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■2010/04/07 (Wed)
シリーズアニメ■
第1話「借りを作れない男」
橋――橋だった。とにかく橋だった。橋に、俺は一人きりで立っていた。
俺は市の宮行。世界トップ企業である市の宮カンパニーの御曹司。いわゆる、生まれながらにして勝ち組という奴さ。今はT大にストレートで合格し、学費代からマンション代まですべて親に頼らず、自分で稼いでいる。
ここまで自立して生活する理由? それが家訓だからさ。
「他人に借りを作るべからず」
市の宮家は代々、この家訓を厳しく守り続けてきた。市の宮家長男が代々締め続ける家法のネクタイにも、しつこいくらいに「他人に借りを作るべからず」という家訓が書き連ねてある。市の宮家はこの家訓を守るために徹底した教育を行い、強靭な意思力を育んできた。
とにかく俺は、「他人に借りを作るべからず」という家訓を守り続けてきた。それは俺の誇りでもある。もちろんこれからも家訓を守り続け、誰にも頼らず生きていくつもりでいた。
そう、たとえこんな状況であってもだ。
こんな状況というのは、橋の中ほどに1人きりで取り残されているという状況であり、それから、パンツ一丁であることだ。
最近の子供は本当にエキセントリックだ。この橋に差し掛かったその時、突然子供たちが俺に襲い掛かってきた。集団の暴力だった。俺は何もできずに掴まれ、ベルトを外され、ズボンを脱がされてしまった。まさに理由なき暴力だった。
で、そのズボンは今、鉄柱の高いところに引っ掛けられ、鯉幟のごとくひらひらとはためいていた。
おおっと、悔しくなんてないさ。むしろ俺は清々しい気持ちだった。だって奴らは、俺に怒られなかったことで借りを作ったんだからな。はっはっはっは……。自然と笑い声が漏れるよ。
幸い、この時間は人通りが少ないらしい。今のうちにズボンを回収するんだ。俺は欄干に足を乗せてよじ登ろうとした。
「おい。それ、ケツ冷えないか」
だしぬけに女が俺に声を掛けた。
俺はぎょっとして声がした方向を覗き込んだ。欄干を越えた橋を支える橋脚の出っ張りに、女の子が1人きりで座っていた。のんびりくつろいだ様子で、竹の釣り竿を手に釣り針を荒川の流れに放り込んでいた。
女の子が振り返った。白い肌。青い瞳。長い金髪。美しい条件が全部整った、紛れもない美少女だった。
「いえ。俺、暑がりだから」
俺はごまかすように言って、欄干に体重を乗せた。
「……ならいい」
女の子は無関心そうに言って釣りに集中した。
俺は欄干の上に危うく立ち上がり、鉄柱の出っ張りに足を引っ掛ける。鉄柱を補強する筋交いに足を置いて、ゆっくりと登った。
落ち着け。今は一刻も早く、ズボンを回収するんだ。この女が勘違いして、キャーとか言ったら終わ……おおっ!
何かが引っ掛かった。針金だ。鉄柱に絡みついたハリガネが俺のパンツに引っ掛かり、際どい角度にずり下げてしまっていた。
「……なあ、もしかしてなんだが、あんた、3センチほどで公然猥褻罪になるんじゃないか」
女の子は無関心そうな口調でズバリな指摘をした。
猥褻という定義はいったいどこから何を指すのか――それには議論が必要そうだ。猥褻という発想は時代と文化によって大きく変わるものであるから、今現在のこの社会についてのみ論じるべきであろう。現代人の社会規範がどのように思考し、意識し、認識しているか。もっと具体的な命題を与えるならば、猥褻が“毛”からなのか“モノ”からなのか。もし毛であるならば、俺は確実に公然猥褻罪ずばり的中してしまっている。
鉄柱が鉄壁の防御となって防がれているが、俺は今、危険な事態に直面している。
「よかったら、治してやろうか? こいつで」
女の子が竿をちょいと持ち上げる。
「ええ本当……いえ結構! 何とかなります!」
こんなところで借りを作ってたまるか。もう少し。もう少しなんだ。ズボンが俺の目の前で、旗のようにひらひらとはためいている。もう少しでケツが出るがズボンにも手が届く!
「なあ、お前。それ以上行くと……」
「もういいんです! 放っといてください! 俺は誰にも借りを作るわけには行かないんです!」
俺は心から叫んでいた。こんな状況であっても、俺の体内に刷り込まれた教育とその理念は俺自身を固く掴んで離さなかった。
なぜってそういうふうに育てられてきたから……。
そう、あれは3歳の頃だった。
「行、ちょっと来なさい。1歳の頃の借り、いま父さんに返しておきなさい。さあ、早くしなさい。おもちゃを口に入れて遊ぶぞ。泣くぞ」
父の教育は激烈で徹底していた。今となっては家訓こそが俺自身の人格であり、家訓にすがって生きているようなものだった。
「……ああ、そこまで言うなら。もう何も言わない」
女の子の口ぶりは、はじめから無関心そうに変わらなかった。
俺はふう、と溜め息を吐いた。
「いいんだ。ありが……」
突然に、柱がガツンッと傾いた。
まさか、と思った。全身が一瞬にして凍るような心理的体験だった。
柱のどこかで明らかに何かが弾ける音がした。ぐぐぐと柱は悲鳴を上げながら、川の方向へとゆっくりと傾いていく。
そんな馬鹿な?
「がんばれ」
女の子が俺を振り返って、ゆるやかな声援を送るのが見えた。
ドスンと川の水に落ちた。鉄柱は俺にのしかかって、底のほうへと沈めていく。俺はそこから逃れようとした。しかし間もなく無理だと悟った。こんな水中では力はでないし、よしんば力が出たところで鉄柱の重さをのけられるとは思えない。
俺は、死ぬのか? こんな水の底で? そんなの嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ!
誰か……。
「おい、起きろったら」
不意に声がした。目に光が飛び込んできた。俺はオエッとこみ上げるものを感じて飛び起きた。
「生臭っ!」
なぜかわからないが、俺は魚をくわえていた。起き上がると同時に魚を吐き出す。魚は生き生きと尻尾を跳ね躍らせ、草むらの中に落ちた。
「お、生きてたな」
女の子は無感情だけど、いくらか嬉しそうに聞こえた。
「うわあ、なんで鮮魚が口に!」
「悪い。先に謝っておくが。借り、作らしちゃったぞ」
俺は顔を上げた。女の子の膝の上に頭を載せていて、顔が間近にあった。
「な……なぁにぃひぃぃぃ!」
市の宮行は借りを作れない男だった。だがニノに命を救われ、「命の恩人」という大きな借りを作ってしまう。それは行にとって、人生における大きな挫折だった。今すぐニノに相応な借りを作らないと、と行は焦る。
ニノは河川敷で暮らすホームレスの女の子だった。金星人を自称し、何も望まず暮らしていた。食べ物なら川から魚が手に入るし、生活に不自由はない。行がいくら説得しても、「何もいらない」の一言だった。
だがニノは、ふと思いついたように市の宮に望みを口にした。
「私に恋をさせてくれないか?」
こうして行は、リクという新しい名前を与えられ、ニノとともに河川敷で暮らすことになった……。
◇
物語の舞台は橋である。しかも荒川の橋だ。
なぜ橋なのか?
創作の世界では、橋はしばしば境界を暗喩する場所として用いられてきた。橋は人生の重要な境界線であり、あの世とこの世を結ぶゲートであった。佐天涙子がレベルアッパーを手に思い悩むのも橋の下である。創作の世界では橋を舞台に人が出会い、別れの場面が描かれてきた。
この頃オーバーワーク気味だったシャフトと新房昭之監督。明らかにキャパシティを越えた仕事で、荒が目立つようだったが、ようやく一本の作品に絞ったようである。今回は“制作が間に合わない”という事態を見ないで済みそうだ。……多分。そう願いたい。
だが『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』において橋は、あるいはそこが荒川でなければならない理由はそこまで重大な意味を持っていないのだろう。意味があると同時に、まったくの無意味な設定である。ただ荒川の橋と特定し、読者に理由を思考させることによって、作品が提示するシュールレアリスムの世界へと迷い込ませる入口にしているのだ。
考えれば考えるほど、作者が目論んだ手口のない思考の迷宮に迷い込んでいく……。これは、もはや罠である。
新房監督印の平面的な構図はやや控えめになっている。もっとも回想シーンにはこれみよがしな幾何学的な影が描かれているし、河川敷のシーンでも手前の草むらなどが様式的に簡略化されている。むしろ、身体と空間をしっかり描くことで反発的に発生する笑いを狙っているようだ。
物語は荒川という場所から一歩も展開しないし、飛躍的な発展もみせない。物語は停止しているかのように同じ風景を描き続け、デジャビュのように同じ構図のタイトルバックを挟みながら少しずつ変化を与えていく。
橋の風景はそのたびに異端の実体を明らかにしていく。金星人であると言い張る美少女ニノ。橋の周辺を仕切っている、河童着ぐるみの村長。星の頭を持つスター。尼姿の筋骨逞しい男、シスター。
誰一人として、まっとうな人間が登場しない。キャラクターの頭身は現実的に描かれているが、むしろそうであるからこそ作品のシュールさが際立っている。
初回放送はテンポよく9話も消費してしまった。この調子が続くと13話×9話で117話消費することになるが大丈夫なのだろうか。ところで、新房監督の定番となっているカットインは健在だ。声優が声優だけに、別作品のキャラクターに見える瞬間もあるが……きっと気のせいだ。
主人公は作品の冒頭において「借りを作ってはならない」という家訓を頑なに守っていた。市の宮行は「借りを作ってはならない」という金科玉条にこだわり、取り憑かれていた。だが冒頭数分で、その鉄の掟は命の危機によって打ち破られてしまう。
それは運命の悪戯だったのか。結果として市の宮行は、自身を規定していたアイデンティティに死の引導が下されたのである。絶対と信じていた規範が市の宮から崩れ去り、すべてがゼロになったのである。
市の宮は荒川の橋の下で新たな生命が与えられ、新たな名前が与えられ、新たな人生観に向って突き進むのだ。
それまでの人生には大きな波も障害もなかっただろう。だが家訓の放棄こそが予定調和に構築された人生から市の宮行を解放し、あらたなステージへと行自身を変化させたのだ。
これからの市の宮行にはあらゆる苦難が待ち受けているだろう。よちよち歩きの子供のように、現実とは何か、社会を生き抜くにはどうするべきなのか、科学はどのように作用しているのか、人生に必要な意識と知識を再構築していくのである。これは笑いに彩りながらその過程を見守っていく物語である。
作品データ
監督:新房昭之 原作:中村光
シリーズ構成:赤尾でこ シリーズディレクター:宮本幸裕
キャラクターデザイン・作画総監督:杉山延寛 美術監督:東厚治
色彩設計:滝沢いづみ ビジュアルエフェクト:酒井基 撮影監督:内村祥平
編集:松原理恵 音響監督:鶴岡陽太 音響効果:野崎博樹 音楽:横山 克
アニメーション制作:シャフト
出演:坂本真綾 神谷浩史 藤原啓治 杉田智和
〇 子安武人 沢城みゆき 斎藤千和 大塚芳忠
〇 小見川千明 三瓶由布子 新谷良子 小山力也
〇 チョー 田中理恵 中村悠一 立木文彦 後藤邑子
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