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■2015/10/26 (Mon)
創作小説■
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
前回を読む
「ああ、そうだっけ。でも、ちょっと遅くなってもいいでしょ」
コルリはだらしなくテーブルに突っ伏した。コルリはとことん朝に弱い体質だった。
「駄目。いつもお世話になっている人やん。待たせたら、あかんよ。午前中に行くの」
ツグミは食パンにマヨネーズを引き伸ばし、炒り卵を乗せた。
「うん、そうやね」
コルリは観念したように顔を上げて、眼鏡を掛ける。眠たげな目をパチパチさせた。
「ねえ、ツグミ。昨日の夜な……」
コルリがぼんやりした喋り方で切り出しつつ、パンの上にマヨネーズを塗りたくった。
「うん」
ツグミはもぐもぐしながら顔を上げた。
「お父さんの夢、見とったんやろ」
コルリが卵を乗せたパンを、ぱくりと食べる。
「……うん。私、うなされとった?」
ツグミは視線を落とし、声も沈ませた。
あの事件は、今も未解決のままだった。父の太一はどこの誰に誘拐されたかわからず、どんな種類の事件に巻き込まれたのかも不明で、杳として行方は知れなかった。
ツグミは、あの事件を何度も夢の中で体験していた。夢を終えて目が覚めると、辺りはいつも真っ暗で、耐えがたい脚の激痛が夢ではない証みたいに残された。
真っ暗闇に取り残されて誰も助けてくれない。切なくなる孤独。それきり死んじゃうじゃないかって思うような左脚の痛み。その暗闇と痛みも、ツグミにとって悪夢の一つだった。
「痛み止めはもう飲んだ?」
「うん」
ツグミは立ち直れない気分で、小さく頷いた。
「大丈夫。お父さんはきっとどこかで生きとおから」
コルリはいつもの日常会話の調子で、パンを食べながら言った。
失踪してからすでに8年が過ぎていた。法的にはすでに死亡者という扱いだったが、妻鳥家では断固として葬式を拒否していた。死んだとは認めていないからだ。
「うん、ごめん」
ツグミは溜息とともに呟いた。
「何で謝るん?」
ふとコルリが顔を上げた。ツグミはコルリの顔を見て、あっとなった。
「あ、ありがとう」
ツグミは首をすくめながら、もどかしく声を沈めた。でもコルリは、満足だったみたいに微笑んだ。
「ありがとう」は「ごめん」より言いにくい。ツグミはそんなふうに思っていた。
ツグミは再びパンを食べ始めた。会話も途切れて、何となく周囲に目を向ける。いつもと変わらない台所の風景。
しかし、何だろう。急に、違和感に囚われた。違和感の正体を探して、台所をぐるぐると見回す。どこを見ても、いつもと変わらない風景に見えた。
書類用の棚のところで、目が止まった。よく見ると、ファイルの一つが、ほんの少し手前に出た状態になっていた。
契約書類のファイルだ。川村の契約書を持ち出したあのとき以来、手を着けていないはずだ。
「どうしたん?」
コルリがツグミの様子に気付いたみたいに、声を掛けた。
「ううん、別に?」
ツグミにも自分が何を感じているのかわからなかった。
ツグミはパンを置き、右脚に体重を掛けながら、椅子から立ち上がり、ファイルを引っ張り出した。
開くと、一番上に川村の契約書があるはずだった。それが、なかった。
※ 普通失踪は7年目で死亡の扱いになる。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
第4章 美術市場の闇
前回を読む
3
光太はテレビで神戸西洋美術館の事件を知って、ひどく心配したらしい。絵ができあがったというのはただの口実で、本音では事件の顛末を知りたがっているみたいだった。「ああ、そうだっけ。でも、ちょっと遅くなってもいいでしょ」
コルリはだらしなくテーブルに突っ伏した。コルリはとことん朝に弱い体質だった。
「駄目。いつもお世話になっている人やん。待たせたら、あかんよ。午前中に行くの」
ツグミは食パンにマヨネーズを引き伸ばし、炒り卵を乗せた。
「うん、そうやね」
コルリは観念したように顔を上げて、眼鏡を掛ける。眠たげな目をパチパチさせた。
「ねえ、ツグミ。昨日の夜な……」
コルリがぼんやりした喋り方で切り出しつつ、パンの上にマヨネーズを塗りたくった。
「うん」
ツグミはもぐもぐしながら顔を上げた。
「お父さんの夢、見とったんやろ」
コルリが卵を乗せたパンを、ぱくりと食べる。
「……うん。私、うなされとった?」
ツグミは視線を落とし、声も沈ませた。
あの事件は、今も未解決のままだった。父の太一はどこの誰に誘拐されたかわからず、どんな種類の事件に巻き込まれたのかも不明で、杳として行方は知れなかった。
ツグミは、あの事件を何度も夢の中で体験していた。夢を終えて目が覚めると、辺りはいつも真っ暗で、耐えがたい脚の激痛が夢ではない証みたいに残された。
真っ暗闇に取り残されて誰も助けてくれない。切なくなる孤独。それきり死んじゃうじゃないかって思うような左脚の痛み。その暗闇と痛みも、ツグミにとって悪夢の一つだった。
「痛み止めはもう飲んだ?」
「うん」
ツグミは立ち直れない気分で、小さく頷いた。
「大丈夫。お父さんはきっとどこかで生きとおから」
コルリはいつもの日常会話の調子で、パンを食べながら言った。
失踪してからすでに8年が過ぎていた。法的にはすでに死亡者という扱いだったが、妻鳥家では断固として葬式を拒否していた。死んだとは認めていないからだ。
「うん、ごめん」
ツグミは溜息とともに呟いた。
「何で謝るん?」
ふとコルリが顔を上げた。ツグミはコルリの顔を見て、あっとなった。
「あ、ありがとう」
ツグミは首をすくめながら、もどかしく声を沈めた。でもコルリは、満足だったみたいに微笑んだ。
「ありがとう」は「ごめん」より言いにくい。ツグミはそんなふうに思っていた。
ツグミは再びパンを食べ始めた。会話も途切れて、何となく周囲に目を向ける。いつもと変わらない台所の風景。
しかし、何だろう。急に、違和感に囚われた。違和感の正体を探して、台所をぐるぐると見回す。どこを見ても、いつもと変わらない風景に見えた。
書類用の棚のところで、目が止まった。よく見ると、ファイルの一つが、ほんの少し手前に出た状態になっていた。
契約書類のファイルだ。川村の契約書を持ち出したあのとき以来、手を着けていないはずだ。
「どうしたん?」
コルリがツグミの様子に気付いたみたいに、声を掛けた。
「ううん、別に?」
ツグミにも自分が何を感じているのかわからなかった。
ツグミはパンを置き、右脚に体重を掛けながら、椅子から立ち上がり、ファイルを引っ張り出した。
開くと、一番上に川村の契約書があるはずだった。それが、なかった。
※ 普通失踪は7年目で死亡の扱いになる。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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