■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/09/19 (Sat)
映画:外国映画■
1585年のヨーロッパは、二つの宗教が対立する時代だった。
カトリックを国教とするスペインと、プロテスタントを国教とする英国。
スペイン王フェリペニ二世は、プロテスタントの女王を亡き者にし、娘を英国女王の座に就かせるために、謀略を練っていた。
侍女エリザベス(ベス)。もう一人のエリザベスとして描かれる。エリザベスの俗世の姿である。この両者の関係、決別、成長の物語が作品の主なキーワードだ。
一方の英国には、戦争の影はどこにもなかった。
英国女王エリザベスのもとに、いくつもの縁談の話が舞い込んでくる。
退屈そうにするエリザベスは、謁見場にいた、一人の男に心惹かれる。海賊の、ウォルター・ローリーだ。
豪華絢爛な衣装デザインに注目したい。大作映画だがセット数は少なく、おそらく歴史建築などが撮影に使われたのだろう。古い建築がそのまま残るのが石建築のいいところだ。だからプリ・プロダクションで力を注いだのは衣装のほうだろう。
歴史を現代の感性で美しく描いた作品だ。石建築の重厚な重々しさ、暗く差し込んでくる光。西洋絵画で見られる光を、しっかり捉えてフィルムの中に封じている。
歴史を題材にし、背景に戦争の影があるが、本質は恋愛映画だ。女王エリザベスの恋愛物語であり、成長の物語だ。
『エリザベス:ゴールデン・エイジ』には二人のエリザベスが登場する。女王エリザベスと、その侍女であるエリザベス(ベス)だ。
二人のエリザベスの関係は、光と影だ。二人は常に一緒にいるし、鏡のように対比する存在として描かれる。
権力を持ったエリザベスと、権力に服従するエリザベス。思い通りになれないエリザベスと、思い通りになるエリザベス。
ウォルター・ローリーの役割は、恋愛の主体であると同時に、この両者の関係を変質させるためにある。
我々はつい物質だけで価値判断してしまいがちだ。確かに王はあらゆる物に満たされているが、しかし自由はない。孤独であるといっていい。常に背後にある国家を意識して行動しなければならないし、どんな決断も先延ばしにできない。罠に陥れて戦争を始めたがる連中もいる。暗殺の恐れもある。ひたすら神経をすり減らしていくだけだろう。王であるためには大きな責任が伴うのだ。
王とは、俗世的な存在ではなく、偶像に近い存在だ。馬鹿げた装飾に、白塗りの面のような顔。女王自身がそんな姿を望んでいるのではない――王という立場を示すために、俗世とは違う存在である証明のために、そんな格好をしているのだ。
王とは、すべての権威の最上部にありながら自由はない。民も側近も、王に人間としたの姿など求めていない。
王とは偶像に過ぎない。王とはある意味で人間ですらない。王とは国家である。王とは大地そのものである。
だから女王エリザベスは、救いたい命も救えず、愛も得られない。人間としての欲求は、王という存在にはふさわしくないからだ。
だから女王エリザベスは、侍女のベスを通じて、ローリーの愛を得ようとする。自分の代わりにローリーと踊らせ、自分の代わりに愛の言葉を交わす。そのどちらも、女王がする行為としては認められていないからだ。
クライマックスの戦いは、象徴的に描かれる。おそらく、予算の問題が背景にあったのだと思うが、この映画はあくまでもエリザベスの成長の物語。嘔吐しての覚悟を決めるまでの物語だ。国同士の戦いも、エリザベスにとっては精神的な戦いである。兵士のぶつかり合いを中心とした合戦を期待した人はがっかり?
物語は間もなく戦争の影が忍び寄ろうとする。スペイン艦隊が、海峡に迫ってくる。
エリザベス女王は、様々な葛藤を抱き、決断を迫られる。
人間としてではない。女としてでもない。一国を背負う王として。王である立場を自ら受け入れ、民を導く覚悟のために。
そのすべてが達成させられた時にこそ、英雄の時代“ゴールデン・エイジ(黄金時代)”が得られるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:シェカール・カプール
脚本:ウィリアム・ニコルソン マイケル・ハースト
音楽:クレイグ・アームストロング
撮影:レミ・アデファラシン 編集:ジル・ビルコック
出演:ケイト・ブランシェット ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇クライブ・オーエン リス・エヴァンス
〇〇〇ジョルディ・モリャ アビー・コーニッシュ
カトリックを国教とするスペインと、プロテスタントを国教とする英国。
スペイン王フェリペニ二世は、プロテスタントの女王を亡き者にし、娘を英国女王の座に就かせるために、謀略を練っていた。
侍女エリザベス(ベス)。もう一人のエリザベスとして描かれる。エリザベスの俗世の姿である。この両者の関係、決別、成長の物語が作品の主なキーワードだ。
一方の英国には、戦争の影はどこにもなかった。
英国女王エリザベスのもとに、いくつもの縁談の話が舞い込んでくる。
退屈そうにするエリザベスは、謁見場にいた、一人の男に心惹かれる。海賊の、ウォルター・ローリーだ。
豪華絢爛な衣装デザインに注目したい。大作映画だがセット数は少なく、おそらく歴史建築などが撮影に使われたのだろう。古い建築がそのまま残るのが石建築のいいところだ。だからプリ・プロダクションで力を注いだのは衣装のほうだろう。
歴史を現代の感性で美しく描いた作品だ。石建築の重厚な重々しさ、暗く差し込んでくる光。西洋絵画で見られる光を、しっかり捉えてフィルムの中に封じている。
歴史を題材にし、背景に戦争の影があるが、本質は恋愛映画だ。女王エリザベスの恋愛物語であり、成長の物語だ。
『エリザベス:ゴールデン・エイジ』には二人のエリザベスが登場する。女王エリザベスと、その侍女であるエリザベス(ベス)だ。
二人のエリザベスの関係は、光と影だ。二人は常に一緒にいるし、鏡のように対比する存在として描かれる。
権力を持ったエリザベスと、権力に服従するエリザベス。思い通りになれないエリザベスと、思い通りになるエリザベス。
ウォルター・ローリーの役割は、恋愛の主体であると同時に、この両者の関係を変質させるためにある。
我々はつい物質だけで価値判断してしまいがちだ。確かに王はあらゆる物に満たされているが、しかし自由はない。孤独であるといっていい。常に背後にある国家を意識して行動しなければならないし、どんな決断も先延ばしにできない。罠に陥れて戦争を始めたがる連中もいる。暗殺の恐れもある。ひたすら神経をすり減らしていくだけだろう。王であるためには大きな責任が伴うのだ。
王とは、俗世的な存在ではなく、偶像に近い存在だ。馬鹿げた装飾に、白塗りの面のような顔。女王自身がそんな姿を望んでいるのではない――王という立場を示すために、俗世とは違う存在である証明のために、そんな格好をしているのだ。
王とは、すべての権威の最上部にありながら自由はない。民も側近も、王に人間としたの姿など求めていない。
王とは偶像に過ぎない。王とはある意味で人間ですらない。王とは国家である。王とは大地そのものである。
だから女王エリザベスは、救いたい命も救えず、愛も得られない。人間としての欲求は、王という存在にはふさわしくないからだ。
エリザベスは海賊ローリーに恋心を抱く。しかしエリザベスの恋は決して実現しない。
なぜなら、女王エリザベスは“バージン・クイーン”であるからだ。エリザベス自身で、絶対の処女という象徴的存在を規定した。だから、自らこれに反逆してはならない。だから女王エリザベスは、侍女のベスを通じて、ローリーの愛を得ようとする。自分の代わりにローリーと踊らせ、自分の代わりに愛の言葉を交わす。そのどちらも、女王がする行為としては認められていないからだ。
クライマックスの戦いは、象徴的に描かれる。おそらく、予算の問題が背景にあったのだと思うが、この映画はあくまでもエリザベスの成長の物語。嘔吐しての覚悟を決めるまでの物語だ。国同士の戦いも、エリザベスにとっては精神的な戦いである。兵士のぶつかり合いを中心とした合戦を期待した人はがっかり?
物語は間もなく戦争の影が忍び寄ろうとする。スペイン艦隊が、海峡に迫ってくる。
エリザベス女王は、様々な葛藤を抱き、決断を迫られる。
人間としてではない。女としてでもない。一国を背負う王として。王である立場を自ら受け入れ、民を導く覚悟のために。
そのすべてが達成させられた時にこそ、英雄の時代“ゴールデン・エイジ(黄金時代)”が得られるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:シェカール・カプール
脚本:ウィリアム・ニコルソン マイケル・ハースト
音楽:クレイグ・アームストロング
撮影:レミ・アデファラシン 編集:ジル・ビルコック
出演:ケイト・ブランシェット ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇クライブ・オーエン リス・エヴァンス
〇〇〇ジョルディ・モリャ アビー・コーニッシュ
PR