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■2015/10/28 (Wed)
創作小説■
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
前回を読む
結局ツグミは、あのまま服を着替えず、上にトレンチコートだけ羽織って家を出た。
一方のコルリは、黄ばみのついたポロシャツに、男物のベスト。よれよれで黒ずんだジーンズだった。雨の降る気配もないのに、なぜか黒い傘を持っていた。
そんな格好でも、どこか格好いいと思えるコルリが羨ましかった。
光太の家は西明石市だ。西明石駅から降りて、少し歩く。妻鳥家からおよそ1時間。ツグミにとっては、ちょっとした遠出だ。
静かな住宅街に入っていくと、古い街並みは消えて、新しい家ばかりが現れる。光太の家はそんな中にあって、見た目は周囲の景観とさほど変わらない。若干、敷地面積は広めだが、規模としても佇まいとしても普通の家だった。
それが玄関をくぐると、驚くほど広い空間が現れる。
2階までの吹き抜けに、明るい光が目一杯射し込んでくる。高い位置にある窓が、モダンな唐草模様の透かし彫りになっていた。これが夕暮れになると、正面の白い壁に見事な影絵を写す。
その正面の壁には、装飾は少なく、天野義孝(※1)のシルクスクリーン(※2)が一枚だけ飾られていた。知り合いを頼り、3万円という適正価格で手に入れたシルクスクリーンだった。
ツグミとコルリが訪問すると、光太本人が出迎えてくれた。
「おお、よう来てくれたね。うん、いつ見ても可愛いねえ、2人は」
光太はこれ以上ないくらい人の良さそうな微笑を浮かべた。
「こんにちわ、叔父さん。お邪魔します」
ツグミとコルリは行儀よく声を揃えて、挨拶をした。
光太の感じは美術家というより、学校の先生だ。
髪を後ろに撫でつけ、鼻の下には口髭。いつも丸眼鏡を掛けているが、これがオシャレで、インテリの雰囲気を出していた。
今日は気楽なワイシャツ姿だが、上にジャケットでも羽織れば、誰がどう見ても、学校の先生になる。
「まあ、上がってよ。アトリエに新しい絵があるから」
先生みたい、とは言っても、ツグミたちが来ているときは、いつもデレデレしっぱなしだった。
ツグミとコルリは、光太の後に従いて、廊下を右に進んでガラス張りのドアを潜り抜けた。
すると、10畳を越える広々とした空間が現れる。ここが仕事部屋であるアトリエだ。
光太の家は、普通の家と較べて変則的だ。1階の大部分のスペースがアトリエのために割かれているので、寝室、浴室、キッチンなどは全て2階に上げられている。
1階にあるのは、アトリエと、後は美術品管理のための倉庫だけだった。
それでも家が狭くならないのは、光太夫妻に子供がいないからだ。家族が2人きりだからこそ、こういった思い切った間取りができたのだ。
アトリエは床暖房付きのフローリングだ。散らかっている様子はない。
場所を取る画板は、全てサイズ別に棚に収まっているし、整理の難しい細々とした画材は小箱や収納家具を駆使して几帳面に片付けられている。スケッチや資料写真も、すべてカテゴリ別にカードを付けられて、書棚にきちんと並んでいた。
画家のアトリエらしい風景は、現在進行形で絵が描き進められているキャンバスの周囲だけだった。
そこだけ無造作に道具が散乱し、極彩色のパレットと黴臭い雑巾が置かれ、それに油の臭いがもったりと漂っていた。
光太はいくつもの絵を同時に描き進める性質なので、キャンバスが掛けられたイーゼルが4つほど置かれていた。
「あ、叔父さん、もしかして、あれですか?」
コルリがすぐに入口右手の、資料写真の棚の手前に置かれている絵に気付いた。
キャンバスがイーゼルに掛けられているが、その周囲はきちんと片付けられている。ここで片付けられているのは、「完成品」を意味していた。
「そうだよ。見てごらん」
光太は顔に誇らしげなものを浮かべて、「さあどうぞ」と手で示した。
ツグミとコルリは、我先にと絵の前に向った。好きな作家を一番に見るドキドキが堪らない。コルリの顔にも、一杯の期待が浮かんでいた。
「へえ、これいいやん。叔父さん、傑作やで」
コルリはお世辞ではなく、本当に感心したふうに称賛した。
しかし、ツグミは顔をかぁ、と熱くしてしまった。
「何で? 叔父さん、これ私やん!」
ツグミは光太を振り返り、抗議の声を上げた。
キャンバスに描かれていたのは、青い空間に、黄色い雨合羽を着た少女だった。
雨の感じが、淡い霧のように描かれている。ゆるい風に煽られるように、雨合羽の少女が軽く身をよじらせていた。どこか、踊っているような優雅さがあった。
その少女がどう見ても、ツグミだった。フードを深く被り、顔のシルエットと目元がちらと見える程度だったが、間違いなくツグミだった。
※1 天野義孝 1952年生まれ。ファンタジーイラストの第1人者。アニメ・ゲーム・小説挿絵など、活動範囲は極めて広い。
※2 シルクスクリーン 孔版画技法の一つで、インクが通過する穴とインクが通過しない部分を作ることで、版画の版を製版し、印刷する技術。1950年代以降、アートに活用されるようになり、安価で良質な作品を大量に作ることができて、多くの人に販売することができるために広まった。日本では悪徳商法の一つである「絵画商法」のために評判はすこぶる悪い。美術品としての価値はない。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
第4章 美術市場の闇
前回を読む
4
2人は9時に妻鳥家を出て、JR線に乗った。結局ツグミは、あのまま服を着替えず、上にトレンチコートだけ羽織って家を出た。
一方のコルリは、黄ばみのついたポロシャツに、男物のベスト。よれよれで黒ずんだジーンズだった。雨の降る気配もないのに、なぜか黒い傘を持っていた。
そんな格好でも、どこか格好いいと思えるコルリが羨ましかった。
光太の家は西明石市だ。西明石駅から降りて、少し歩く。妻鳥家からおよそ1時間。ツグミにとっては、ちょっとした遠出だ。
静かな住宅街に入っていくと、古い街並みは消えて、新しい家ばかりが現れる。光太の家はそんな中にあって、見た目は周囲の景観とさほど変わらない。若干、敷地面積は広めだが、規模としても佇まいとしても普通の家だった。
それが玄関をくぐると、驚くほど広い空間が現れる。
2階までの吹き抜けに、明るい光が目一杯射し込んでくる。高い位置にある窓が、モダンな唐草模様の透かし彫りになっていた。これが夕暮れになると、正面の白い壁に見事な影絵を写す。
その正面の壁には、装飾は少なく、天野義孝(※1)のシルクスクリーン(※2)が一枚だけ飾られていた。知り合いを頼り、3万円という適正価格で手に入れたシルクスクリーンだった。
ツグミとコルリが訪問すると、光太本人が出迎えてくれた。
「おお、よう来てくれたね。うん、いつ見ても可愛いねえ、2人は」
光太はこれ以上ないくらい人の良さそうな微笑を浮かべた。
「こんにちわ、叔父さん。お邪魔します」
ツグミとコルリは行儀よく声を揃えて、挨拶をした。
光太の感じは美術家というより、学校の先生だ。
髪を後ろに撫でつけ、鼻の下には口髭。いつも丸眼鏡を掛けているが、これがオシャレで、インテリの雰囲気を出していた。
今日は気楽なワイシャツ姿だが、上にジャケットでも羽織れば、誰がどう見ても、学校の先生になる。
「まあ、上がってよ。アトリエに新しい絵があるから」
先生みたい、とは言っても、ツグミたちが来ているときは、いつもデレデレしっぱなしだった。
ツグミとコルリは、光太の後に従いて、廊下を右に進んでガラス張りのドアを潜り抜けた。
すると、10畳を越える広々とした空間が現れる。ここが仕事部屋であるアトリエだ。
光太の家は、普通の家と較べて変則的だ。1階の大部分のスペースがアトリエのために割かれているので、寝室、浴室、キッチンなどは全て2階に上げられている。
1階にあるのは、アトリエと、後は美術品管理のための倉庫だけだった。
それでも家が狭くならないのは、光太夫妻に子供がいないからだ。家族が2人きりだからこそ、こういった思い切った間取りができたのだ。
アトリエは床暖房付きのフローリングだ。散らかっている様子はない。
場所を取る画板は、全てサイズ別に棚に収まっているし、整理の難しい細々とした画材は小箱や収納家具を駆使して几帳面に片付けられている。スケッチや資料写真も、すべてカテゴリ別にカードを付けられて、書棚にきちんと並んでいた。
画家のアトリエらしい風景は、現在進行形で絵が描き進められているキャンバスの周囲だけだった。
そこだけ無造作に道具が散乱し、極彩色のパレットと黴臭い雑巾が置かれ、それに油の臭いがもったりと漂っていた。
光太はいくつもの絵を同時に描き進める性質なので、キャンバスが掛けられたイーゼルが4つほど置かれていた。
「あ、叔父さん、もしかして、あれですか?」
コルリがすぐに入口右手の、資料写真の棚の手前に置かれている絵に気付いた。
キャンバスがイーゼルに掛けられているが、その周囲はきちんと片付けられている。ここで片付けられているのは、「完成品」を意味していた。
「そうだよ。見てごらん」
光太は顔に誇らしげなものを浮かべて、「さあどうぞ」と手で示した。
ツグミとコルリは、我先にと絵の前に向った。好きな作家を一番に見るドキドキが堪らない。コルリの顔にも、一杯の期待が浮かんでいた。
「へえ、これいいやん。叔父さん、傑作やで」
コルリはお世辞ではなく、本当に感心したふうに称賛した。
しかし、ツグミは顔をかぁ、と熱くしてしまった。
「何で? 叔父さん、これ私やん!」
ツグミは光太を振り返り、抗議の声を上げた。
キャンバスに描かれていたのは、青い空間に、黄色い雨合羽を着た少女だった。
雨の感じが、淡い霧のように描かれている。ゆるい風に煽られるように、雨合羽の少女が軽く身をよじらせていた。どこか、踊っているような優雅さがあった。
その少女がどう見ても、ツグミだった。フードを深く被り、顔のシルエットと目元がちらと見える程度だったが、間違いなくツグミだった。
※1 天野義孝 1952年生まれ。ファンタジーイラストの第1人者。アニメ・ゲーム・小説挿絵など、活動範囲は極めて広い。
※2 シルクスクリーン 孔版画技法の一つで、インクが通過する穴とインクが通過しない部分を作ることで、版画の版を製版し、印刷する技術。1950年代以降、アートに活用されるようになり、安価で良質な作品を大量に作ることができて、多くの人に販売することができるために広まった。日本では悪徳商法の一つである「絵画商法」のために評判はすこぶる悪い。美術品としての価値はない。
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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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