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■2009/07/07 (Tue)
シリーズアニメ■
懺・さよなら絶望先生 1
ブログをお読みの皆様。お悔やみを申し上げる。
あの『さよなら絶望先生』が再びテレビ放送である。
いったい何を間違ったか、何を血迷ったか。今頃は、プロデューサーも監督も「な~んであれを次回作に選んじゃったかなぁ」と首をひねっているはずである。
ともあれ、『さよなら絶望先生』の画像が電波放送の一部を占拠するわけである。
せっかくなので、そのうっかり流出してしまった画像のひとつひとつを、ありがたく拝見するとしよう。
『落園への道』
原作127話 昭和83年2月13日掲載
原作127話 昭和83年2月13日掲載
言霊の国、日本には考える限りのあらゆる験担ぎがある。
受験を前にすると、この国は験担ぎグッズで氾濫する。だが、必死なのは受験生ではなく、便乗商売に力を注ぐ企業のほうではないか。
そもそも、験担ぎグッズと呼ばれるものは、強引にこじつけたものが多い。「ゥカール」「キットカッツ」「カツ丼」「カツカレー」
むしろ験を担ぐ結果、惨事を招く可能性すらある。
受験で五角(合格)鉛筆を使ったが手に馴染まず回答がうまく書けなかったり、
方角が悪いと方向を変えて受験会場に向かった結果、試験に間に合わなくなったりと、験を担ぐとむしろろくなことがおきない。
験を気にするあまり、時に人は大事なものを見失ってしまう。歪なファッションや習慣を身につけてしまったり、そのうちにも他人にも縁起の悪いものを排除しようと強要を始めてしまったり。
それでも現実世界は、盲目的に言霊の影響に引き摺られていく。糸色望のもとに、ヒステリックに狂ったネオ日教組の手が伸びる。
「絶望先生! 教育の現場にこんな縁起の悪い名前がいるなんて。受験が終るまで監禁させてもらう!」
『春の郵便配達は二度ベルを鳴らす』 原作134話
昭和82年12月27日掲載
昭和82年12月27日掲載
春。それは様々なものが眠りから覚め、芽吹きのときを迎える季節。春を知らせる便りも届く頃である。
春の便りといえば、つくしや鶯である。だが、現実にはそんな穏やかなものが便りとは限らない。
変態やキャッチセールス、倒産のために増えるビルの空きテナント、熟年離婚。
そう、ブラックメールと呼ばれるものも、やはり春の便りなのだ。
そんな駄目な春の便りを前にして、木津千里が言い放つ。
「きちんと、お返事をしないといけません。」
『晒しが丘』 原作103話
昭和82年7月25日掲載
昭和82年7月25日掲載
春の次は、夏のエピソードに時間が飛ぶ。
夏休み。糸色望は宿直室でぼんやりと過ごしていた。都内23区は、23凶なので、どこにも行く気にならない。
そんな糸色望の下に、日塔奈美が旅行案内のチラシを持って現れる。北海道へ(普通に)自分の探しの旅へ行くらしい。
糸色望は、日塔奈美に強く警告する。
「旅先では自分の人間性を何かと晒してしまうのです。自分探しの旅は、自分晒しの旅になってしまうのです!」
旅では、あらゆる人間の本質が暴露されてしまう。
ものすごくルーズであることを晒してしまったり、
自己中心的な性格を晒してしまったり、
ハネムーンが自分晒しの旅となって、成田離婚なんてよくあることである。
引退したジョカトーレ選手は、カメラ引き連れてスラム街でサッカーを興じ、自己顕示欲の強い薄っぺらい人間であることを晒してしまった。
そんな糸色望に、旅行催行者である糸色倫はこう囁く。
「だったら他人が自分を晒すところが見れますよ」
心動かされた糸色望は、日塔奈美と糸色倫と共に自分晒しの旅に出る決心をする。
つづく
第3期の『さよなら絶望先生』はこれまでのシリーズの延長として作られている。
画面のパースティクティブは徹底的に省略され、平面的な側面が強調されている。背景も色彩も、のっぺりとキャラクターの背後に置かれている。
そのかわりに、様々なイメージがコラージュのように重ねあわされる。初期シリーズから採用されていた和紙の質感やボリュームは、より強調的になり、あでやかな装飾が画面いっぱいに幾層にも重ねられていく。
物語スピードは1期と2期の中間くらい。第1回放送では2.5本が放送された。やや中途半端だ。オープニングは例のよって暫定版であろう。完成版を期待したい。
全てのカットに、細かくデジタル処理が加えられるようになったのも特徴の一つである。
色彩は一度漂白され、そのうえでコントラストが増幅されている。技法としては、彩度が50%ほどマイナスし、ライティング補正を調整する。そうすることで、平凡な色彩はぐっと力を増し、滲み出るような陰影が現れるのである。
だが、そういった表現はグラフィックの分野ではありきたりであり、もはや一昔前の表現に過ぎない。
それでも、この技法が注目に値するのは、ようやくアニメが直線的で自然主義的な作画至上主義から一歩進もうという意識にある。
カットの構成などは原作にあわせて描かれている。だが、漫画はコマを並べて画像をレイヤリングしていくメディアである。同じカット構造にすると、どうしても漫画のような充実した画面作りにはなりにくい。『絶望先生』らしい表現の模索は、まだまだ課題が多い。
作画部分は徹底した原作水準に合わせられている。
極端に伸びた首。崩れたデッサン。途切れる身体。何もかもが、原作のカットにあわせた絵のつくりである。
原作の絵画を、一枚のカットに仕上げるために、最低限の追補(動画)が加えられているだけだ。
第1期に見られたような、作り手による脚色、映像世界を広げるパースティクティブなどどこにもない。
どこまで原作に接近し、漫画で感じた印象を増幅させるか。
平面的な絵画にコラージュ的に合成されたイメージ。何もかもが、『さよなら絶望先生』という稀代の絵画表現を再現するために模索され、表現されている。
新房昭之監督は、『化物語』も同時に監督している。監督とはいえ、どこまで制作を請け負うかは、作品によってそれぞれだ。だが二本同時監督は前代未聞。相当、仕事スピードと体力がないと勤まらないはずである。
懸念もある。
今回の『さよなら絶望先生』はテレビ放送である。だから、作り手が自主規制に逃避するのではないか。
原作の魅力は挑発的でディープなネタの数々である。それらが公共性という名の規制に対し、表現の自粛を強いられてしまうのではないか。刺激的な風刺が、平凡で通俗的な“良心”とやらに置き換えられ、薄められてしまうのではないか。
自主規制ほど退屈なものはない。炎上(焼け太り)してこそ『さよなら絶望先生』だ。どうせなら、放送不能でボートの画像が流れるくらいの表現に期待したい。
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作品データ
監督:新房昭之 原作:久米田康治
副監督:龍輪直征 キャラクターデザイン・総作画監督:守岡英行
シリーズ構成:東富那子 チーフ演出:宮本幸裕 総作画監督:山村洋貴
色彩設計:滝沢いづみ 美術監督:飯島寿治 撮影監督:内村祥平
編集:関一彦 音響監督:亀山俊樹 音楽:長谷川智樹
アニメーション制作:シャフト
出演:神谷浩史 野中藍 井上麻里奈 谷井あすか
真田アサミ 小林ゆう 沢城みゆき 後藤邑子
新谷良子 松来未祐 上田耀司 水島大宙
矢島晶子 杉田智和 後藤沙緒里 寺島拓篤