけていた創作物である。
もっと掘り下げる余地があるかもしれない。もっと精度を上げられるかもしれない。何よりも離れがたい。
だが別れの時はやってきた。映画の完成と共に、人々は永遠の友情と愛を誓い合い――解散した。
第1章『旅の仲間』を読む
第2章『2つの塔』を読む
映画記事一覧
作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:アニー・レノックス
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
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