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■2009/09/17 (Thu)
映画:外国映画■
突然、銀行が襲われた。襲撃者は安物のスーツにピエロのお面。銀行の正面からだけじゃない。襲撃者は銀行を複数箇所から襲撃し、警報機と電話線の繋がりを切り、金庫をこじ開ける。
計画的な犯行だ。しかし間もなく、襲撃者達は仲間同士で殺し合いをはじめる。
「ボスが用済みを殺せってさ。分け前が増える」
「そうか。偶然だな。俺も言われた」
殺し合いに殺し合いを重ね、ついにはたった一人になってしまった。
「仲間を殺して得意か?」
銀行員の一人が襲撃者の生き残りを罵った。
「お前もボスから同じ目に遭わされるぞ。昔の悪党は信じていた。名誉とか敬意ってものをな。今時の悪党はどうだ? 信念はあるか!」
ピエロお面の襲撃者は銀行員に近付き、その口に手榴弾を押し込んだ。
「俺の信念はこうだ。“死ぬような目に遭ったやつは――イカれる”」
襲撃者がピエロお面を脱いだ。その下に現れたのは、――まるでピエロのような粗末なメイクをした男だった。
映画を取り巻く状況は冒頭から急激に動き始めている。
ジョーカーが押し入って盗み出した金は、ゴッサムシティを牛耳るマフィアの金だった。かつて覆面捜査官が麻薬取引に使った紙幣で、マネー・ロンダリングされるはずの金だった。その金をジョーカーが盗み出した結果、警察も検察もマフィアの金の存在に気付いた。
ハービー・デント検事は着任したばかりの検察官だった。ハービー・デント検察官は純粋な正義漢で、着任時に悪党との戦いを宣言。言葉通りにマフィアの黒幕を裁判所に引きずり出し、正面からの戦いに挑んだ。
ハービー・デント検事は組織犯罪に戦いを挑むジム・ゴードン警部補と同調し、各銀行への捜査令状を発行。ゴッサムシティ・マフィアの根絶を狙った。
だがマフィアの動きも油断なく早かった。ジム・ゴードンがマフィアの金が預けられている銀行に踏み込んだ。だが、すでに金は持ち出された後だった。
事件の中核にいるのは、中国人のラウ。そこまでわかっていたが、しかしラウはすでに金を国外に持ち出し、自身は香港へと高飛びしていた。
警察の権限ではもう手出しできない――頼れるのはただ一人、バットマンだけだった。
その一方で、マフィアの内部にも葛藤があった。バットマンとハービー・デント二人の活躍で、マフィアの活動は限られつつある。いつしか中国人のボスに頼るようになっていた。
そこに現れたのは、本物のキチガイ――ジョーカーだった。
ジョーカーのおかげで、隠し持っていた自分たちの貯金が警察に暴かれてしまった。資金と活動場所を奪われ、組織の衰退を予感していた。
そんなマフィアの集会に、ジョーカーが堂々と姿を見せた。
「1年前に時計を戻そう。泣く子も黙るあんたらはには警察も検事も手を出せなかった。なのに、どうした? タマでも落としちまったか? まあいい。俺は知っている。なぜ“グループ・セラピー”を白昼に開いているか。なぜ夜を恐れるのかを。――バットマンだ。バットマンにあんたらの悪業が暴かれちまったからさ。デントは始まりに過ぎない」
「どうするつもりだ?」
「簡単だ。バットマンを殺す。だがタダじゃやらない。全資金の半分をよこせ」
奇抜なデザインのバットポット。批評家の一部は奇抜すぎてCGだと思った人がいて「CGであるから不自然だ」と批判。しかし危険なシーン以外ほとんど実写だ。この頃は「見たことがないものは全部CG」と判断する人が多く「CGだからダメだ」という通念が浸透している。デジタルは単に手法の一つでしかない。違和感は経験値のなさだ。
映画『ダークナイト』はコミック原作作品であるが、その実体は明らかに犯罪映画だ。『ダークナイト』に描かれた風景は、あまりにも現実的で、これまでのコミック原作作品の刷り込みを軽々と飛躍する。作り手はお手軽なコミック映画を制作しようなど思っていない。観客が本当に驚き、戦慄する物語であり、映像だ。
コミック作品原作としては極めて重厚に作られた世界観。ディティールの描き方にしても犯罪映画が意識されている。それが次第に崩壊していき、独特のコミック世界へと移行していく。
『ダークナイト』の物語は、複雑なパースティクティブが立体的に交差している。警察とマフィアの戦いを中心としながら、警察と警察、検察と検察、それらの対立の一方で警察とマフィアの繋がりという暗部も描いている。
そうした複雑さを、躊躇なく、観客が追いつけないかもしれない懸念を無視して、丹念に描き出している。
映像感覚はどこまでも現実的に、高詳細に描かれ、いかにもコミック原作然とした跳躍した部分は少ない。スーパーヒーローが登場し、デウスエキスマキナ的パワーで事件解決、とはいかない。警察とマフィアの戦い、感情と暴力のぶつかり合いを正面から描き、犯罪映画らしい緊張感のある画面と物語構成を作り出している。
『ダークナイト』でのバットマンは、あくまでも大きな状況の中のいち断片に過ぎない。状況を変える影響力も弱く、主人公としての存在感、主体性は弱い。
現実的な『ダークナイト』だが、拍子抜けなくらい落差が現われる瞬間がある。
それはバットマンの存在である。
バットマンが登場し、秘密アイテムを駆使してアクロバットな活劇を見せる瞬間、『ダークナイト』は犯罪映画としての緊張感を失い、コミック映画に引き戻される。バットマンが登場するたびに、『ダークナイト』は映画の性質を別なものに変質させてしまうのだ。
もちろん、バットマンの存在は魅力的だ。警察も検察も法的に手が出せなくなった瞬間、バットマンが超法規的活劇によって悪が封じられる。秘密アイテムも、今作においては非常に現実的な設計で描かれている。バットマン・スーツにしてもより機能的で、現実にありえそうなディティールで描かれている(疑似科学みたいなものだが)。
しかしバットマンはコミックヒーローなのである。犯罪映画の主人公ではない。
『ダークナイト』には二つの違う映画が同居している。コミックヒーロー映画と、犯罪映画だ。バットマンは犯罪映画としての『ダークナイト』に深く介入せず、飽くまでコミックヒーローという立場のまま、犯罪者の動きを周辺から監視している。
残念なことに、『ダークナイト』のジョーカーが俳優ヒース・レジャーの遺作となった。直接原因は睡眠薬と坑欝剤を一度に服用した結果だが、その背景にどんな事情があったのか不明なままだ。『ダークナイト』のジョーカー役が相当のストレスだったのでは、と伝えられている。
『ダークナイト』の中心人物は誰か――言うまでもなくジョーカーだ。
ジョーカーといえば、かつてジャック・ニコルソンが演じた強烈なキャラクターだ。ジャック・ニコルソンのもともとの凶悪そうな容貌もあって、あの怪演を上回るキャラクターはないだろうと考えられていた。
だが『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーの存在感は、ジャック・ニコルソンを完全に忘れさせた。あまりにも圧倒的。夢に見そうなくらい強烈だった。
ジョーカーはコミック・ヒーローのキャラクターだが、犯罪映画としての『ダークナイト』とコミック映画としての『ダークナイト』の両方に調和したキャラクターだ。二つの『ダークナイト』の中心的存在であり、そのどちらの状況、社会に対して決定的な影響力を持っていた。
ジョーカーは犯罪者達を突き動かし、一般の社会に対してもこう囁く。
「お前は俺と一緒だ。さあ、引き金を引け。楽になるぞ」と。
ジョーカーには世界をそのものを変容させる力を持っている。それは、本来主人公にのみ許された特権であるはずだった。
だからこう表現すべきである。『ダークナイト』の主人公はジョーカーであると。
最終回シチュエーションの多い映画だ。次回作の可能性を徹底的に潰してしまっている。しかし実は続編が予定されている。バットマンとキャットウーマンのロマンスが中心になるらしいが……またしてもキャットウーマンは冷や飯くわされそうだ。
『ダークナイト』の魅力は犯罪映画としての堅牢なディティールだが、その威力を倍加しているのは確実にジョーカーだ。
ジョーカーは圧倒的存在感で世界に対する影響力を持っているが、しかし何ら主体性を持っていない。彼はただの野良犬に過ぎない。映画中で、本人の口からそう語られる。
ただ気まぐれに吠えて、気まぐれ状況を混乱させるだけ。ただのキチガイぴえろだ。
『ダークナイト』の物語は、途中からどこに流れていくのかわからなくなってしまう。いったいどんな結末に向かっているのかわからない。なのに、強烈な緊張感が常に全体を支配している。
それはジョーカーがなんの蓋然性も達成目標も持っていないからだ。だから映画は、ジョーカーに引き摺られるように、渾沌とした闇の中を這い進み始める。
ジョーカーは不敵に笑いながら、世界に向かって語り始める。
「マフィアはバットマンを殺せば、以前に戻れると思っていた。だが戻りやしない。お前が変えたからだ――永遠に。世間のモラルや倫理なんてものは、善人の戯言だ。足元が脅かされりゃ、ポイ。たちまちエゴむきだしになる。見せてやるよ。いざって時、いかに文明人とかいう連中が争いあうか――」
当初、ジョーカーはマフィアの連中に「バットマンを殺す」と宣言した。だが、はじめから殺す気などなかった。というかバットマンを殺すと、自分の存在意義が無になってしまう。バットマンがいなければ、自分はただの変態男に過ぎない、とジョーカーは冷静な部分で理解している。
ジョーカーの動機は、バットマンを殺そうと行動することで、社会がどのように変質し、人間の世界が混乱するか――人々が狂気に狂うさまを見て、愉しみたかっただけだ。それがジョーカーという人間であり、ジョーカーはジョーカーのやり方で、世界そのものを具体的方法で啓蒙したのだ。
自分のような人間が世界に注目されるように。そして世界が元通りにならないように。世界の視点、ベクトルを自分の都合のいい方向に転換させたのだ。
「たった一人のヒーロ-が世界を救う」から「ヒーローも世界のいち断片に過ぎない」へ。人間が世界に圧倒され、際立った個性すら埋没される。ヒーローですら、世界は救えなくなった……。ひょっとしたら、時代の影響があるのかもしれない。
犯罪映画としての世界が変質し、混乱が深まっていくと、不思議とコミックヒーローとの距離が接近していく。世界が超現実の領域に踏み込み、むしろコミック的な状況に突入していく。
次第に、犯罪映画という風景の中から、ジョーカーとバットマンの二人が際立ち始める。そうなると映画はクライマックスに向けて、ジョーカーVSバットマンという構造を完成させていく。ジョーカーがひたすら世界を引っ掻き回した結果、犯罪映画はバットマンの存在を必要とし始めたのだ。
『ダークナイト』は「何が起きるかわからない」という緊張感を久し振りに感じた映画だった。
強烈なキャラクターに、重厚なディティールを持った描写。状況のなにもかもが、大きな歯車のひとつに過ぎない。しかし、次第に状況は変質していき、バットマンとジョーカーという変質者を2大ヒーローとして浮かび上がらせていく。
『ダークナイト』はコミック原作映画としての、新しい境地を踏み込んだ作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督:クリストファー・ノーラン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード ハンス・ジマー
脚本:ジョナサン・ノーラン クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン
〇〇〇ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン
〇〇〇アーロン・エッカート マギー・ギレンホール
〇〇〇モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
計画的な犯行だ。しかし間もなく、襲撃者達は仲間同士で殺し合いをはじめる。
「ボスが用済みを殺せってさ。分け前が増える」
「そうか。偶然だな。俺も言われた」
殺し合いに殺し合いを重ね、ついにはたった一人になってしまった。
「仲間を殺して得意か?」
銀行員の一人が襲撃者の生き残りを罵った。
「お前もボスから同じ目に遭わされるぞ。昔の悪党は信じていた。名誉とか敬意ってものをな。今時の悪党はどうだ? 信念はあるか!」
ピエロお面の襲撃者は銀行員に近付き、その口に手榴弾を押し込んだ。
「俺の信念はこうだ。“死ぬような目に遭ったやつは――イカれる”」
襲撃者がピエロお面を脱いだ。その下に現れたのは、――まるでピエロのような粗末なメイクをした男だった。
映画を取り巻く状況は冒頭から急激に動き始めている。
ジョーカーが押し入って盗み出した金は、ゴッサムシティを牛耳るマフィアの金だった。かつて覆面捜査官が麻薬取引に使った紙幣で、マネー・ロンダリングされるはずの金だった。その金をジョーカーが盗み出した結果、警察も検察もマフィアの金の存在に気付いた。
ハービー・デント検事は着任したばかりの検察官だった。ハービー・デント検察官は純粋な正義漢で、着任時に悪党との戦いを宣言。言葉通りにマフィアの黒幕を裁判所に引きずり出し、正面からの戦いに挑んだ。
ハービー・デント検事は組織犯罪に戦いを挑むジム・ゴードン警部補と同調し、各銀行への捜査令状を発行。ゴッサムシティ・マフィアの根絶を狙った。
だがマフィアの動きも油断なく早かった。ジム・ゴードンがマフィアの金が預けられている銀行に踏み込んだ。だが、すでに金は持ち出された後だった。
事件の中核にいるのは、中国人のラウ。そこまでわかっていたが、しかしラウはすでに金を国外に持ち出し、自身は香港へと高飛びしていた。
警察の権限ではもう手出しできない――頼れるのはただ一人、バットマンだけだった。
その一方で、マフィアの内部にも葛藤があった。バットマンとハービー・デント二人の活躍で、マフィアの活動は限られつつある。いつしか中国人のボスに頼るようになっていた。
そこに現れたのは、本物のキチガイ――ジョーカーだった。
ジョーカーのおかげで、隠し持っていた自分たちの貯金が警察に暴かれてしまった。資金と活動場所を奪われ、組織の衰退を予感していた。
そんなマフィアの集会に、ジョーカーが堂々と姿を見せた。
「1年前に時計を戻そう。泣く子も黙るあんたらはには警察も検事も手を出せなかった。なのに、どうした? タマでも落としちまったか? まあいい。俺は知っている。なぜ“グループ・セラピー”を白昼に開いているか。なぜ夜を恐れるのかを。――バットマンだ。バットマンにあんたらの悪業が暴かれちまったからさ。デントは始まりに過ぎない」
「どうするつもりだ?」
「簡単だ。バットマンを殺す。だがタダじゃやらない。全資金の半分をよこせ」
奇抜なデザインのバットポット。批評家の一部は奇抜すぎてCGだと思った人がいて「CGであるから不自然だ」と批判。しかし危険なシーン以外ほとんど実写だ。この頃は「見たことがないものは全部CG」と判断する人が多く「CGだからダメだ」という通念が浸透している。デジタルは単に手法の一つでしかない。違和感は経験値のなさだ。
映画『ダークナイト』はコミック原作作品であるが、その実体は明らかに犯罪映画だ。『ダークナイト』に描かれた風景は、あまりにも現実的で、これまでのコミック原作作品の刷り込みを軽々と飛躍する。作り手はお手軽なコミック映画を制作しようなど思っていない。観客が本当に驚き、戦慄する物語であり、映像だ。
コミック作品原作としては極めて重厚に作られた世界観。ディティールの描き方にしても犯罪映画が意識されている。それが次第に崩壊していき、独特のコミック世界へと移行していく。
『ダークナイト』の物語は、複雑なパースティクティブが立体的に交差している。警察とマフィアの戦いを中心としながら、警察と警察、検察と検察、それらの対立の一方で警察とマフィアの繋がりという暗部も描いている。
そうした複雑さを、躊躇なく、観客が追いつけないかもしれない懸念を無視して、丹念に描き出している。
映像感覚はどこまでも現実的に、高詳細に描かれ、いかにもコミック原作然とした跳躍した部分は少ない。スーパーヒーローが登場し、デウスエキスマキナ的パワーで事件解決、とはいかない。警察とマフィアの戦い、感情と暴力のぶつかり合いを正面から描き、犯罪映画らしい緊張感のある画面と物語構成を作り出している。
『ダークナイト』でのバットマンは、あくまでも大きな状況の中のいち断片に過ぎない。状況を変える影響力も弱く、主人公としての存在感、主体性は弱い。
現実的な『ダークナイト』だが、拍子抜けなくらい落差が現われる瞬間がある。
それはバットマンの存在である。
バットマンが登場し、秘密アイテムを駆使してアクロバットな活劇を見せる瞬間、『ダークナイト』は犯罪映画としての緊張感を失い、コミック映画に引き戻される。バットマンが登場するたびに、『ダークナイト』は映画の性質を別なものに変質させてしまうのだ。
もちろん、バットマンの存在は魅力的だ。警察も検察も法的に手が出せなくなった瞬間、バットマンが超法規的活劇によって悪が封じられる。秘密アイテムも、今作においては非常に現実的な設計で描かれている。バットマン・スーツにしてもより機能的で、現実にありえそうなディティールで描かれている(疑似科学みたいなものだが)。
しかしバットマンはコミックヒーローなのである。犯罪映画の主人公ではない。
『ダークナイト』には二つの違う映画が同居している。コミックヒーロー映画と、犯罪映画だ。バットマンは犯罪映画としての『ダークナイト』に深く介入せず、飽くまでコミックヒーローという立場のまま、犯罪者の動きを周辺から監視している。
残念なことに、『ダークナイト』のジョーカーが俳優ヒース・レジャーの遺作となった。直接原因は睡眠薬と坑欝剤を一度に服用した結果だが、その背景にどんな事情があったのか不明なままだ。『ダークナイト』のジョーカー役が相当のストレスだったのでは、と伝えられている。
『ダークナイト』の中心人物は誰か――言うまでもなくジョーカーだ。
ジョーカーといえば、かつてジャック・ニコルソンが演じた強烈なキャラクターだ。ジャック・ニコルソンのもともとの凶悪そうな容貌もあって、あの怪演を上回るキャラクターはないだろうと考えられていた。
だが『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーの存在感は、ジャック・ニコルソンを完全に忘れさせた。あまりにも圧倒的。夢に見そうなくらい強烈だった。
ジョーカーはコミック・ヒーローのキャラクターだが、犯罪映画としての『ダークナイト』とコミック映画としての『ダークナイト』の両方に調和したキャラクターだ。二つの『ダークナイト』の中心的存在であり、そのどちらの状況、社会に対して決定的な影響力を持っていた。
ジョーカーは犯罪者達を突き動かし、一般の社会に対してもこう囁く。
「お前は俺と一緒だ。さあ、引き金を引け。楽になるぞ」と。
ジョーカーには世界をそのものを変容させる力を持っている。それは、本来主人公にのみ許された特権であるはずだった。
だからこう表現すべきである。『ダークナイト』の主人公はジョーカーであると。
最終回シチュエーションの多い映画だ。次回作の可能性を徹底的に潰してしまっている。しかし実は続編が予定されている。バットマンとキャットウーマンのロマンスが中心になるらしいが……またしてもキャットウーマンは冷や飯くわされそうだ。
『ダークナイト』の魅力は犯罪映画としての堅牢なディティールだが、その威力を倍加しているのは確実にジョーカーだ。
ジョーカーは圧倒的存在感で世界に対する影響力を持っているが、しかし何ら主体性を持っていない。彼はただの野良犬に過ぎない。映画中で、本人の口からそう語られる。
ただ気まぐれに吠えて、気まぐれ状況を混乱させるだけ。ただのキチガイぴえろだ。
『ダークナイト』の物語は、途中からどこに流れていくのかわからなくなってしまう。いったいどんな結末に向かっているのかわからない。なのに、強烈な緊張感が常に全体を支配している。
それはジョーカーがなんの蓋然性も達成目標も持っていないからだ。だから映画は、ジョーカーに引き摺られるように、渾沌とした闇の中を這い進み始める。
ジョーカーは不敵に笑いながら、世界に向かって語り始める。
「マフィアはバットマンを殺せば、以前に戻れると思っていた。だが戻りやしない。お前が変えたからだ――永遠に。世間のモラルや倫理なんてものは、善人の戯言だ。足元が脅かされりゃ、ポイ。たちまちエゴむきだしになる。見せてやるよ。いざって時、いかに文明人とかいう連中が争いあうか――」
当初、ジョーカーはマフィアの連中に「バットマンを殺す」と宣言した。だが、はじめから殺す気などなかった。というかバットマンを殺すと、自分の存在意義が無になってしまう。バットマンがいなければ、自分はただの変態男に過ぎない、とジョーカーは冷静な部分で理解している。
ジョーカーの動機は、バットマンを殺そうと行動することで、社会がどのように変質し、人間の世界が混乱するか――人々が狂気に狂うさまを見て、愉しみたかっただけだ。それがジョーカーという人間であり、ジョーカーはジョーカーのやり方で、世界そのものを具体的方法で啓蒙したのだ。
自分のような人間が世界に注目されるように。そして世界が元通りにならないように。世界の視点、ベクトルを自分の都合のいい方向に転換させたのだ。
「たった一人のヒーロ-が世界を救う」から「ヒーローも世界のいち断片に過ぎない」へ。人間が世界に圧倒され、際立った個性すら埋没される。ヒーローですら、世界は救えなくなった……。ひょっとしたら、時代の影響があるのかもしれない。
犯罪映画としての世界が変質し、混乱が深まっていくと、不思議とコミックヒーローとの距離が接近していく。世界が超現実の領域に踏み込み、むしろコミック的な状況に突入していく。
次第に、犯罪映画という風景の中から、ジョーカーとバットマンの二人が際立ち始める。そうなると映画はクライマックスに向けて、ジョーカーVSバットマンという構造を完成させていく。ジョーカーがひたすら世界を引っ掻き回した結果、犯罪映画はバットマンの存在を必要とし始めたのだ。
『ダークナイト』は「何が起きるかわからない」という緊張感を久し振りに感じた映画だった。
強烈なキャラクターに、重厚なディティールを持った描写。状況のなにもかもが、大きな歯車のひとつに過ぎない。しかし、次第に状況は変質していき、バットマンとジョーカーという変質者を2大ヒーローとして浮かび上がらせていく。
『ダークナイト』はコミック原作映画としての、新しい境地を踏み込んだ作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督:クリストファー・ノーラン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード ハンス・ジマー
脚本:ジョナサン・ノーラン クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン
〇〇〇ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン
〇〇〇アーロン・エッカート マギー・ギレンホール
〇〇〇モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
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