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■2013/04/09 (Tue)
映画:外国映画■
『殺人魚フライングキラー』。実は『ピラニア』という海洋パニックホラーの続編で、第1作目は後に『グレムリン』をヒットさせることになるジョー・ダンテ監督である。またこの第1作目は2010年『ピラニア3D』というタイトルでリメイクが制作された。
映画は水中の場面から始まる。
水の底に沈んでいる難破船。若い男女のカップルが難破船の中へと入っていく。水上は夜で、二人を邪魔する者はいない。二人はしばし別れて難破船を探検する。
すると、誰かが男を掴んだ。振り向くと、全裸の女がそこにいた。酸素ボンベだけを背負った状態だ。女は男の臑に装着されていたナイフを手に取り、男の赤い水着を切ってしまう。
全裸になってしまった二人。興奮して、酸素ボンベを外してキスを交わす。口から泡が吹き出る。二人は互いの口で塞いで、夢中になってキスをする。
そこに、何かが迫ってきた。二人は思いもしない痛みに、驚愕を浮かべる。しかし逃げる場所はなく、何者かの餌食になる。水中に血が広がり、画面は真っ赤に覆われる……。
ポルノ映画か何か……そう思ってしまいそうな安っぽい始まり方である。美意識のない平坦な映像に、同じメロディの繰り返しの安っぽい音楽、適当に放り投げたような設定に、熱意を感じない演技。何もかもが安っぽい。注目に値するポイントが一つもない。唯一の見所がオッパイという、何とも救いようのない、視聴をおすすめできない駄作映画だ。
実はこの作品が、後に『タイタニック』『アバター』を制作し、アカデミー賞最多受賞の栄冠に輝き、世界興業収入1位2位を制し、映画を代表し世界で最も尊敬される偉大なる名監督ジェイムズ・キャメロンの第1作目なのである。
しかし驚きべきことに、この第1作目には後に巨匠になりそうな片鱗は全く見出せない。才気溢れる若手監督としての熱意もオーラも感じさせない。傑作秀作ヒット作がずらりと並ぶジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーにあって、あまりにも特異で、俯瞰して見てもこの作品だけが“黒い染み”と表現するしかない異様さを放っている。ジェイムズ・キャメロンはこのどうしようもない駄作の2年後に、ヒット作『ターミネーター』を制作したのだ。もはや、どこかで人間が入れ替わったに違いない、そう想像するしかないような落差である。
では改めて、『殺人魚フライングキラー』の何が問題なのか、考えてみるとしよう。
まず登場人物の多さ。主人公アン・キブロウを始めとして、その夫で別居中のスティーヴ・キンブロウ、息子のクリス・キンブロウ。この周囲にはクリスを雇う船乗り初心者のディモンと娘のアリソン。アンの上司であるホテルの支配人(名前は確認できず)。スティーヴを古くからの知り合いである黒人親子(こちらも名前確認できず)。アンのダイビングツアーの講習にやってくるタイラーと名乗る男。
これだけでも結構多い。だが実は、主人公と何も接点を持たないのに関わらず登場してくる人達がまだまだいるのだ。
海で遊んでいる二人組の女に、その女にナンパされる歯医者のリオベル、オッパイ担当と見られ無駄に存在感のある二人組の女、そのオッパイ2人組に騙される料理人マル、若い男をナンパする未亡人ウィルソン。
およそ群像劇というくらいに人物が登場するが、これらの登場人物が物語にどんなテーマを持ちプロットに有機的な意義を与えるのか、といえばまったくの無駄、意味もないのに登場してきては尺を無用に消費するのである。
ゆえに――続く第2の問題だが展開があまりにも遅い。話が進まない。物語本編とは無関係な人物や場面のために時間を消費するので、あまりの緩慢さに見ている側は苛立ちを募らせてしまう。さらに本編のほうも進展がわかりづらく、物語が進んだと感じさせるキーとなる場面があまりない。また登場人物のやりとりも物語の中心軸にそれほど深く絡んでいないし、また関係ない人物があまりにも多いために、物語の中心軸と人物の関係性が見出せず、だから物語の本筋がぼんやりかすんで印象に残らない結果になっている。
第3の問題は設定や場面作りのいい加減さ。殺人魚の正体はピラニアを改造して作った新種であるが、物語中に指摘があるように、ピラニアは淡水魚で海では生息できない。にも関わらず、海底、水上、おかまいなしにこの改造ピラニアは飛び回るのだ。死体置き場の場面では、被害者の遺体から突然現れ、側にいた看護婦の首に食らいついた後、自力で空を飛んで窓から脱出するという離れ業を演じて見せた。もはや笑うしかない。
主人公の息子クリスは仕事場で知り合ったアリソンと遊んでいるうちに海上で自分の居場所がわからなくなってしまい、それを探して父親のスティーヴが探して回る、といった場面が展開するが、これが改造ピラニアが発生して大惨事となっているフィッシュフライフェスティバルとは何ら関連を持たない。最後の最後で、沈没船のすぐ近くで救助され、そのお陰で接点を持ったように見せかけられているが、実際には物語の本筋から無駄な傍流を作っただけだ。
第4の問題は特撮の安っぽさ。海から突然殺人魚が飛び出すのだが、食いつかれた次のカットには俳優は全身血まみれである。一方、食いついた魚には動きが全くない。俳優だけが一生懸命食われている演技をしているだけなのだ。
映画の後半になって、殺人魚が飛び回る場面が登場するのだが、あからさまにワイヤーで釣っているのがわかってしまう。あまりにチープでエド・ウッド映画のようだ。この場面でようやく殺人魚の姿がはっきり見えるのだが、控えめに言って羽の付いた魚のおもちゃにしか見えない。本音で言えば、おもちゃとして商品化しても、「いらない」といえる出来の悪さである。
それにこの殺人魚、たまにしか映画に登場せず、存在感がまったくない。始まって28分後、ダイビングツアーをやっている一人が沈没船を探検し、その結果殺人魚に襲われる。ここで初めて本編に殺人魚が登場するのだが、出てくるのは一瞬である。その後も一瞬しか出てこない殺人魚のために、映画は無意味に尺を消費し続ける。
映画のラストになり、殺人魚の拠点となっていた沈没船を破壊してハッピーエンド、というような雰囲気になっているが、ホテル周辺に出現した大量の殺人魚はどうした?と突っ込みを入れたくなる。難破船を爆破しても、別に殺人魚を一掃したことにはならないだろう、という問題について映画はほったらかしで終わってしまう。
駄目なポイントを改めて列挙してみると、やはり酷い映画だ。褒められる部分が1カットも1コマもない。何もかもがあまりにもチープで、映画会社が背後について制作したとはおよそ信じられないような駄目映画だ。
一方、その後のジェイムズ・キャメロン監督との関係性も発見できなくもない。
映画の物語がパニックアクション、テクノロジーを駆使したアクション(と言えなくもない映画)であるところは、その後の全作品に共通している。
ヒロインは芯の強い、問題があれば独力で突撃して解決法を探ろうとする自立的な女である。またパーマをあてた髪型は、水に濡れると『エイリアン2』の主人公リプリーに見えなくもない。
理解しない上司。問題が発覚し、主人公アンは真っ先に上司に掛け合い、ホテルを閉鎖するように訴えかけるが理解されず、あろうことか主人公の異常性を疑い追放しようとする。この展開は、『ターミネーター』以後のほぼすべてのジェイムズ・キャメロン映画の共通点である。最新作『アバター』ですら、理解されず計画を進行させる上司が登場する。ジェイムズ・キャメロン映画は実はデビュー映画からプロットそのものは同じものを使っているのだ。この理解力の乏しい上司というキャラクターはB級パニック映画・モンスター映画には定番のキャラクターで、高度なテクノロジーに支えられたジェイムズ・キャメロンの映画の底流にはB級映画の形式が潜んでいることがわかる。
海底を舞台にしている部分も、ジェイムズ・キャメロンの個性が表れた部分である。ジェイムズ・キャメロンはスキューバダイビングを趣味としており、映画にもその趣味は繁栄されて『アビス』と『タイタニック』を制作している。沈没船のシーンに『タイタニック』を感じさせるのは、同じ映画監督だと思って見ているからだろうか。
おそらく……いや間違いなくこの失敗作はジェイムズ・キャメロンに大きな復讐心を抱かせたであろう。この次は同じ失敗は絶対にしない、自分を批評した連中を見返してやろう、思い通り映画を作らせなかった映画会社の連中を黙らせてやる。『殺人魚フライングキラー』が失敗作なだけに、その思いは大きく膨らみ、ジェイムズ・キャメロンを奮起させたはずだ。
では『ターミネーター』と『殺人魚フライングキラー』の2年間の断層に何が横たわっていたのか。この2作の間にどんな劇的な変化があったのか、それを考えてみよう。
まず脚本をしっかり練り込むことから始めた。『殺人魚フライングキラー』もジェイムズ・キャメロンが自身で脚本を担当したが、その後の全ての作品でもジェイムズ・キャメロンは自分で脚本を書き、脚本の責任を担っている。
『ターミネーター』でも不要な人物は多少は出てきたが、『殺人魚フライングキラー』よりはるかにすっきりして見易い物語に仕上がっている。観客はどの人物に感情移入して物語を追いかけていけばいいのか明確である。わかりやすく、なおかつ主人公の立場を緊張感を持って追体験できる。『ターミネーター』に出てくるロボット兵器T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの存在感は圧倒的だったが、改めて見ると単に無言で迫ってくるただのマッチョである。それを未来からやってきたロボット兵器だと説明する一連の場面が最初にあり、ちゃんと見ている人に納得させられるプロットになっている。
技術の使い方いついても見直された。『ターミネーター』の第1作目も低予算映画であるが、ターミネーターというキャラクターは基本無口なマッチョなだけでいいようにうまく設定されている。アーノルド・シュワルツェネッガーをキャスティングした時点で大勝利だ。ターミネーターの正体であるエンドスケルトンは最後にちらと出てくるだけ、しかも動きは少なく、予算のなさをあらかじめ自覚し、見せ方に工夫されている。
またジェイムズ・キャメロン映画に登場する敵役は異様に強く、存在感がある。主人公たちより、明らかに敵をどう描くか、に意識が集中されている。ジェイムズ・キャメロン映画に登場する人物は平均的に戦闘力が高く、一通りの格闘術ができることが基本アビリティになっているが、敵はさらにその上を行く圧倒的な強さを随所で見せ、人間側がどんな罠を準備していてもそれを嘲笑うかのごとく力業で乗り越え、映画を着地点が見えないくらい引っかき回してくれる。『ターミネーター』や『エイリアン』などは方やロボット兵器、方や宇宙人と非人間だからいいとして、『アバター』のマイルズ大佐は人間でありながらジェイムズ・キャメロン映画の中でも屈指の戦闘力を誇り、異様なしつこさで主人公を圧倒するだけではなく、知力も高くジェイクが拠点とする場所を破壊しようとする。
ジェイムズ・キャメロン映画では敵がとにかく強力であること、異様な生命力を持っていること、そんな敵を相対した時の緊張感。いかに敵を描くか、そのこだわりがジェイムズ・キャメロン映画の基本的な娯楽性と考えていいだろう。
それから恐らく、現場での地位確立、も反省に含まれていただろう。『殺人魚フライングキラー』では撮影が始まった最初の段階から製作サイドと繰り返し衝突し、思うように現場を進められなかった、という話も聞く。実際、ジェイムズ・キャメロンが本気で映画を撮っていたら、あのような駄作にはならなかっただろう。
同じく第1作目で失敗作という負債を負ったデヴィッド・フィンチャー監督も、第2作目の大きな課題が「映画会社を黙らせること」であった。そのために1000ページという異様な分厚さの企画書を提出し、映画会社を一切口出しさせない状況を作ったという。
ジェイムズ・キャメロンは『殺人魚フライングキラー』以後、現場の絶対者になった。朝一番に現場にやってきて指揮をはじめ、夜は一番最後に帰る。『タイタニック』のメイキングドキュメンタリーでは、セットの照明のほんのささいな問題を解決するために、小道具係の下っ端を呼び出して「これがいい照明だ」と指導する場面が見られた。そういった繊細さも、現場の絶対者になるための必要な努力だろう。
『タイタニック』を制作中、予算が100億円単位でオーバーしている問題が発覚し、製作サイドに呼び出され、撮影中止が勧告されるが、ジェイムズ・キャメロンは製作を怒鳴りつけ、追い出したという。その時の製作はヴィル・メカニックという人物だが、クレジットから外され、製作として書かれているのはジェイムズ・キャメロンの名前だけである。
今回、この駄作映画『殺人魚フライングキラー』を取り上げたのは、この映画のあまりの酷かったからではなく、この映画の後、ジェイムズ・キャメロン1本の失敗作のないヒットメーカーになれたからだ。ジェイムズ・キャメロンは制作した全ての映画をヒットさせただけではなく、何かしらでアカデミー賞を受賞している。その理由は何なのか、それを考えたかったし、こんなどうしもないゴミを作った人間が、傑作を作る才能を持っていたという事実にも目を向けたかった。
才能はどう転ぶかわからない。才能はどう育って開花していくかわからない。『殺人魚フライングキラー』が擁護不能の駄作なだけに、人間の可能性の凄まじさを知り、この次に『ターミネーター』を見て圧倒される。人間は努力しなければならないが、その前に反省しなければならない。反省して、どうするべきなのか、何が必要なのか、どう反省するべきか考えなければ、どんな努力も空回りするだけだ。筋肉馬鹿な人間は努力努力とばかり連呼するが、実は反省のほうがよほど大事で、反省にこそ時間を費やすべきなのだ。それを徹底的にやって答えを見つけ出した人間が、名監督ジェイムズ・キャメロンになったのだ。
ジェイムズ・キャメロンの出発点は『殺人魚フライングキラー』だ。この駄作があったからこそ、失敗あったからこそ名監督になれた。名作家、優れた芸術家の原典を知るためには、どんな失敗があったかを知らねばならない。そういう意味でも、ジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーに作られたこの黒い染みを、よく知る必要がある。
監督:ジェイムズ・キャメロン (オビディオ・G・アソニティス)
脚本:ジェイムズ・キャメロン(H.I.ミルトン名義)
音楽:ステルヴィオ・チブリアーニ(スティーヴ・パウダー名義) 製作:築波久子
撮影: ジュールス・ブレンナー 編集:ロベルト・シルヴィ
製作総指揮:オビディオ・G・アソニティス 特殊メイク・特撮:ジャンネット・デ・ロッシ
出演:トリシア・オニール スティーブ・マラチャック ランス・ヘンリクセン
映画は水中の場面から始まる。
水の底に沈んでいる難破船。若い男女のカップルが難破船の中へと入っていく。水上は夜で、二人を邪魔する者はいない。二人はしばし別れて難破船を探検する。
すると、誰かが男を掴んだ。振り向くと、全裸の女がそこにいた。酸素ボンベだけを背負った状態だ。女は男の臑に装着されていたナイフを手に取り、男の赤い水着を切ってしまう。
全裸になってしまった二人。興奮して、酸素ボンベを外してキスを交わす。口から泡が吹き出る。二人は互いの口で塞いで、夢中になってキスをする。
そこに、何かが迫ってきた。二人は思いもしない痛みに、驚愕を浮かべる。しかし逃げる場所はなく、何者かの餌食になる。水中に血が広がり、画面は真っ赤に覆われる……。
実はこの作品が、後に『タイタニック』『アバター』を制作し、アカデミー賞最多受賞の栄冠に輝き、世界興業収入1位2位を制し、映画を代表し世界で最も尊敬される偉大なる名監督ジェイムズ・キャメロンの第1作目なのである。
しかし驚きべきことに、この第1作目には後に巨匠になりそうな片鱗は全く見出せない。才気溢れる若手監督としての熱意もオーラも感じさせない。傑作秀作ヒット作がずらりと並ぶジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーにあって、あまりにも特異で、俯瞰して見てもこの作品だけが“黒い染み”と表現するしかない異様さを放っている。ジェイムズ・キャメロンはこのどうしようもない駄作の2年後に、ヒット作『ターミネーター』を制作したのだ。もはや、どこかで人間が入れ替わったに違いない、そう想像するしかないような落差である。
では改めて、『殺人魚フライングキラー』の何が問題なのか、考えてみるとしよう。
これだけでも結構多い。だが実は、主人公と何も接点を持たないのに関わらず登場してくる人達がまだまだいるのだ。
海で遊んでいる二人組の女に、その女にナンパされる歯医者のリオベル、オッパイ担当と見られ無駄に存在感のある二人組の女、そのオッパイ2人組に騙される料理人マル、若い男をナンパする未亡人ウィルソン。
およそ群像劇というくらいに人物が登場するが、これらの登場人物が物語にどんなテーマを持ちプロットに有機的な意義を与えるのか、といえばまったくの無駄、意味もないのに登場してきては尺を無用に消費するのである。
ゆえに――続く第2の問題だが展開があまりにも遅い。話が進まない。物語本編とは無関係な人物や場面のために時間を消費するので、あまりの緩慢さに見ている側は苛立ちを募らせてしまう。さらに本編のほうも進展がわかりづらく、物語が進んだと感じさせるキーとなる場面があまりない。また登場人物のやりとりも物語の中心軸にそれほど深く絡んでいないし、また関係ない人物があまりにも多いために、物語の中心軸と人物の関係性が見出せず、だから物語の本筋がぼんやりかすんで印象に残らない結果になっている。
主人公の息子クリスは仕事場で知り合ったアリソンと遊んでいるうちに海上で自分の居場所がわからなくなってしまい、それを探して父親のスティーヴが探して回る、といった場面が展開するが、これが改造ピラニアが発生して大惨事となっているフィッシュフライフェスティバルとは何ら関連を持たない。最後の最後で、沈没船のすぐ近くで救助され、そのお陰で接点を持ったように見せかけられているが、実際には物語の本筋から無駄な傍流を作っただけだ。
第4の問題は特撮の安っぽさ。海から突然殺人魚が飛び出すのだが、食いつかれた次のカットには俳優は全身血まみれである。一方、食いついた魚には動きが全くない。俳優だけが一生懸命食われている演技をしているだけなのだ。
映画の後半になって、殺人魚が飛び回る場面が登場するのだが、あからさまにワイヤーで釣っているのがわかってしまう。あまりにチープでエド・ウッド映画のようだ。この場面でようやく殺人魚の姿がはっきり見えるのだが、控えめに言って羽の付いた魚のおもちゃにしか見えない。本音で言えば、おもちゃとして商品化しても、「いらない」といえる出来の悪さである。
それにこの殺人魚、たまにしか映画に登場せず、存在感がまったくない。始まって28分後、ダイビングツアーをやっている一人が沈没船を探検し、その結果殺人魚に襲われる。ここで初めて本編に殺人魚が登場するのだが、出てくるのは一瞬である。その後も一瞬しか出てこない殺人魚のために、映画は無意味に尺を消費し続ける。
映画のラストになり、殺人魚の拠点となっていた沈没船を破壊してハッピーエンド、というような雰囲気になっているが、ホテル周辺に出現した大量の殺人魚はどうした?と突っ込みを入れたくなる。難破船を爆破しても、別に殺人魚を一掃したことにはならないだろう、という問題について映画はほったらかしで終わってしまう。
駄目なポイントを改めて列挙してみると、やはり酷い映画だ。褒められる部分が1カットも1コマもない。何もかもがあまりにもチープで、映画会社が背後について制作したとはおよそ信じられないような駄目映画だ。
映画の物語がパニックアクション、テクノロジーを駆使したアクション(と言えなくもない映画)であるところは、その後の全作品に共通している。
ヒロインは芯の強い、問題があれば独力で突撃して解決法を探ろうとする自立的な女である。またパーマをあてた髪型は、水に濡れると『エイリアン2』の主人公リプリーに見えなくもない。
理解しない上司。問題が発覚し、主人公アンは真っ先に上司に掛け合い、ホテルを閉鎖するように訴えかけるが理解されず、あろうことか主人公の異常性を疑い追放しようとする。この展開は、『ターミネーター』以後のほぼすべてのジェイムズ・キャメロン映画の共通点である。最新作『アバター』ですら、理解されず計画を進行させる上司が登場する。ジェイムズ・キャメロン映画は実はデビュー映画からプロットそのものは同じものを使っているのだ。この理解力の乏しい上司というキャラクターはB級パニック映画・モンスター映画には定番のキャラクターで、高度なテクノロジーに支えられたジェイムズ・キャメロンの映画の底流にはB級映画の形式が潜んでいることがわかる。
海底を舞台にしている部分も、ジェイムズ・キャメロンの個性が表れた部分である。ジェイムズ・キャメロンはスキューバダイビングを趣味としており、映画にもその趣味は繁栄されて『アビス』と『タイタニック』を制作している。沈没船のシーンに『タイタニック』を感じさせるのは、同じ映画監督だと思って見ているからだろうか。
では『ターミネーター』と『殺人魚フライングキラー』の2年間の断層に何が横たわっていたのか。この2作の間にどんな劇的な変化があったのか、それを考えてみよう。
まず脚本をしっかり練り込むことから始めた。『殺人魚フライングキラー』もジェイムズ・キャメロンが自身で脚本を担当したが、その後の全ての作品でもジェイムズ・キャメロンは自分で脚本を書き、脚本の責任を担っている。
『ターミネーター』でも不要な人物は多少は出てきたが、『殺人魚フライングキラー』よりはるかにすっきりして見易い物語に仕上がっている。観客はどの人物に感情移入して物語を追いかけていけばいいのか明確である。わかりやすく、なおかつ主人公の立場を緊張感を持って追体験できる。『ターミネーター』に出てくるロボット兵器T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの存在感は圧倒的だったが、改めて見ると単に無言で迫ってくるただのマッチョである。それを未来からやってきたロボット兵器だと説明する一連の場面が最初にあり、ちゃんと見ている人に納得させられるプロットになっている。
技術の使い方いついても見直された。『ターミネーター』の第1作目も低予算映画であるが、ターミネーターというキャラクターは基本無口なマッチョなだけでいいようにうまく設定されている。アーノルド・シュワルツェネッガーをキャスティングした時点で大勝利だ。ターミネーターの正体であるエンドスケルトンは最後にちらと出てくるだけ、しかも動きは少なく、予算のなさをあらかじめ自覚し、見せ方に工夫されている。
またジェイムズ・キャメロン映画に登場する敵役は異様に強く、存在感がある。主人公たちより、明らかに敵をどう描くか、に意識が集中されている。ジェイムズ・キャメロン映画に登場する人物は平均的に戦闘力が高く、一通りの格闘術ができることが基本アビリティになっているが、敵はさらにその上を行く圧倒的な強さを随所で見せ、人間側がどんな罠を準備していてもそれを嘲笑うかのごとく力業で乗り越え、映画を着地点が見えないくらい引っかき回してくれる。『ターミネーター』や『エイリアン』などは方やロボット兵器、方や宇宙人と非人間だからいいとして、『アバター』のマイルズ大佐は人間でありながらジェイムズ・キャメロン映画の中でも屈指の戦闘力を誇り、異様なしつこさで主人公を圧倒するだけではなく、知力も高くジェイクが拠点とする場所を破壊しようとする。
ジェイムズ・キャメロン映画では敵がとにかく強力であること、異様な生命力を持っていること、そんな敵を相対した時の緊張感。いかに敵を描くか、そのこだわりがジェイムズ・キャメロン映画の基本的な娯楽性と考えていいだろう。
それから恐らく、現場での地位確立、も反省に含まれていただろう。『殺人魚フライングキラー』では撮影が始まった最初の段階から製作サイドと繰り返し衝突し、思うように現場を進められなかった、という話も聞く。実際、ジェイムズ・キャメロンが本気で映画を撮っていたら、あのような駄作にはならなかっただろう。
同じく第1作目で失敗作という負債を負ったデヴィッド・フィンチャー監督も、第2作目の大きな課題が「映画会社を黙らせること」であった。そのために1000ページという異様な分厚さの企画書を提出し、映画会社を一切口出しさせない状況を作ったという。
ジェイムズ・キャメロンは『殺人魚フライングキラー』以後、現場の絶対者になった。朝一番に現場にやってきて指揮をはじめ、夜は一番最後に帰る。『タイタニック』のメイキングドキュメンタリーでは、セットの照明のほんのささいな問題を解決するために、小道具係の下っ端を呼び出して「これがいい照明だ」と指導する場面が見られた。そういった繊細さも、現場の絶対者になるための必要な努力だろう。
『タイタニック』を制作中、予算が100億円単位でオーバーしている問題が発覚し、製作サイドに呼び出され、撮影中止が勧告されるが、ジェイムズ・キャメロンは製作を怒鳴りつけ、追い出したという。その時の製作はヴィル・メカニックという人物だが、クレジットから外され、製作として書かれているのはジェイムズ・キャメロンの名前だけである。
今回、この駄作映画『殺人魚フライングキラー』を取り上げたのは、この映画のあまりの酷かったからではなく、この映画の後、ジェイムズ・キャメロン1本の失敗作のないヒットメーカーになれたからだ。ジェイムズ・キャメロンは制作した全ての映画をヒットさせただけではなく、何かしらでアカデミー賞を受賞している。その理由は何なのか、それを考えたかったし、こんなどうしもないゴミを作った人間が、傑作を作る才能を持っていたという事実にも目を向けたかった。
才能はどう転ぶかわからない。才能はどう育って開花していくかわからない。『殺人魚フライングキラー』が擁護不能の駄作なだけに、人間の可能性の凄まじさを知り、この次に『ターミネーター』を見て圧倒される。人間は努力しなければならないが、その前に反省しなければならない。反省して、どうするべきなのか、何が必要なのか、どう反省するべきか考えなければ、どんな努力も空回りするだけだ。筋肉馬鹿な人間は努力努力とばかり連呼するが、実は反省のほうがよほど大事で、反省にこそ時間を費やすべきなのだ。それを徹底的にやって答えを見つけ出した人間が、名監督ジェイムズ・キャメロンになったのだ。
ジェイムズ・キャメロンの出発点は『殺人魚フライングキラー』だ。この駄作があったからこそ、失敗あったからこそ名監督になれた。名作家、優れた芸術家の原典を知るためには、どんな失敗があったかを知らねばならない。そういう意味でも、ジェイムズ・キャメロンのフィルモグラフィーに作られたこの黒い染みを、よく知る必要がある。
監督:ジェイムズ・キャメロン (オビディオ・G・アソニティス)
脚本:ジェイムズ・キャメロン(H.I.ミルトン名義)
音楽:ステルヴィオ・チブリアーニ(スティーヴ・パウダー名義) 製作:築波久子
撮影: ジュールス・ブレンナー 編集:ロベルト・シルヴィ
製作総指揮:オビディオ・G・アソニティス 特殊メイク・特撮:ジャンネット・デ・ロッシ
出演:トリシア・オニール スティーブ・マラチャック ランス・ヘンリクセン
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■2010/08/04 (Wed)
映画:外国映画■
スーパーヒーローたちの自警行為を禁止するキーン条例が制定された1980年代。スーパーヒーローの代名詞であったウォッチメンのメンバーは一般人として平穏な暮らしを過ごしていた。
だが、ある夜。ウォッチメンメンバーの一人であるコメディアンが何者かに殺害された。超人的なパワーを持つスーパーヒーローを誰が殺したのか? 警察は自分たちの手に追える事件ではない、とあっさりと捜査を中断してしまった。
そんな最中、ウォッチメンメンバーであったロールシャッハが自ら事件の調査を始める。ロールシャッハはキーン条例が制定された後も、密かに街の自警活動を続けていた。
ロールシャッハは、コメディアン殺人事件をただの殺人事件ではない、もっと根の深い事件であると推測。ウォッチメンメンバーが狙われていると推測したロールシャッハは、警告を与えるためにかつての仲間たちを訪ねていく。
だが、かつての仲間たちはすでに新しい生活を始めていて、ロールシャッハの警告を受け付けようとしなかった……。
ヒーロー誕生の切っ掛けは、悪漢が扮装して銀行強盗などを繰り返すので、それに対抗する手段としてコスチュームヒーローが生まれた、となっている。それが1930年頃、となっているから、物語における歴史パラレルワールドはこの辺りから始まっている。もともとは警官隊がコスチュームを身にまとって戦ったそうだ。
映画『ウォッチメン』を鑑賞するに当たり、まず注意しておくべきことがある。
この物語は、現実世界を丁寧になぞって作られているように見えるが、「スーパーヒーローが歴史に介在している」という前提を取ってい
るので、少しずつ我々の知る歴史と違ってきている。
その大きなところが、「ベトナム戦争の勝利」だ。ウォッチメンたちの戦争参加により、アメリカはベトナム戦争に勝利した、ということになっている。それからニクソン政権はその後も続き、映画冒頭で3期
目を就任している。
『ウォッチメン』は、「もしもコミックヒーローのような存在が近代史に介入していたら」というifを描いた作品である。『ウォッチメン』はヒーローと悪の対決を描いた作品ではなく、超人的パワーを持った人たちが社会、あるいは世界とどのように向き合い、干渉しあっていったのか、それを描いた作品である。
『ウォッチメン』の映画化には長い前途の旅があった。はじめはスター俳優中心の単純明快なヒーローものにする構想だったようだ。原作があまりにも長大で複雑難解だったため、どう映画にすべきか相当悩んだらしい。最終的には原作をよく知るザック・スナイダーが監督に就任したことで、作品にとってもファンにとっても望ましい形で映画化された。
映画『ウォッチメン』は悪との戦いを描く作品ではない。“宿敵だった”と呼ばれるキャラクターが登場するから、悪との対決はすでに完了済みようだ。
『ウォッチメン』が描くのは、スーパーヒーローが社会とどのように向き合っていくのか、その姿や生き方である。『ウォッチメン』における社会はより大きく、世相、あるいは政治がスーパーヒーローを圧倒し、その活動や力に制限をかけようとしている。スーパーヒーローとはいえ特別な存在ではなく、あくまでも大きな社会のたった一人でしかな
い、という描き方である。
ここが、単に子供のヒーローで、同じストーリーを毎年繰り返すだけで、作品が商品解説番組に成り下がっている日本のヒーローものと違うところである。
『ウォッチメン』が描く街の風景は、臭ってくるような重々しさを湛え、スーパーヒーローは通り行く群集のうちの一人として、埋没するように描かれている。あるいは、裏通りの暗部にひっそり佇んで、街の平和を密かに見守っている。
これは、おそらくヒーロー漫画文化の厚みが違いを分けたのだろう。アメリカだからこそ、ヒーロー漫画にここまでの深みを与えられたのだ。日本の漫画技術は間違いなく世界最高のものだが、ここまで大きく複雑な世界を描き、ヒーローの内面的暗部まで描いた作品はお
そらく日本には存在しないし、そもそも日本人の発想では到達し得ない。ヒーロー漫画の長い系譜とヒーローそのものへの深い洞察、それから強烈な社会の干渉が『ウォッチメン』という到達点へ至らしめたのだ。
Drマンハッタンを演じたビリー・クラダップはほぼ全編、白スーツを身につけて演じた。実際画面上に残ったのはビリーの顔骨格の一部だけで、あとはほとんどデジタルである。画面に映っている筋肉も、堂々たるフルチンも、すべてデジタル上で作られたものである。
『ウォッチメン』は、決してリアルな演劇を追いかけた作品ではない。どの台詞も不必要に重々しく、勿体つけたような言い回しで語られる。物語の語り手であるロールシャッハの独白は、影を持った陰鬱さをまとい、いかにもなハードボイルド風のニヒリズムが込められてい
る。
アクションは決めの瞬間ほどスローモーションが多用され、コミックのコマ割を忠実に再現されている。その動きが様式的に見えて、『ウォッチメン』的な仰々しさを補強している。
物語の展開は、「ヒーロー狩り」を本道として何度も傍流に迷い込んでいく。物語の背景にある、あまりにも複雑な背景、それから各キャラクターの過去の解説。
物語の本流だけを追いかければ、もっと短い作品になるはずだが、
それでは解説不十分な作品になってしまう。作品における精神的部分まで再現しようとしたら、過去を描くサイドストーリーが不可欠なのだ。
だがその過去はあまりにも複雑で重々しく、しばしば物語の本筋がどこにあったのか見失いかけてしまう。
アクションは肉体破壊や流血を強調的に描かれる。スマートなアクションではなく、暴力の痛々しさを強烈に見せ付けるためだ。
ところで、路地裏で悪漢に襲われるシーン。悪漢たちがなぜかちょんまげスタイルに、「侍」と書かれたTシャツ。何だこれは?

『ウォッチメン』はコメディアン、Drマンハッタンの2人が物語のテーマ的部分を体現している。この2人こそが物語上の最重要人物といっていいだろう。もっと言
えば、この2人以外のヒーローはヒーロー漫画としてはありきたりで、平凡な性質を持ったキャラクターたちであると言える。コメディアンとDrマンハッタンの存
在が、『ウォッチメン』を『ウォッチメン』たらしめているのだ。
Drマンハッタンはコミックヒーローの中でも異色の存在である。ある実験の事故を
切っ掛けに超人的パワーを得た――そこまではよくありがちなキャラクターだが、その力はあまりにも絶対的で、超人的といわず、もはや神がかり的な領域に達し
ている。それがスーパーヒーローの“力の大きさ”を現している。神がかっているからこそ、その力が物語における重要な役割を果たすようになる。

もう一人のコメディアンは、スーパーヒーローの中では平凡なパワーの持ち主だが、重要なのはヒーローとしてはあまりにも特異なその性格、気質である。映画
冒頭で死亡するにも関わらず、映画全体を通して最も重要で、コメディアンがいるからこそ、映画に一貫したテーマが与えられたのだ。
『ウォッチメン』の物語の中で主に語られるのは、コメディアンの英雄的側面ではなく、むしろ悪逆非道の数々である。ベトナム戦争では現
地人の女を妊娠させた挙句銃殺。戦争から帰った後も攻撃的な性格を変えることなく、デモ隊に突入しては容赦のない暴力行為。さらには、仲間のウォッチメンメンバーへのレイプ。ちなみに、ケネディを暗殺したのもコメディアンということになっている。
コメディアンについて、ロールシャッハはこう語る。
「人間の本質は暴力だ。どれだけうわべを着飾り、ごまかしても、社会の素顔を奴は見抜き、――自らそのパロディとなった」
人間の本質は暴力であるが、しかしうわべでは平和を語ろうとする。これは物語の背景として大きく取り上げられている核による平和――冷戦を現している。平和を得るために圧倒的な暴力を必要とする矛盾。人間は暴力や攻撃性を前にしないと、決して団結しないし、平和を望んだりもしない。自分に向けられる暴力に抗するのも、やはり暴力である。
だからコメディアンは一人、皮肉を込めた笑いを浮かべるのである。
「な、おかしいだろ」と。
映画記事一覧
作品データ
監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア
脚本:デイヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイナー:アレックス・マクドゥエル
編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ
出演:マリン・アッカーマン ビリー・クラダップ
〇 マシュー・グード カーラ・グギーノ
〇 ジャッキー・アール・ヘイリー ジェフリー・ディーン・モーガン
〇 パトリック・ウィルソン スティーヴン・マクハティ
〇 マット・フルーワー ローラ・メネル
〇 ロブ・ラベル ゲイリー・ヒューストン
〇 ジェームズ・マイケル・コナー ロバート・ウィスデン
だが、かつての仲間たちはすでに新しい生活を始めていて、ロールシャッハの警告を受け付けようとしなかった……。
この物語は、現実世界を丁寧になぞって作られているように見えるが、「スーパーヒーローが歴史に介在している」という前提を取ってい
その大きなところが、「ベトナム戦争の勝利」だ。ウォッチメンたちの戦争参加により、アメリカはベトナム戦争に勝利した、ということになっている。それからニクソン政権はその後も続き、映画冒頭で3期
『ウォッチメン』は、「もしもコミックヒーローのような存在が近代史に介入していたら」というifを描いた作品である。『ウォッチメン』はヒーローと悪の対決を描いた作品ではなく、超人的パワーを持った人たちが社会、あるいは世界とどのように向き合い、干渉しあっていったのか、それを描いた作品である。
ここが、単に子供のヒーローで、同じストーリーを毎年繰り返すだけで、作品が商品解説番組に成り下がっている日本のヒーローものと違うところである。
アクションは決めの瞬間ほどスローモーションが多用され、コミックのコマ割を忠実に再現されている。その動きが様式的に見えて、『ウォッチメン』的な仰々しさを補強している。
物語の本流だけを追いかければ、もっと短い作品になるはずだが、
だがその過去はあまりにも複雑で重々しく、しばしば物語の本筋がどこにあったのか見失いかけてしまう。
ところで、路地裏で悪漢に襲われるシーン。悪漢たちがなぜかちょんまげスタイルに、「侍」と書かれたTシャツ。何だこれは?
Drマンハッタンはコミックヒーローの中でも異色の存在である。ある実験の事故を
『ウォッチメン』の物語の中で主に語られるのは、コメディアンの英雄的側面ではなく、むしろ悪逆非道の数々である。ベトナム戦争では現
「人間の本質は暴力だ。どれだけうわべを着飾り、ごまかしても、社会の素顔を奴は見抜き、――自らそのパロディとなった」
人間の本質は暴力であるが、しかしうわべでは平和を語ろうとする。これは物語の背景として大きく取り上げられている核による平和――冷戦を現している。平和を得るために圧倒的な暴力を必要とする矛盾。人間は暴力や攻撃性を前にしないと、決して団結しないし、平和を望んだりもしない。自分に向けられる暴力に抗するのも、やはり暴力である。
だからコメディアンは一人、皮肉を込めた笑いを浮かべるのである。
「な、おかしいだろ」と。
映画記事一覧
作品データ
監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア
脚本:デイヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイナー:アレックス・マクドゥエル
編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ
出演:マリン・アッカーマン ビリー・クラダップ
〇 マシュー・グード カーラ・グギーノ
〇 ジャッキー・アール・ヘイリー ジェフリー・ディーン・モーガン
〇 パトリック・ウィルソン スティーヴン・マクハティ
〇 マット・フルーワー ローラ・メネル
〇 ロブ・ラベル ゲイリー・ヒューストン
〇 ジェームズ・マイケル・コナー ロバート・ウィスデン
■2010/01/26 (Tue)
映画:外国映画■
誰もが人に聞いた。
「タイラー・ダーデンを知っているか?」

僕は半年間、不眠症に悩まされていた。眠れない日々が続くと現実の何もかもが曖昧になる。遠くにかすんで、コピーのコピーのコピーのように擦り切れてしまう。
「不眠症では死なないよ」
医者は突き放すように診断を下した。
薬も出してくれない。頼むよ、苦しんだ。
「君が苦しい? 睾丸ガン患者のグループに出てみろよ。あれが本当の苦しみだ」
僕は睾丸がん患者のグループセラピーに参加した。そこで出会ったのがボブ。
ボブはボディビルの元チャンピオンだったが、筋肉増強剤の濫用でホルモンバランスが崩壊し、今や神の乳房を持つ大男になっていた。
見知らぬ他人の告白は僕の心を揺さぶった。自分でも思いがけず堰が崩れて、涙が出た。沈黙と忘却の暗黒に身を投じて、自由になる心地を見出した。
僕は眠れるようになった。
それが切っ掛けで、僕は毎日あらゆるグループセラピーに参加した。
アルコール依存症、過食症、脳神経症……。
僕はガンでもなければ死に掛けてもいなかった。この連中が取り囲む世界の、小さな中心だった。僕は毎晩彼らと一緒になって死を見つけ、その度に再生した。蝶が脱皮して背伸びをしている感じだ。マスターベーションより遥かに心地のいい解放感だった。
そんな夢心地をあの女がぶち壊しにした。
「ここ、睾丸ガン患者のグループでしょ?」
やってきたのはマーラ・シンガー。
女が睾丸ガン患者? とんだイカサマ女だ。どこも悪くなかった。
マーラは血液感染症の会にも顔を出していた。隔月の異常赤血球症患者の会にも。金曜の結核患者の会にも出席していた。
マーラ……観光気分の見物人。
「あなたも同じよ。インチキ」そう言われたような気がして、僕は泣けなくなり、再び不眠症になった。
飛行機では何もかも1回分だ。1回分のパックの旅。砂糖もミルクも1回分。バターも1回分。おままごとのような機内食。1回分のシャンプー液。
機内で隣り合わせる人は1回分の友達だ。タイラー・ダーデンはそん
な1回分の友達の1人だった。
「知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースでナパーム弾が作れる。家庭にあるどんなものでも爆弾が作れる。本気だしゃあね」
タイラーは1回分の友達の中で最高の男だった。

タイラー・ダーデンとの出会いは僕を劇的に変えた。いや僕だけではなく、僕たち皆を変えた。タイラーは男達が喉元で引っ掛かっていたものを引っ張り出したんだ。
タイラーは男たちを集めて「ファイト・クラブ」を作った。それは僕から皆へのプレゼントだった。
「諸君。ファイト・クラブへようこそ。
ファイト・クラブルールその1。ファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその2。絶対にファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその3。降参を告げたり、大怪我や戦意喪失はそこでファイト終了。
ファイト・クラブルールその4。1対1で戦う。
ファイト・クラブルールその5。1組ずつやる。
ファイト・クラブルールその6。シャツと靴は脱げ。
ファイト・クラブルールその7。決着がつくまでファイトをやめることはできない。
ファイト・クラブルールその8。初めてこのクラブに来た者は必ず戦え」
『ファイト・クラブ』はコロンバイン高校銃乱射事件の後、最初に公開されたバイオレンス映画だった。まだ社会がヒステリックにざわついている最中で、『ファイト・クラブ』は格好の槍玉に挙げられた。批評家からはボロ糞の評価が下され、興行的には惨敗。製作を決行した会社役員が何人も更迭された。
現代は広告が人間を形成している。広告媒体であるメディアが人間を作り、その人間が社会を作る。現代におけるイデアの神はメディアである。
俺たちは何を考えるべきであるのか、ある対象に対してどう感じるべ
きなのか。好意を抱くべきか嫌悪をするべきなのか。その判断のすべてを、俺たちはメディアに委ねて、自身で思考する努力を怠っている。
俺たちは広告業界というお釈迦様の掌で踊らされいるだけの間抜け
な猿だ。
それはお前自身の考えか?
お前自身の言葉はどこにある?
目を見開いてそこにある現実を見ろ。人間自身を見ろ。俺は俺だ!
お前が見ているのは広告業界の作り出した幻影だ。
『ファイト・クラブ』が社会的な影響から逃れ、純粋に作品が評価されるまで数年の時間が必要だった。今では各映画誌で集計する“映画史上の名作ランキン
グ”などに必ず20位以内に選出される。
現代人は広告業界が分類したカテゴライズを受け入れてしまっている。現代人は人間を見て人間を見ていない。現代人が見ているのは“何系”と集約されたカテゴライズであって、人間自身ではない。
自分は“何系”の人間であるのか。自分がどの括りに属する人種なのか絶えず注意を払い、その属性が社会での自分の立場を決定してくれると信頼している。
現代人の実体は、中身のない抜け殻だ。それをごまかすように、広
告会社が宣伝する装飾でアバター(仮人格)を飾り立てている。お前たちは広告会社の作り出したイミテーションであって、コピーを繰り返して象のぼやけた影に過ぎない。
現代人はヒューマニズムの力を失っている。個人としての力など誰も
求めていない。ただ社会を機能させるための成員であることだけが求められ、その人間が誰であるかなど誰も求めていない。もっといえば、お前などいなくても社会は何の問題もなく機能するのだ。今や人間が社会を動かしているのではなく、社会が人間を奴隷にしている
のだ。
日本ではブラッド・ピット主演のアイドル映画として売り出された。「ブラピかっこいー! サイコー!」と。宣伝とかけ離れた暴力映画であると知って観客は驚い
ただろう。もちろん日本での興行は惨敗だった。
現代人の孤独は社会が積極的に作り出したものだ。社会が集団を細かなカテゴライズで分断させ、その内部に格差と不和を作り出し、連帯の力を弱めた。広告会社が戯れに作った言葉を社会に浸透さ
せ、自分たちの影響力を誇示するためだ。
結果として人間は人間ではなく、カテゴライズという一集団でその対象を見るようになった。同じ国籍の人間だが違う人種だ。それがいつの間にかセックスする相手もいない孤独を作り出した。
現代人は人間の社会の中で漂流する、宿命的な異民族である。しかもそこに、中心となる社会がない――いや、中心と思われていた社会はあったのだが、その地位を失いつつある。
『ファイト・クラブ』はそんな現代社会の閉塞感に対して強烈なルサン
チマンを叩きつける。俺は俺だ。広告会社の作り出した格差ではなく、己の拳で己自身を叩きつける。会社では何の役に立たない“立場”である平社員が、ファイト・クラブでは上司を叩きのめしている。それがファイト・クラブの魅力だ。
映画中にはしばしばタイラー・ダーデンがサブミニナルで映し出される。エドワード・ノートンが夢想したり、場面を嘲笑している瞬間などに現れる。ところで睾丸ガン患者グループのシーン、背景にアメリカ国旗が飾られている。「これが今のアメリカ」というわけなのだろうか。
タイラー・ダーデンは過剰に誇張された父性だ。過剰であるからこそ、タイラーはシンボリックな存在として、カリスマ的な崇拝すべき対象となった。
カリスマは人々に言葉を与え、扇動し、新たな社会を作り出す。それ
がいつの間にか支配と被支配という組織社会を作り出すようになる。
タイラー・ダーデンは男性性のシンボルとして男達から解放を与えた。その次の段階として破壊のシンボルへと移行した。より過剰な力で、社会を再創造しようと目論んだのだ。
父性は解放を促すイコンではなくなり、単に支配するだけの存在に変わる。
お前は自分以外の全てがクソだと思ってやがる。はっきり言ってやる。そのクソはお前の尻から出た物
だ。もっと言ってやる。そのクソはお前自身だ。広告が作り出したまやかしの幻覚に逃れるな。お前はい
つから何も感じないジジイみたいに萎えちまったんだ。殴り合ってみろ。狂気を呼び覚ませ。苦痛を取り
去るな。不愉快から目を逸らして逃げるな。世界のすべてを受け入れ、自分の足で歩け。
文化とは芸術が劣化し大衆化した姿だ。人間はその文化を模倣して、それを足がかりに生活し、行動規範を決めている。
『ファイト・クラブ』の公開後、多くの人が懸念したのは『ファイト・クラブ』そのものを模倣することだった。コロバイン高校銃撃事件の直後という時期もあり、人々は『ファイト・クラブ』を警戒した。当時、人々はコロンバイン事件の真相を人間の心理や社会に求めず、誰もが何かの
――例えば映画やテレビゲームの影響であると信じようとしていた。社会は安易な答えで安心を得ようとしていた。
だが考えてみれば『ファイト・クラブ』はコインの裏と表のような存在だ。コインの表とは即ち広告会社が作り出したアジテーションだ。
『ファイト・クラブ』が語ってみせたのは、もはや空気のようになって存在すら感じられず、しかし確実に我々の生活からモラル、美意識にまで影響を与え、操作している広告会社の存在についてだ。『ファイト・クラブ』は人間が擦り切れのコピーになっている現実を指弾し、ニー
チェ的な力の回復を促している。
『ファイト・クラブ』は見る者の心理に語りかけ、行動を引き起こさせる強引な力がある。それが見る人によっては凄まじい嫌悪感を呼び起こすのだろう。称賛する人がいる一方、拒絶する人も多かった。
それこそ、その状況こそ『ファイト・クラブ』が目論んでいるテーマだ。“動揺”を与えるために作られた映画だからだ。
『ファイト・クラブ』は甘い揺り篭に守られている現代人を目覚めさせ、顔を掴んで無理やり振り向かせようとしている。そこに何が見えるのか? そこで見えたものがこの映画の答えだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:デヴィッド・フィンチャー 原作:チャック・パラニューク
音楽:ザ・ダスト・ブラザーズ 脚本:ジム・ウールス
撮影監督:ジェフ・クローネンウェス 衣装:マイケル・カプラン
編集:ジェームズ・ヘイグッド 特殊メイク:ロブ・ボッティン
出演:エドワード・ノートン ブラッド・ピット
〇 ヘレナ・ボナム=カーター ミート・ローフ・アディ
〇 ジャレッド・レトー ザック・グルニエ
〇 ピーター・イアカンジェロ デヴィッド・アンドリュース
〇 リッチモンド・アークエット アイオン・ベイリー
「タイラー・ダーデンを知っているか?」
僕は半年間、不眠症に悩まされていた。眠れない日々が続くと現実の何もかもが曖昧になる。遠くにかすんで、コピーのコピーのコピーのように擦り切れてしまう。
「不眠症では死なないよ」
医者は突き放すように診断を下した。
「君が苦しい? 睾丸ガン患者のグループに出てみろよ。あれが本当の苦しみだ」
僕は睾丸がん患者のグループセラピーに参加した。そこで出会ったのがボブ。
見知らぬ他人の告白は僕の心を揺さぶった。自分でも思いがけず堰が崩れて、涙が出た。沈黙と忘却の暗黒に身を投じて、自由になる心地を見出した。
僕は眠れるようになった。
それが切っ掛けで、僕は毎日あらゆるグループセラピーに参加した。
アルコール依存症、過食症、脳神経症……。
僕はガンでもなければ死に掛けてもいなかった。この連中が取り囲む世界の、小さな中心だった。僕は毎晩彼らと一緒になって死を見つけ、その度に再生した。蝶が脱皮して背伸びをしている感じだ。マスターベーションより遥かに心地のいい解放感だった。
「ここ、睾丸ガン患者のグループでしょ?」
やってきたのはマーラ・シンガー。
女が睾丸ガン患者? とんだイカサマ女だ。どこも悪くなかった。
マーラ……観光気分の見物人。
「あなたも同じよ。インチキ」そう言われたような気がして、僕は泣けなくなり、再び不眠症になった。
機内で隣り合わせる人は1回分の友達だ。タイラー・ダーデンはそん
「知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースでナパーム弾が作れる。家庭にあるどんなものでも爆弾が作れる。本気だしゃあね」
タイラーは1回分の友達の中で最高の男だった。
タイラー・ダーデンとの出会いは僕を劇的に変えた。いや僕だけではなく、僕たち皆を変えた。タイラーは男達が喉元で引っ掛かっていたものを引っ張り出したんだ。
「諸君。ファイト・クラブへようこそ。
ファイト・クラブルールその1。ファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその2。絶対にファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその3。降参を告げたり、大怪我や戦意喪失はそこでファイト終了。
ファイト・クラブルールその4。1対1で戦う。
ファイト・クラブルールその5。1組ずつやる。
ファイト・クラブルールその6。シャツと靴は脱げ。
ファイト・クラブルールその7。決着がつくまでファイトをやめることはできない。
ファイト・クラブルールその8。初めてこのクラブに来た者は必ず戦え」
俺たちは何を考えるべきであるのか、ある対象に対してどう感じるべ
俺たちは広告業界というお釈迦様の掌で踊らされいるだけの間抜け
それはお前自身の考えか?
お前自身の言葉はどこにある?
目を見開いてそこにある現実を見ろ。人間自身を見ろ。俺は俺だ!
現代人は広告業界が分類したカテゴライズを受け入れてしまっている。現代人は人間を見て人間を見ていない。現代人が見ているのは“何系”と集約されたカテゴライズであって、人間自身ではない。
現代人の実体は、中身のない抜け殻だ。それをごまかすように、広
現代人はヒューマニズムの力を失っている。個人としての力など誰も
現代人の孤独は社会が積極的に作り出したものだ。社会が集団を細かなカテゴライズで分断させ、その内部に格差と不和を作り出し、連帯の力を弱めた。広告会社が戯れに作った言葉を社会に浸透さ
結果として人間は人間ではなく、カテゴライズという一集団でその対象を見るようになった。同じ国籍の人間だが違う人種だ。それがいつの間にかセックスする相手もいない孤独を作り出した。
『ファイト・クラブ』はそんな現代社会の閉塞感に対して強烈なルサン
カリスマは人々に言葉を与え、扇動し、新たな社会を作り出す。それ
タイラー・ダーデンは男性性のシンボルとして男達から解放を与えた。その次の段階として破壊のシンボルへと移行した。より過剰な力で、社会を再創造しようと目論んだのだ。
文化とは芸術が劣化し大衆化した姿だ。人間はその文化を模倣して、それを足がかりに生活し、行動規範を決めている。
だが考えてみれば『ファイト・クラブ』はコインの裏と表のような存在だ。コインの表とは即ち広告会社が作り出したアジテーションだ。
『ファイト・クラブ』は見る者の心理に語りかけ、行動を引き起こさせる強引な力がある。それが見る人によっては凄まじい嫌悪感を呼び起こすのだろう。称賛する人がいる一方、拒絶する人も多かった。
映画記事一覧
作品データ
監督:デヴィッド・フィンチャー 原作:チャック・パラニューク
音楽:ザ・ダスト・ブラザーズ 脚本:ジム・ウールス
撮影監督:ジェフ・クローネンウェス 衣装:マイケル・カプラン
編集:ジェームズ・ヘイグッド 特殊メイク:ロブ・ボッティン
出演:エドワード・ノートン ブラッド・ピット
〇 ヘレナ・ボナム=カーター ミート・ローフ・アディ
〇 ジャレッド・レトー ザック・グルニエ
〇 ピーター・イアカンジェロ デヴィッド・アンドリュース
〇 リッチモンド・アークエット アイオン・ベイリー
■2010/01/24 (Sun)
映画:外国映画■
第3章 王の帰還
THE RETURN OF THE KING
THE RETURN OF THE KING
ゴラムは以前、スメアゴルと呼ばれるホビットであった。アンドゥインのほとりに住むホビット三支族の1つである、ストゥア族の生まれであった。
ゴラムに悲劇が訪れたのは不運によるものであった。
その日、スメアゴルは友人のデアゴルと釣りに出かけていた。小さな小舟に乗り、のどかに釣り糸を垂らしていた。間もなくデアゴルの釣り針に魚が食いついた。デアゴルは引き上げようとしたが魚は大きく、デアゴルを水中に引きこんでしまった。
間もなくデアゴルは岸に這い上がるが、その頭に水草を絡め、手には一掴みの泥が握られていた。その泥に、金色に輝く指輪が混じっていた。
「デアゴル。それを俺にくれないか? 俺の誕生日だろう?」
ストゥア族の者たちはスメアゴルを「人殺し」罵り、石を投げて里から追放した。スメアゴルは古里を遠く離れ、霜降り山脈を住処にした。
いつしかスメアゴルは、自身の名前も忘れ、ただただ指輪に取り憑かれるだけのおぞましい生き物になってしまった。
「何て奴らだ! あちこち探してみたのに、見つけてみりゃ腹いっぱい食い、パイプ草!」
アイゼンガルドの戦いもちょうど終ったところだった。エントたちの怒りの襲撃によってアイゼンガルドの施設は崩壊し、忌まわしき地下の溶鉱炉もダム決壊の濁流によって洗い流された後であった。ウルク=ハイの軍団ももはや1人も残っていなかった。アイゼンガルドに残されていたのはオルサンクに篭城するサルマンただ1人だけだった。
ガンダルフはオルサンクの前に進み、サルマンと話し合いを始めた。サルマンは哀れな老人の振りをしてセオデンを誘いかけるが、セオデンはサルマンの魔術を察して断固拒否。
グリマに反抗心が浮かび、サルマンに飛び掛って背中からナイフを突き立てた。そのグリマをレゴラスが矢で射抜く。絶命したサルマンはオルサンクの塔から落ちて絶命した。
ローハンの男達は戦いを終えて祝杯を上げていた。だがサウロンとの戦いはまだ終わってないし、次にどんな手を討ってくるのか想像もできない。それにフロドの生死も不明だった。無事にモルドールに向っているのか、手掛かりは何もなかった。
アラゴルンとガンダルフが助けに入ってピピンからパランティアを引き離した。ピピンは悪しき魔力に消耗していたが、パランティアから白い木のイメージを読み取っていた。
白い木――それはミナス・ティリスに置かれているイシリアンの木だ。ゴンドールに再び王が戻るその時、花を咲かせると呼ばれる木だ。
サウロンの次なる手が判明した。サウロンはゴンドールの首都ミナス・ティリスを襲うつもりだ。ゴンドール王が帰還する前にその玉座を破壊する計画だ。
ガンダルフはピピンを連れて飛蔭に跨った。サウロンはピピンが指輪を持っていると思っている。だからあえてピピンを連れてゴンドールへ向うのだ。
ペレンノール野に暗雲が覆いつつあった。あれは自然の風が送り込んでくる雲ではない。陽の光を嫌うオークの軍団を送り込むために、サウロンが作り出した雲だ。
間もなくオスギリアスを守備していたファラミアが、襲撃を受けてミナス・ティリスに遁走してきた。サウロンの闇の軍勢はオスギリアスの防衛線を乗り越えて次々と押し寄せようとしている。戦いの時が今まさに訪れようとしていた。
フロドたちはオークの軍団に見つからないように身を潜め、ゴラムの案内で崖に刻まれた長い階段を登って行く。
フロドはゴラムとともに階段を登りきり、その先のトンネルに入り込
ようやく駆けつけたサムがシェロブを撃退するが、すでにフロドは息を
とそこで、サムはオークたちの会話で、フロドは仮死状態になっただけで死んでいないと知る。しかしフロドはオークたちが根城にする塔に従れさらわれてしまった。
最終章だが物語が小さくつづまっていく感じはない。これまで以上に複雑で雄大かつ壮絶な戦いの物語が繰り広げられ、英雄
映画の背景においてもはや解説の必要がなく、ドラマを語るべき段階に入ったからだ。だからこそ第3部は、シリーズにおいて
第3部に入って、登場人物たちはそれぞれに試練が与えられる。狂気に捉われたデネソールから父としての愛を得ようとする
その中でもとりわけ存在感を放つのがさすらいのレンジャー・アラゴルンだろう。アラゴルンは指輪に捉われて殺されたイシルドゥアの末裔にして正当なる後継者である。だがそれだけに、自身の弱さを恐れている。かつてイシルドゥアが犯した過ちを自分も犯すのではないか――その血を引いている限り、指輪に捉われた王という宿命から逃れられないのではないか。
だからアラゴルンは身分を隠し、野伏として生きてきた。それはサウロンたちの勢力から身を隠すためでもある。
だが第3部において、ついにアラゴルンは自らの宿命を受け入れて戦いの覚悟を決める。王の剣であるナルシルが鍛えなおされ、アンドゥリルの剣として復活した。アラゴルンはイシルドゥアの後継者として王の剣を持ち、かつて王に忠誠を誓った軍団を束ねていく。
それからのアラゴルンの活躍、勇猛さは映画をご覧のとおりだ。アラゴルンを演じたヴィゴ・モーテンセンは王の風格と聡明さを見事に体現している。ヴィゴ・モーテンセンなら王として君臨しても相応しいという気にさせてくれる。
第3部においてもっと感動的なドラマを演じてみせたのは、間違いなくフロドたちであろう。指輪の魔力で衰弱し、それでも諦め
第3部はどこまでも厳しくつらい試練の場面である。誰もがぎりぎりの戦いに挑戦し、その苦しみに対し、恐れは抱くものの決し
映画『ロード・オブ・ザ・リング』において素晴らしい成長を遂げたのは映画内におけるキャラクター達だけではない。映画製作会社WETAは今や映画産業においてなくてはならない制作会社になった。
もともとは『ロード・オブ・ザ・リング』の制作のためだけに作られた制作スタジオだったが、今やその枠をとっくに超えてしまっている。当初は専門学校をちょっと出たばかりの学生ばかりが集る頼りなげな制作会社だったが、映画が終わる頃には世界中が認める一流企業になった。
最近制作された規模の大きな映画はほぼすべてWETAが関わっているといっていいくらいだ。WETAの個性はデジタル技術だけではなく(デジタルばかり注目されるが)、あらゆる物もなければ作ってしまえ、という心構えにある。衣装やプロップといったものを、紛い物ではなく本物を作ってしまう技術と職人を抱えているのだ。緻密に作られた装飾品や、鍛冶職人が鍛え上げた本物のようではなく、紛れもなく本物の鎧や剣。そうした本物を作れる職人がいるのもWETAの魅力でもある。
総制作費340億円という大きな予算も第1作目で全て回収し、第2部はそれ以上の利益を上げてしまった『ロード・オブ・ザ・リング』である。もはや世界中の誰もが待ち望む作品の1つであった。それだけに、待ちに待った第3部の熱狂はすさまじいものであった。
日本におけるワールド・プレミアは増上寺で開催された。東京タワーをバラド=ドゥアに見立てて、魔法の指輪を本殿に奉納するという式典であった。
日本のワールド・プレミアも相当金のかけた大掛かりなものであったが、本国ニュージーランドはもっと際立っていた。
ウェリントンの国会議事堂をスタート地点としておよそ3キロに及ぶレッドカーペットが敷かれ、出演者達がオープンカーに乗ってパレードをするのである。レッドカーペットの周囲にはニュージーランド中から人々が押し寄せて、大興奮で出演者達を迎え入れた。そんなパレードが始まると、空中をフロドたちの写真をプリントされた旅客機が旋回するのである。
まさに偉大なる戦いを勝利した英雄を歓迎する行進であった。
「すると見よ! 盾は太陽の化身さながらに燦然と輝き、乗馬の白い足の駆けるとこ
なんと“暗闇は取り除かれる”以外は記述通りそのままだ。監督がこの記述からどのようなイメージを持ち、どう発展させていったか。『キング・コング』の事例でもそうであったが、ピーター・ジャクソンのイマジナリティを読み解く1つのヒントになりそうだ。
《イントゥ・ザ・ウエスト》は過酷な旅に疲れた者の心を癒し、安ら
だがこの歌の中心人物はフロドやアラゴルンとは別にもう1人い
ピーター・ジャクソンは妻のフラン・ウォルシュとともに臓器提供
だがコンタクトを取ってみるとキャメロン・ダンカンはすでにガン
それでもキャメロン・ダンカンは死に怯えず映画製作に打ち込んだ。自身を主役に据えて、自身の痕跡を残すために映画を作り、短編映画『ストライク・ゾーン』を完成させたと同時に死亡した。
同じ頃、フラン・ウォルシュは《イントゥ・ザ・ウエスト》の作詞の最中であったが、この事件が作詞に大きな影響を与えた。《イントゥ・ザ・ウエスト》の歌詞が示している安らぎと祝福の対象はもちろんフロドたちであるが、もう1人キャメロン・ダンカンに向けられているのだ。
アカデミー賞11部門ノミネート、その全てにおいて受賞。これは
だがそんな映画にもお別れのときがやって来た。その最後は最
闇の世界から放たれた大波は、緑の野と山々を飲み込み、何
希望がどこにも見えない物語。しかしそれでも私たちの心を離さず、強く捕らえて進んでいく。
そんな物語の最後には英雄が平和を獲得する。古里に帰っていくと、古い友人たちが旅立った者を受け入れ、途切れていた時間などなかったかのように日常が回りだす。
だが一度平和の里を出てしまった者にとって、途切れてしまった日常は元に戻せない。
こうして物語は閉じていく。創作の世界が我々の前に扉を開けるのはほんの僅かな時でしかない。夢の世界の住人と共にできるのは束の間でしかない。あのどこまでも広がる野も、白く輝く浜も、静かな空を舞う鳥たちも、潤いの雨を降らす雲も、物語の終わりと同時に我々の前から去っていく。
さあおしまいだ。
だが誰にとっても『ロード・オブ・ザ・リング』の物語は離れがたいものであった。読者の全てが通過したように、出演者や製作スタッフたちも別れを惜しんだ。出演者や製作スタッフにとって、単純な別れではなかった。もはや人生の一部になりかけていた創作物である。
もっと掘り下げる余地があるかもしれない。もっと精度を上げられるかもしれない。何よりも離れがたい。
だが別れの時はやってきた。映画の完成と共に、人々は永遠の友情と愛を誓い合い――解散した。
第1章『旅の仲間』を読む
第2章『2つの塔』を読む
映画記事一覧
作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:アニー・レノックス
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
〇 ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
〇 ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
〇 オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
〇 ショーン・ビーン アンディ・サーキス
〇 ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
〇 マートン・ソーカス イアン・ホルム
〇 バーナード・ヒル ミランダ・オットー
〇 カール・アーバン デヴィッド・ウェンハム
〇 ブラッド・ドゥーリフ クリストファー・リー
〇 ジョン・ノーブル
■2010/01/22 (Fri)
映画:外国映画■
第2章 2つの塔
THE TWO TOWERS
THE TWO TOWERS
メリーとピピンの2人がフロドと間違えられて
アラゴルンを筆頭にレゴラス、ギムリの3人が徒党を組んでラウロスの滝を去ったウルク=ハイ追跡を始めた。だが相手は疲れ知らずのウルク=ハイたちだ。追跡は休憩も食事もなしで幾日も続いた。
その途上でアラゴルンはウルク=ハイたちが踏み散らかした足跡に紛れるようにロリアンのブローチが落ちているのに気付く。メリーかピピンか、自分たちが追跡しているのを察して目印を残したのだ。
ウルク=ハイたちはローハン草原を横切って西へ、サルマンの待つアイゼンガルドに向うつもりだ。アラゴルンたちは休みなしの決死の強行軍を続けた。
「ローハンの騎士たちよ、何があった!」
メリーとピピンは彼らの殺されたのか。アラゴルンたちは愕然と、行く手に吹き上がる黒い煙に目を向けた。
だがエオメルは単独で自分の部下達を引き連れ、ローハンを蹂躙する魔の軍勢を討伐する旅を続けていた。
アラゴルンたちはエオメルと分れてウルク=ハイの死体が積みあがる場所へ向った。確かにそこにメリーピピンの姿はなかった。
だがアラゴルンは争いの痕跡の中に小さな足跡を見つける。ここを這ったんだ。ここでロープを千切って立ち上がった。足跡はさらに続き、その向うのファンゴルンの鬱蒼とした森の中へと続いていた。
メリーとピピンは生きている。アラゴルンは森の中へ入っていき、その行方を探した。
ガンダルフの戦いは谷底への落下中から始まっていた。剣を手
同時にガンダルフも力尽きて倒れた。ガンダルフを光が包む。
メリーとピピンの2人は森の住人エントの保護下に入り、中つ国でもっとも安全な場所で守られている。ガンダルフはアラゴルンたちを連れてエドラスへ行きを提案した。
サルマンが結成した魔の軍勢は手始めとしてローハンの制圧を目論んでいる。ローハンが落とされると人間の勢力は衰退著しいゴンドールを残すだけになってしまう。それを阻止するためにローハンを死守する必要があった。
そんな場所を抜けてようやく黒門の前へと到着する。だが黒門はオークたちの厳重な見張りで一分の隙もなかった。黒門が通行不能とわかると、ゴラムは実は秘密の道があると告げる。
サムは反対したがフロドはゴラムを信用して南へと進路を改める。
その途上で、オリファントを連れた南方人の軍団を目撃する。しばらく見ていたフロドたちだったが、突然何者かが南方人たちを襲った。ファラミアを中心とする要撃隊だった。
フロドとサムは戦闘の中心から逃れようとしたが、ファラミアにスパイと疑われ、捕まってしまう。ファラミアはボロミアの兄で、オスギリアスを守る戦士であった。ファラミアはフロドが力の指輪を持っていると知ると、その身柄を拘束しゴンドールへと連れて帰ろうとした。
物語の舞台はラウロスの大瀑布を抜けてローハン草原へと入っていく。そこから先は人間達の住処である。第1部におけるよう
もはや小人が楽しい冒険を歌にして歌ったり、魔法のアイテムが絶体絶命の危機を救ってくれたりもしない。そこは「望みを失った」土地であるのだ。
剣を振り回しての戦いばかりではない。エドラスの黄金館へ行くとサルマンの放ったスパイがセオデン王を悪の道へと唆そうとしている。旅の仲間たちは力だけでなく智恵も勇気も、その資質を極限まで試されようとしているのだ。
第2部において特筆すべきは飛躍的に進歩したデジタル技術で
ゴラムの技術は文句なしの喝采を浴びてその年のアカデミー賞をもたらし、技術的問題を理由に凍結していた多くの映画の企画を再スタートさせた。ゴラムの影響は想像以上に大きく、映画の歴史を一歩前進させたのだ。
これが活用されたのはウルク=ハイの軍勢だ。ウルク=ハイは訓練されたスタントに数時間かかるメイキャップを施し、鍛冶職
そうするとどう考えても人数的限界に直面する。メイキャップアーティストだけでも数百人が映画制作に参加していたが、それ
黄金館はスカンジナビアの伝承『ベーオウルフ』からほぼそのまま採用されている。『指輪物語』は多くの神話、伝承を元素に描かれている。特に『古エッダー』からの影響は大きく、ガンダルフや『ホビットの冒険』の登場人物の名前はほぼここから引用されている。
ローハンを舞台にした戦いの1つ1つは容赦のない迫力だ。甲冑を泥だらけにして血にまみれ、犠牲者を出しながらなおも戦い続ける。我々が目撃しているのはまさに歴史上の英傑たちの戦いなのだと思わせられる。
だが誰一人として引き返そうとしなかった。彼らは暗黒の狂気に
いや違う。彼らは信じていた。この深い闇を抜けたそこに光が輝く瞬間があると。それは古里のためであり、そこで待つ子供たちのためであり、その背に世界の全てが背負わされている。
だから戦士達はどんなに傷つこうとも、側で仲間たちが倒れようとも、前に進むのを止めようとしない。自らの使命を知っているから。
目指す場所はこの世で最も暗く、醜い魔物が巣をつくり、冥界が口を開いて待っている場所だ。冥王のいるそこは地獄へと繋がっている。そんな恐怖を知りつつも、戦士達は決して引き返そうとしない。
望みを失ったこの世に、望みが失われた瞬間に。できるのはただ一つ、信じるだけ。希望を失わず耐えるだけ。命を懸けて戦うに足りる、尊い世界のために。
小さな望みはもっとも小さな者たちに託されて、使命は必ず果たされると信じ、戦士たちの旅はまだ続く。
第1章『旅の仲間』を読む
第3章『王の帰還』を読む
映画記事一覧
作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:エミリアナ・トリーニ
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
〇 ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
〇 ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
〇 オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
〇 ショーン・ビーン アンディ・サーキス
〇 ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
〇 マートン・ソーカス イアン・ホルム
〇 バーナード・ヒル ミランダ・オットー
〇 カール・アーバン デヴィッド・ウェンハム
〇 ブラッド・ドゥーリフ クリストファー・リー