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■2015/07/24 (Fri)
創作小説■
第1章 隻脚の美術鑑定士
前回を読む
夕陽がもっとも強く輝き始める頃で、街の建物が美しく煌き始める。太陽の光がゆったりとくつろいで、夜になる直前の猶予を楽しんでいるようだった。でもそんな風景を楽しむ人は少なく、街は夜の準備を始めようといそいそと家路を急いでいた。
ツグミはしばし黄金色に輝く風景を楽しんで、それから画廊のドアを開けようとスカートの中のポケットを探った。
入口ドアはガラス戸になっていて、アールヌーボー調の唐草模様が描かれていた。画廊が建設されたのはツグミの祖父の代で、その当時は雑誌『明星』などでアールヌーボーが紹介されて流行っていたのだ。
ポケットからキーケースを引っ張り出し、鍵を鍵穴に近づける。が、
――開いている。
一見すると閉まっているように見えるけど、ドアと木枠が僅かに噛みあっていなかった。
まさか、鍵を掛け忘れた? 背中にゾッとくるものがあった。そんな憶えはない。ちゃんと鍵をかけたはずなのに……。
ツグミは動揺する気持で、そっとドアを開けた。どうか誰にも入られていませんように、と祈りながら。
「Closure」の暖簾を掻き上げ、画廊の中を見回す。画廊の中は暗く、夜の影が早くも漂い始めていた。入口から射しこんだ光で、足元だけが黄金色に輝いていた。
動くもののない静寂の風景。しかし、静寂に紛れるように誰かが絵の前に立っていた。
「か、川村さん!」
ツグミは一瞬、ぎょっと胸が掴まれそうになったが、知っている人だとわかってほっとした。でもその反動で思わず大きな声を出してしまい、自分の口を塞いだ。
川村もツグミを振り返った。川村……なんていうのか下の名前は知らない。年齢は多分、20代半ばくらい。この頃、しげしげと画廊を訪ねてくれる客で、本人が言うには絵描きらしい。川村には確かにそんな風格があるし、話してみるとツグミと絵の趣味も合っているので、意気投合とまで行かないまでも話の合うお客さんだった。
川村は背が高く、がっしりした体つきで、多分、鍛えているのだろうと思う。顎にはうっすらと無精髭。髪はざっくりと短く刈り込んでいる。
無頼な風貌だけど、どこかテオドール・ジェリコー(※)のような女性的な端整さが川村にはあり、汚いけど不潔なイメージを感じさせない品性があるように思えた。
「来とったんですか?」
ツグミは動転してみっともないくらいに声が裏返る。
「ああ、ごめん。鍵が掛かっていなかったから、いるんだと思ってね。しばらく絵を見させてもらったよ」
川村は生来、まるで慌てた経験がない、というような穏やかさと静けさが備わっていた。
ツグミにとって、川村は不思議な感じのする青年だった。かっこいいと思うけど、世間受けするような美青年とは違う。どこか修験者のような、力強さと、その力強さを包み込むようなしんとした幽玄さが漂っているように思えた。
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい。家は時々、臨時休業することがあるんですよ」
ツグミは申し訳なさそうに謝り、画廊に入って照明を点けた。画廊の中から夕陽の色が消えて、白色灯の光に包まれた。
※ テオドール・ジェリコー 1791~1824年。古典主義の流れを持つ画家だが、当時の現代社会の描写にこだわった。後のドラクロワやクールベに影響を与える。32歳で早世。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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5
そのままツグミは、岡田に妻鳥画廊の前まで送ってもらった。ツグミはできるだけ感情をこめず、それでいて素っ気なくないよう岡田に感謝を告げて別れた。夕陽がもっとも強く輝き始める頃で、街の建物が美しく煌き始める。太陽の光がゆったりとくつろいで、夜になる直前の猶予を楽しんでいるようだった。でもそんな風景を楽しむ人は少なく、街は夜の準備を始めようといそいそと家路を急いでいた。
ツグミはしばし黄金色に輝く風景を楽しんで、それから画廊のドアを開けようとスカートの中のポケットを探った。
入口ドアはガラス戸になっていて、アールヌーボー調の唐草模様が描かれていた。画廊が建設されたのはツグミの祖父の代で、その当時は雑誌『明星』などでアールヌーボーが紹介されて流行っていたのだ。
ポケットからキーケースを引っ張り出し、鍵を鍵穴に近づける。が、
――開いている。
一見すると閉まっているように見えるけど、ドアと木枠が僅かに噛みあっていなかった。
まさか、鍵を掛け忘れた? 背中にゾッとくるものがあった。そんな憶えはない。ちゃんと鍵をかけたはずなのに……。
ツグミは動揺する気持で、そっとドアを開けた。どうか誰にも入られていませんように、と祈りながら。
「Closure」の暖簾を掻き上げ、画廊の中を見回す。画廊の中は暗く、夜の影が早くも漂い始めていた。入口から射しこんだ光で、足元だけが黄金色に輝いていた。
動くもののない静寂の風景。しかし、静寂に紛れるように誰かが絵の前に立っていた。
「か、川村さん!」
ツグミは一瞬、ぎょっと胸が掴まれそうになったが、知っている人だとわかってほっとした。でもその反動で思わず大きな声を出してしまい、自分の口を塞いだ。
川村もツグミを振り返った。川村……なんていうのか下の名前は知らない。年齢は多分、20代半ばくらい。この頃、しげしげと画廊を訪ねてくれる客で、本人が言うには絵描きらしい。川村には確かにそんな風格があるし、話してみるとツグミと絵の趣味も合っているので、意気投合とまで行かないまでも話の合うお客さんだった。
川村は背が高く、がっしりした体つきで、多分、鍛えているのだろうと思う。顎にはうっすらと無精髭。髪はざっくりと短く刈り込んでいる。
無頼な風貌だけど、どこかテオドール・ジェリコー(※)のような女性的な端整さが川村にはあり、汚いけど不潔なイメージを感じさせない品性があるように思えた。
「来とったんですか?」
ツグミは動転してみっともないくらいに声が裏返る。
「ああ、ごめん。鍵が掛かっていなかったから、いるんだと思ってね。しばらく絵を見させてもらったよ」
川村は生来、まるで慌てた経験がない、というような穏やかさと静けさが備わっていた。
ツグミにとって、川村は不思議な感じのする青年だった。かっこいいと思うけど、世間受けするような美青年とは違う。どこか修験者のような、力強さと、その力強さを包み込むようなしんとした幽玄さが漂っているように思えた。
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい。家は時々、臨時休業することがあるんですよ」
ツグミは申し訳なさそうに謝り、画廊に入って照明を点けた。画廊の中から夕陽の色が消えて、白色灯の光に包まれた。
※ テオドール・ジェリコー 1791~1824年。古典主義の流れを持つ画家だが、当時の現代社会の描写にこだわった。後のドラクロワやクールベに影響を与える。32歳で早世。
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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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