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■2009/10/01 (Thu)
映画:外国映画■
「子供が子供だった頃、腕をブラブラさせ、小川は川になれ、川は河になれ、水たまりは海になれ、と思った」
ベルリンの遥か天空――。街を見下ろす黒い影の男。
有翼の天使。彼らは、いつもベルリンの街を見下ろし、触れた者に希望を与えている。
ベルリンの住人は、時々視線を感じたように空を見上げる。
――そこに何かいる?
決して視覚の中に現れない存在。天上の住人。肉体を持たぬ者。天使。
「語れ、詩の女神よ! 世界の果てに流れ着いた、幼児にして老人。万人の鏡である語り部、ホメロスを。わが聞き手は、時とともに読み手となり、もはや車座にならず、孤独に机に向かい、他人は意に介さない」
やがて天使は肉体を渇望し始める。
彼らにとって、世界は概念でしかない。世界のすべてを知っているが、肉体に触れるものは何もない。全てがその身体を透き通っていく。
だからこそ、肉体を渇望し始めた。
体の重さを、風の冷たさを、苦しみと痛みを。刺激と苦痛。地上の者を捉えている全ての試練。あるいは、快楽。
切っ掛けは恋だった。
サーカスのブランコ乗りであるマリオン。
天使はマリオンに恋した。天使はマリオンに会うために翼を捨て、人間世界に降りた。
地球儀は世界のモデルであり、写真は現代の記憶様式だ。かつてのように、言葉で語り継ぐものは少なくなった。言葉で記憶していても、やがて読む者も言葉を知る者もいなくなってしまうだろう。
「世界は黄昏ていくようだが、私は語り続ける。昔と変わらぬ、歌の調子で。物語は、世の混乱に足を取られず、未来に向かう。幾世紀をも往来する、かつての、大いなる物語はもう終わった。今は一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和な者のみが主人公の物語」
マリオンは主人公である肉体の象徴である。だから肉体を強調する仕事に就いているし、肉体はエロティックに描かれる。
映画『ベルリン・天使の詩』は言葉とイメージの断片で綴られていく。映画中に、大きな事件やドラマは起きない。
空中を散策する天使と、その天使が見て聞いている全て。天使は人々が心の中に封じた言葉を聞くことができる。多くが絶望と哀しみ、人生の黄昏。天使がそっと触れると、ネガティブな感情にほんの少しの希望が与えられる。
失われていくものが歴史だ。言葉は歴史である。歴史の断片が言葉だ。生と死は、いずれも歴史を残す行為である。歴史を語るのは生きる者の義務だ。
言葉だけがかつてを記憶している。我々は時間をいつも前方向に追いかけ続け、前方向に引き摺られていく。それに矛盾するように、我々は過去を求め探り、とどまろうとする。
だが過去は失われ行くものだ。
世を去った英雄も、失われた場所も――言葉の狭間にすべてが残されている。
語り継ぐ間だけ、その人間と場所を記憶される。言葉が語り継ぐ世界は、神話的な夢想世界を彷徨い、いつか虚構となる。言葉の狭間に落ちていった記憶は、いつの間にか現実の世界から消え去ってしまう。
天使は実体世界の存在ではない。遥かな上空を彷徨う、概念の存在だ。あるいは、言葉が作り出した存在。人間の思念が言語で構築されるように、天使は言語概念の雲の上を歩き、人々に希望という名の言葉を与えている。
天使は概念でしかないからこそ、普遍でいられる。しかし概念の存在だからこそ、何も感じることはできず、色彩を感じることもできない。
ちなみに、この映画はドイツの東西分裂を題材にした映画とされている。モノクロとカラーで描き分けられるのも、壁の向こう側とあちら側を意味している(カラーで描かれるのが東側、だろうか?西側がモノクロで憂鬱に描かれるのは?)。戦争の映像が挿入されるのもは、東西分裂の切っ掛けとなる事件を描くため。だからタイトルも『ベルリン』なのだそう。
印象的な言葉と画像の羅列である。
フィルムも映画も俳優も、言葉という概念に過ぎない。その概念を刻印するように映像が綴られている。
映画『ベルリン・天使の詩』には多くの人間の想念の集まりのように描かれている。ある種の群像劇であるかもしれない。
大きな事件は起きないが、いくつもの言葉の積み重ねによって描かれていく。様々な人間の、まとまりのない言葉の集り。ただの愚痴でしかないものもある。
それが不思議と詩の情緒を持ち始める。そんな映像と言葉の集積が、映画そのものを語り始めるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:ヴィム・ヴェンダース 音楽:ユルゲン・クニーパー
脚本:ヴィム・ヴェンダース ペーター・ハントケ
出演:ブルーノ・ガンツ ソルヴェーグ・ドマルタン
〇〇〇オットー・ザンダー クルト・ボウワ
〇〇〇ピーター・フォーク
ベルリンの遥か天空――。街を見下ろす黒い影の男。
有翼の天使。彼らは、いつもベルリンの街を見下ろし、触れた者に希望を与えている。
ベルリンの住人は、時々視線を感じたように空を見上げる。
――そこに何かいる?
決して視覚の中に現れない存在。天上の住人。肉体を持たぬ者。天使。
「語れ、詩の女神よ! 世界の果てに流れ着いた、幼児にして老人。万人の鏡である語り部、ホメロスを。わが聞き手は、時とともに読み手となり、もはや車座にならず、孤独に机に向かい、他人は意に介さない」
やがて天使は肉体を渇望し始める。
彼らにとって、世界は概念でしかない。世界のすべてを知っているが、肉体に触れるものは何もない。全てがその身体を透き通っていく。
だからこそ、肉体を渇望し始めた。
体の重さを、風の冷たさを、苦しみと痛みを。刺激と苦痛。地上の者を捉えている全ての試練。あるいは、快楽。
切っ掛けは恋だった。
サーカスのブランコ乗りであるマリオン。
天使はマリオンに恋した。天使はマリオンに会うために翼を捨て、人間世界に降りた。
地球儀は世界のモデルであり、写真は現代の記憶様式だ。かつてのように、言葉で語り継ぐものは少なくなった。言葉で記憶していても、やがて読む者も言葉を知る者もいなくなってしまうだろう。
「世界は黄昏ていくようだが、私は語り続ける。昔と変わらぬ、歌の調子で。物語は、世の混乱に足を取られず、未来に向かう。幾世紀をも往来する、かつての、大いなる物語はもう終わった。今は一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和な者のみが主人公の物語」
マリオンは主人公である肉体の象徴である。だから肉体を強調する仕事に就いているし、肉体はエロティックに描かれる。
映画『ベルリン・天使の詩』は言葉とイメージの断片で綴られていく。映画中に、大きな事件やドラマは起きない。
空中を散策する天使と、その天使が見て聞いている全て。天使は人々が心の中に封じた言葉を聞くことができる。多くが絶望と哀しみ、人生の黄昏。天使がそっと触れると、ネガティブな感情にほんの少しの希望が与えられる。
失われていくものが歴史だ。言葉は歴史である。歴史の断片が言葉だ。生と死は、いずれも歴史を残す行為である。歴史を語るのは生きる者の義務だ。
言葉だけがかつてを記憶している。我々は時間をいつも前方向に追いかけ続け、前方向に引き摺られていく。それに矛盾するように、我々は過去を求め探り、とどまろうとする。
だが過去は失われ行くものだ。
世を去った英雄も、失われた場所も――言葉の狭間にすべてが残されている。
語り継ぐ間だけ、その人間と場所を記憶される。言葉が語り継ぐ世界は、神話的な夢想世界を彷徨い、いつか虚構となる。言葉の狭間に落ちていった記憶は、いつの間にか現実の世界から消え去ってしまう。
天使は実体世界の存在ではない。遥かな上空を彷徨う、概念の存在だ。あるいは、言葉が作り出した存在。人間の思念が言語で構築されるように、天使は言語概念の雲の上を歩き、人々に希望という名の言葉を与えている。
天使は概念でしかないからこそ、普遍でいられる。しかし概念の存在だからこそ、何も感じることはできず、色彩を感じることもできない。
ちなみに、この映画はドイツの東西分裂を題材にした映画とされている。モノクロとカラーで描き分けられるのも、壁の向こう側とあちら側を意味している(カラーで描かれるのが東側、だろうか?西側がモノクロで憂鬱に描かれるのは?)。戦争の映像が挿入されるのもは、東西分裂の切っ掛けとなる事件を描くため。だからタイトルも『ベルリン』なのだそう。
印象的な言葉と画像の羅列である。
フィルムも映画も俳優も、言葉という概念に過ぎない。その概念を刻印するように映像が綴られている。
映画『ベルリン・天使の詩』には多くの人間の想念の集まりのように描かれている。ある種の群像劇であるかもしれない。
大きな事件は起きないが、いくつもの言葉の積み重ねによって描かれていく。様々な人間の、まとまりのない言葉の集り。ただの愚痴でしかないものもある。
それが不思議と詩の情緒を持ち始める。そんな映像と言葉の集積が、映画そのものを語り始めるのだ。
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作品データ
監督:ヴィム・ヴェンダース 音楽:ユルゲン・クニーパー
脚本:ヴィム・ヴェンダース ペーター・ハントケ
出演:ブルーノ・ガンツ ソルヴェーグ・ドマルタン
〇〇〇オットー・ザンダー クルト・ボウワ
〇〇〇ピーター・フォーク
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