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■2010/01/21 (Thu)
映画:外国映画■
第1章 旅の仲間
THE FELLOWSHIP OF THE RING
THE FELLOWSHIP OF THE RING
言葉は神話に思いを馳せるように、渾沌の闇から聞こえてきた。
太陽は今のようにぬくもりはなく、石は今のように固くなかった。人は巨人と暮らし、神々の祝福がすべてを覆っていた。
だがかの時代の言葉はもう我々は知らない。その断片を耳にするばかりだが、そこにどんな精神が込められていたのか――かつてを訊ねて歩こうとする者もいなくなった。
歴史が本にまとめられ忘却される以前、人々は本当の英雄物語を歌にして語っていた。人間はもっと大きく、偉大で強かった。精神は気高く純潔で、一方でどこまでも邪だった。
そんな時代には古里と呼ぶべき場所があった。誰もが懐かしく心に思い描き、2度と戻っていけない場所。私たちは風景の中にその断片を見つけては心を痛め、涙を浮かべている。知らないのに、誰もがその場所を求めている。
人間は何もかも忘れてしまった。妖精たちと戯れた幸福なひとときを。古里の憩いを。邪悪な魔物と戦った英傑たちの勇気を。
人々は失われた扉を求めて、彷徨い続けている。
それは神話に語れた時代――。
全ては指輪の誕生から始まった。
3つの指輪が不死の命を持つ美しい種族、エルフに託された。
7つの指輪が鉱石採掘と細工物に優れた種族、ドワーフに託された。
9つの指輪は欲望と権力にまみれた人間達に託された。
それぞれの族長たちは指輪の力で、それぞれの土地を治めるはずだった。
だが指輪はもう1つあった。
モルドール国の火を吹く《滅びの山》に住まう冥王サウロンが密かに1つの指輪を作っていた。それは他のどの指輪よりも力を持っていた。サウロンはその指輪の力で、中つ国(ミドルアース)のすべてを支配しようとした。
人間とエルフは協力して連合軍を作り、サウロンの魔の軍団と戦った。その最後は人間の英雄イシルドゥアの剣によってサウロンは討ち滅ぼされた。
歴史は伝説となり、伝説は神話へ――。
かの戦いから2500年の歳月が流れていった。指輪を知る者はなく、戦いは歴史の一幕として忘却し、指輪の存在も同時に忘れられた。
しかしふとした切っ掛けで指輪は新しい持ち主を捕えた。
どの歴史にも掲載されない、特別な力も優れた知識も持たない小さな人たち――ホビット族であった。
時代は中つ国の第3紀。ホビット庄歴に置き換えると1400年9月22日。そこはホビット村の小山の下の袋小路屋敷だ。
ホビットたちは住処を4つの区域に分けて長年暮らしていた。その他の種族はホビットに無関心か、あるいは御伽噺の存在として切り捨てていたし、ホビットたちも外の人たちの政治や文化には無関心だった。
ホビットたちが情熱を傾けるのは食べることだけと言われているが、それは一面的な性格でしかない。ホビットたちの関心ごとはビールやパイプ草と実に様々だ。だが何より愛するのは、平和な静けさとよく耕された大地。ホビットは育ち行く生命を愛おしむ。
他の種族から見れば風変わりな暮らしと思うだろう。だがホビットの人たちはのんびりした生活の中でこう思っている。「そんな単純な暮らしを祝福するのも悪くない」と。
ホビット庄の暮らしはこうして脈々と続いてきた。小さな事件は起きても暮らしはずっと変わらない。ごく僅かな変化があるだけだ。この土地が世代を越えてすべてを受け継いでいく。――そう、これからも。
『指輪物語』には常に対比するものが描かれている。ホビットに対してゴラム、エルフに対してオーク、灰色の賢者と白の賢者、白の塔と黒の塔、サウロンは元々はガンダルフたちと同じマイアールだった。善と悪、白と黒という関係で物語は常に相対構図を作りながら進行している。登場人物、舞台は2つずつ登場する法則を持っている。
しかし不穏な影は確実にホビット庄を捉え、忍び寄ってきていた。その発端はすでに神話の時代より流れ出て、ビルボ・バギンズのポケットの中に引き継がれていた。
その日はビルボの111歳の誕生日だった。平均寿命100歳といわれるホビットたちの中でも111歳のビルボは記録的な高齢だった。ホビット庄には多くの人達が集り、祝賀ムードに湧き上がっていた。
祭りもたけなわになり、ビルボが皆の前に立ってスピーチを始めた。その最後に、ビルボは唐突に姿を消してしまった。あの指輪をはめたのだ。
魔法使いガンダルフはすぐにビルボが指輪を使ったと察して袋小路屋敷へと向った。ビルボが持っていたのは間違いなく魔法の指輪だった。ガンダルフは指輪は危険な魔力を持っている警告し、ビルボに手放すように忠告する。
ビルボはエルフ達が住まう裂け谷へと旅立ち、指輪は養子のフロドに引き渡された。ガンダルフはフロドに、指輪の件は絶対に口にするな、と警告を与えて去っていく。
映画ではガンダルフはすぐに戻ってきたように描かれているが、原作を読むとこの間に数年の時間が横たわっていたとわかる。この間にガンダルフはゴンドールを訪ね、アラゴルンと共に死者の沼地でゴラムを捕縛した。緩慢に思える第1部だが、驚くべき短縮で矢継ぎ早に色んなものが進行している。
数年後、ガンダルフはフロドの前に戻ってきた。指輪は神話に語られたサウロンが鍛えたあの指輪であった。しかも魔の軍勢はすでに指輪の所在を察知し、フロドから奪い去ろうと黒の乗り手ナグズルたちを放っていた。
もはや一刻の猶予はない。ガンダルフはフロドに指輪を預け、旅立たせる。
一方ガンダルフは先輩である白のサルマンに助言を求めにアイゼンガルドのオルサンクへと向った。だがサルマンはすでにサウロンの軍門に下っていた。ガンダルフはサウロンの罠に掛かり、オルサンクの屋上に幽閉される。
フロドの旅はいとこのメリーとピピンを加えて順調に進んでいた。ガンダルフと会う予定だったブリー村の踊る小馬亭へと向うが、そこにはガンダルフはいなかった。ブリー村の宿をナグズルたちが襲い掛かる。フロドたちは窮地をアラゴルンに救われ、ブリー村を脱してさらに旅を続いた。
だがナグズルたちの追跡は続いていた。ついにフロドたちは追い詰められ、ナグズルの剣で傷を負ってしまう。
ナグズルの剣には呪いの力が込められていた。フロドは呪いに蝕まれ、衰弱してしまう。そんな最中、エルフの姫アルウェンがフロドを迎え、俊足の馬でナグズルたちを振り切り裂け谷へと到着する。
『指輪物語』の映像化は多くの映像作家が挑戦し挫折してきた。S・キューブリックやJ・ルーカスといった作家たちだ。その失敗の数々が『指輪物語』の伝説のひとつを作るようになっていった。
映画『LOTR』は様々な作品からイメージのヒントにしている。その膨大なリストの中にアニメ版『指輪物語』や、アラン・リーが担当した『レジェンド』などがある。比較してみると面白い発見がある。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作となる『指輪物語』はJ・R・R・トールキンの手によって描かれた壮大かつ長大な叙事詩だ。物語は1937年頃から執筆がはじまり、第1巻が出版されたのは1954年。翌年すべてが出版され、執筆から完成まで実に18年の歳月を要している。
『指輪物語』の物語はあまりも長大で規模が大きく、しかも学術的な裏付けを持った始めてのファンタジー作品であった。それまでの子供向けに語られる童話と違い、『指輪物語』は途方もなく詳細で、歴史に接しているかのような現実感があった。『指輪物語』は単に一篇の物語ではなく、神話の世界から始まり宗教の形成、それからエルフ語やドワーフ語といった部分に言語学的な精密さを持っていた。長大に思える名作『指輪物語』は、トールキンが創作した巨大な神話の断片に過ぎないのだ。
ファンタジーの歴史は『指輪物語』から始まり、『指輪物語』によってその概念が決定的になったのだと言ってもいい。今においても、ファンタジーは悪の大魔王との戦いという『指輪物語』が定義付けした物語の形式から逃れることも飛躍することもできないでいる。
何もかもデジタルで作られた映画と思われがちだが、意外にもデジタルはほとんど使用されていない。小人の撮影は70センチ手前に置くという、遠近法を利用した初歩的な視覚トリックだ。ホビット庄の風景は造園職人が1年がかりでセットに植物を根付かせた。建築物もやはりCGではなくミニチュアだ。他にも多くの撮影技法が試みられており、この作品を細かく解説すれば実用的な技法書が1冊できあがりそうだ
『指輪物語』はファンタジーの原点であるが、その映像化には途方もない困難があった。実写での映像化は不可能。『指輪物語』に描かれた空想の建築物や、裂け谷といった特徴的な風景、それから多様な人種をどう描くべきか。その方法が長年、発見できないでいたからだ。
アニメなら可能かもしれない。アニメ監督ラルフ・バクシが『指輪物語』のアニメ映像化を試みたが、完成した映像は誰に目から見ても明らかに失敗作だった。133分という短い尺度に第1部を描き、さらには第2部である砦での戦いを無理矢理突っ込んだ構成である。映像の構成は通常のアニメとロトスコープの技法が中途半端に混在してちぐはぐとしていて、物語は一貫性が欠落してどの過程を語っているのか不明だった。まるで酔っ払いの戯言でも聞いているような気分にさせられる作品だった。
ラルフ・バクシの失敗が切っ掛けというわけではないが、『指輪物語』の映像化は半ば神話のように考えられるようになってしまった。
映画中の建築は外観はほとんどミニチュアで作られている。ただしミニチュアは光の当たり具合でどうしてもそれとわかってしまう。だからこの作品では途方もなく大きなミニチュアが制作された。最大のものでオルサンクの塔だったが、高さ8メートルに達する。あまりの大きさにビガチュア(ミニではなくビッグ)と名付けられた。
しかし21世紀に入ってこの不可能に挑戦しようという冒険家が出現した。ピーター・ジャクソンその人である。
ピーター・ジャクソンは個人制作で趣味的なスプラッターホラー映画を作り続けていた作家だったが『バッド・テイスト』と『ブレインデッド』がそこそこの評価を受け、『乙女の祈り』でドラマ作を撮れることを証明、その次作でハリウッドに渡り『さまよう魂たち』という小粋なコメディ映画を製作した。
ピーター・ジャクソンのフィルモグラフィーといえば、当時それで全部だった。実力不明で、ハリウッドの映画会社からしてみれば「どこの馬の骨」かわからない謎の男である。
そんな男の妄言を信じてニュー・ライン・シネマは当時としては史上最大規模の340億円を投資。『指輪物語』の伝説に挑戦したのである。
結果として映画『ロード・オブ・ザ・リング』は作品として興行的にも大成功。不可能と思われた原作のシーンの一つ一つを完全再現し、多くの観客を熱狂させ、多くの映像作家に悔しい思いをさせた。ピーター・ジャクソン監督と出演俳優たちは共に多くの名誉を与えられ、映画『ロード・オブ・ザ・リング』は作品自体が『指輪物語』の伝説のひとつとして語られるようになったのである。
第1部は少ないがCGが使われている。その制作レベルははっきり低い。製作スタッフには専門学校を出たばかりの若者達が集められた。だがアラン・リー、ジョン・ハウという2大巨匠らによって鍛えられ、驚くべき成長を遂げWETAは超一流の制作会社になった。教育について考えさせられるエピソードだ。
その物語である第1部『旅の物語』は穏やかなホビット庄から始まる。ホビット庄には人間の姿はなく、みんな小人ばかりで人間社会にあるような暗さや緊張感はどこにもない。
ホビットたちの暮らしは穏やかでつつましく、のんびりした空気に満ちている。後半のおぞましい展開と較べると別作品のようである。
そこは誰もが思い描く古里であるのだ。古里というのは現実の世界にはなく、詩人たちが歌の中で描く場所だ。あまりにも静かで心温まる場所であり、どこかに哀しみを備えた場所だ。
古里での時間はある時代のある瞬間を留めたまま停止している。変化の時は決して訪れない。なぜなら古里という場所がもはや幻想なのであり、だからこそ小人や妖精たちが住むのに相応しい。
古里という場所は人間が立ち入れない場所であるのだ。思い出の中に描く場所であって、もはや失われた場所であり時間であるのだ。だから古里という場所はいつまでも穏やかさに満ちて静かに佇んでいる。
そんな古里に妖精たちが住んでいるのは不思議ではない。ケルトによれば妖精はあの世に誘う者であった。といっても死神のようなおぞましい連中ではなく、死はそこまで恐ろしい現象ではなかった。妖精たちは死を祝福し、魂をあの世へと連れて行く。だからその先に人間には足を踏み入れることのできない場所――古里があるのだ。
第1部は妖精世界の物語である。後半に過酷な場面が登場するが、第1部は妖精世界の物語であって、人間的な歴史や武力は介入してこない。
風景は浮世離れした美しさを持ち、そこに流れる空気や時間はあまりにものどかだ。そんな平和に介入してくる黒の乗り手はあまりにも様式的で絵画の世界のようである。登場する舞台は裂け谷にモリアの洞窟といったあまりにも遠くに思える場所である。
襲い掛かる魔物たちも、オークをはじめとして巨人のトロル、幽鬼と呼ばれるナグズルたちだ。敵対する勢力にも人間の影はどこにもない。
もちろん映画が製作したセットや小物の数々は見事な完成度だ。目に見えるもの、見えないもの全てに神経が行き届き、一分の隙を感じさせない。
だが第1部に描く風景やキャラクター達に人間社会を連想させる何かは一切見付からない。あまりにも超現実的で、“リアルである”が“我々の日常及び歴史”に接点を感じさせない。
袋小路屋敷はおだやかなくつろぎ空間を具現化する。ピーター・ジャクソン監督は袋小路屋敷を映画撮影終了後、制作会社から買い取った。いつか土中に埋めて自分で住むつもりらしい。
『ロード・オブ・ザ・リング』の鑑賞は通常の映画と違う印象をもたらす。映画という1つの自己完結した芸術とは、どこか違う空気をまとっている。
強いて言うなら、シリーズものに接している感覚だろうか。少しずつ物語が進み、ひとつひとつは短いが、全体を通してみると驚くほど長大で、見る者はキャラクターの人生の一片に接しているような気にさせる。
『ロード・オブ・ザ・リング』の物語はシリーズものと同じように短いプロットが少しずつ積み重ねられ、すべては必然を持って確実に大きなドラマに繋がろうとしている。それでいて映像作家としてのエゴは少なく、映画はいかにも高級な芸術という場所に反り返ったりせず、物語を語ることに集中している。我々はピーター・ジャクソンという優れた語り手にハラハラしながらじっと(ビルボの御伽噺を聞く子供のように)耳を傾けているのだ。
だが『ロード・オブ・ザ・リング』は明らかにシリーズものとも違う。一方で間違いなく『ロード・オブ・ザ・リング』は映画であるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』はそのどちらでもなく、一方でその両方でもあるという不思議な立ち位置にある作品であるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』は『ロード・オブ・ザ・リング』でしかありえない、唯一絶対の存在であるのだろう。
その第1部『旅の仲間』はやはり長大かつ壮大な物語の前編でしかない。第1部の段階で見る側を確実に圧倒するスケールだが、物語にはまだまだ続きがあるのだ。そしてそこには驚嘆すべき瞬間があり、涙を誘うドラマがある。壮大な第1部も、ほんの断片に過ぎない。
第2章『2つの塔』を読む
第3章『王の帰還』を読む
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作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:エンヤ
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
〇 ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
〇 ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
〇 オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
〇 ショーン・ビーン アンディ・サーキス
〇 ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
〇 マートン・ソーカス イアン・ホルム
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