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■2009/09/19 (Sat)
映画:外国映画■
マゴリアムおじさんのおもちゃ屋に並ぶ玩具は普通の品ではない。すべてに魔法がかけられている。どの玩具も生命を持ち、子供を楽しませようと身を弾ませている。
そんな店の主であるマゴリアムおじさんは、まもなく243歳にる。マゴリアムおじさんは生涯を通じてあらゆる玩具を創作し、あらゆる玩具を蒐集してきた。だが、それそろ引退する時がやってきた。魔法のおもちゃ屋から、そして人生から。
マゴリアムおじさんは、支配人であるマホーニーに店を譲ろうと考えているが……。
マホーニーは少女時代、ピアノの天才と呼ばれていた。自身もピアノを職業にするつもりでいた。
でも才能は枯れてしまった。夢は半ばで挫折してしまった。
それでもマホーニーは作曲の夢だけは諦められなかった。それも枯れ尽きた才能の前に、行き詰まり、自信を失っていた。
マホーニーはマゴリアムおじさんおもちゃ屋をうまく経営していた。店の玩具なら何でも知っている。どんな玩具にどんな魔力が込められているかも、それからマゴリアムおじさん独特のユーモアも理解している。
しかし自信喪失がマホーニーを追い詰めていく。いつしかマホーニーは、玩具に宿る魔法を信じられなくなっていった。
物質の洪水のような映画だ。物に依存した映画なのか、精神病理とは違った視点の精神性ついて語ろうとした映画なのか。その解釈は見る人によって様々だろう。ただ、見ると少々目が疲れる映画である。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』はとにかく色彩豊かな映画だ。レッドを中心にブルー、イエロー。色彩の洪水だが、色同士は混濁せず、うまく譲歩しあって鮮やかな色調を作り出している。
色彩の洪水であると同時に、中心舞台であるおもちゃ屋もまた物質の洪水だ。この映画のために、世界中のあらゆる場所から玩具が蒐集され、ディスプレイされる。
その圧倒的なディティールに眩暈すら感じる。画面は常に閉所恐怖症のように物まみれで、静止する瞬間なしに動き続けている。画面の印象はあまりにも濃厚で、見終わる頃にはゲップが出そうな勢いだ。
もっとも、画面の色彩そのものは落ち着いた暖色系で、暖かな印象をもって描かれている。
映画のもう一つのキーパーソンである、少年と会計士。人生には遊びも必要……アメリカ映画にありがちなテーマで目立ったものはない。アメリからしい享楽主義の精神がよく現われているといえるだろう。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』において、色彩と玩具は単に背景ではない。俳優以上に、物語の状況と登場人物の精神状態について雄弁に解説している。
すべての玩具には魔法がかけられている――。この都合のよい設定どおりに、物語の感情に合わせて、無数に陳列された玩具たちが騒ぎ、沈黙し、色彩を変化させる。
玩具一つ一つが重要な登場人物なのであり、玩具が映画の構造の一つとして機能しているのだ。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』は、俳優と同じくらい、物質と色彩、音楽を重要視する映画だ。本来背景におかれるべきものが、物語の進行を解説し、シーンの感情を決定付けている。俳優以上に感情豊かで、生命観溢れる装置だ。
映画中にちらと登場する『ケロロ軍曹』。映画中に登場する玩具は世界中から蒐集されたものだ。ケロロ軍曹は日本代表という感じで登場する。アメリカのドラマにも登場したり、ケロロ軍曹は意外にも世界に広がっているのだろうか?
物語中に登場する玩具には魔法がかけられている。その魔法をかけるのは、もちろん人間の側である。つまり、この映画は玩具と人間に関わりを描いている。
玩具を“ただの”玩具と決め付けたとき、それはただの物質となる。玩具は人間の心理に対し、何ら影響を与えないだろう。子供に夢を与えたりもしないだろう。
玩具が玩具であり続けるには、人間の側による魔法が必要なのだ。
魔法を信じ、玩具の人形に話しかけたとき、玩具は玩具として輝き出す。それは人間と物質の関係〔=アニミズム〕を示唆するものである。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ザック・ヘルム
音楽:アレクサンドル・デスプラ アーロン・ジグマン
出演:ダスティン・ホフマン ナタリー・ポートマン
〇〇〇ジェイソン・ベイトマン ザック・ミルズ
〇〇〇テッド・ルジック マイク・リアルバ
そんな店の主であるマゴリアムおじさんは、まもなく243歳にる。マゴリアムおじさんは生涯を通じてあらゆる玩具を創作し、あらゆる玩具を蒐集してきた。だが、それそろ引退する時がやってきた。魔法のおもちゃ屋から、そして人生から。
マゴリアムおじさんは、支配人であるマホーニーに店を譲ろうと考えているが……。
マホーニーは少女時代、ピアノの天才と呼ばれていた。自身もピアノを職業にするつもりでいた。
でも才能は枯れてしまった。夢は半ばで挫折してしまった。
それでもマホーニーは作曲の夢だけは諦められなかった。それも枯れ尽きた才能の前に、行き詰まり、自信を失っていた。
マホーニーはマゴリアムおじさんおもちゃ屋をうまく経営していた。店の玩具なら何でも知っている。どんな玩具にどんな魔力が込められているかも、それからマゴリアムおじさん独特のユーモアも理解している。
しかし自信喪失がマホーニーを追い詰めていく。いつしかマホーニーは、玩具に宿る魔法を信じられなくなっていった。
物質の洪水のような映画だ。物に依存した映画なのか、精神病理とは違った視点の精神性ついて語ろうとした映画なのか。その解釈は見る人によって様々だろう。ただ、見ると少々目が疲れる映画である。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』はとにかく色彩豊かな映画だ。レッドを中心にブルー、イエロー。色彩の洪水だが、色同士は混濁せず、うまく譲歩しあって鮮やかな色調を作り出している。
色彩の洪水であると同時に、中心舞台であるおもちゃ屋もまた物質の洪水だ。この映画のために、世界中のあらゆる場所から玩具が蒐集され、ディスプレイされる。
その圧倒的なディティールに眩暈すら感じる。画面は常に閉所恐怖症のように物まみれで、静止する瞬間なしに動き続けている。画面の印象はあまりにも濃厚で、見終わる頃にはゲップが出そうな勢いだ。
もっとも、画面の色彩そのものは落ち着いた暖色系で、暖かな印象をもって描かれている。
映画のもう一つのキーパーソンである、少年と会計士。人生には遊びも必要……アメリカ映画にありがちなテーマで目立ったものはない。アメリからしい享楽主義の精神がよく現われているといえるだろう。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』において、色彩と玩具は単に背景ではない。俳優以上に、物語の状況と登場人物の精神状態について雄弁に解説している。
すべての玩具には魔法がかけられている――。この都合のよい設定どおりに、物語の感情に合わせて、無数に陳列された玩具たちが騒ぎ、沈黙し、色彩を変化させる。
玩具一つ一つが重要な登場人物なのであり、玩具が映画の構造の一つとして機能しているのだ。
『マゴリアムおじさんのおもちゃ屋』は、俳優と同じくらい、物質と色彩、音楽を重要視する映画だ。本来背景におかれるべきものが、物語の進行を解説し、シーンの感情を決定付けている。俳優以上に感情豊かで、生命観溢れる装置だ。
映画中にちらと登場する『ケロロ軍曹』。映画中に登場する玩具は世界中から蒐集されたものだ。ケロロ軍曹は日本代表という感じで登場する。アメリカのドラマにも登場したり、ケロロ軍曹は意外にも世界に広がっているのだろうか?
物語中に登場する玩具には魔法がかけられている。その魔法をかけるのは、もちろん人間の側である。つまり、この映画は玩具と人間に関わりを描いている。
玩具を“ただの”玩具と決め付けたとき、それはただの物質となる。玩具は人間の心理に対し、何ら影響を与えないだろう。子供に夢を与えたりもしないだろう。
玩具が玩具であり続けるには、人間の側による魔法が必要なのだ。
魔法を信じ、玩具の人形に話しかけたとき、玩具は玩具として輝き出す。それは人間と物質の関係〔=アニミズム〕を示唆するものである。
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作品データ
監督・脚本:ザック・ヘルム
音楽:アレクサンドル・デスプラ アーロン・ジグマン
出演:ダスティン・ホフマン ナタリー・ポートマン
〇〇〇ジェイソン・ベイトマン ザック・ミルズ
〇〇〇テッド・ルジック マイク・リアルバ
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