■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2015/07/22 (Wed)
創作小説■
第1章 隻脚の美術鑑定士
前回を読む
「多すぎです。こんなにたくさん、困ります」
ツグミはちょっと慌てた声で封筒を返そうとした。鑑定料は美術品によって相場が変わる。10万円の美術品で鑑定料1万円。50万円の美術品で3万円。それに鑑定証書が2万円。今回の鑑定ではせいぜい6万円といったところだ。
「いやいや、楽しかったからね。またよろしく頼むよ」
山下は機嫌よさそうに笑ってツグミに封筒を握らせた。
ツグミは充分なお礼を言って山下家を後にした。通りに出ると、風の冷たさを感じた。空が高く、夕陽の色が淡く混じりかけている。ぽつぽつと綿のような雲が浮かんでいた。秋なんだな、とふと思う空だった。
歩きながら、ツグミはポケットに入れた封筒が少し後ろめたく思った。儲からない画廊を経営していて、家計はいつも火の車。嬉しい収入なのは間違いないのだけど、やはり後ろめたい気持は心から去ってくれなかった。
しばらくして、背後から車のエンジン音が近付いてきた。ゆっくりとツグミの側で速度を落とす。ツグミはちらと後ろを振り返った。白のワゴン車だ。相当使い込んだらしく、あちこちへこみができていて、銀色の金属面を剥き出しにしていた。
ワゴン車はツグミと並んだところで一度停まり、窓から運転手が顔を出した。岡田だ。
「送ったるで」
岡田は気楽そうに声をかけた。
「いいです」
ツグミはつんと言葉を返して、できる限り早く歩いた。
ワゴン車がゆっくりスタートしてツグミを追いかけた。
「いいから乗れや。電車賃だって、結構かかるんやろ」
岡田は窓から身を乗り出させたまま、器用にハンドルを操る。
ツグミは足を止めて、岡田を振り返った。岡田でさえ、妻鳥家の際どい懐事情を知っている。岡田に説得されるのは癪だけど、節約できるものは節約したかった。
ツグミは車道に出て、ワゴン車の前を横切って助手席に入った。座る姿勢になると、急に気持ちが落ち着く。
車が走り出した。高級住宅街の風景がゆるやかに流れていく。ツグミは何気ない感じに窓の外を眺めた。
ふと、ワンピースふうの白いセーラー服姿の女の子達が目についた。芦屋のお嬢様高校の制服だ。女の子達は楽しげに声を上げて笑っていた。
ツグミは暗い気持ちになって、溜め息をこぼした。
事故に遭ったのは、8つの時だった。左脚に障害が残り、膝から下は今も感覚が戻らない。それなのに時々、火のついたような痛みが体にせり上がってくる。
高校に入る頃になると、見た目を気にするようになった。寒い時期になるとセーラー服の上に丈の長いトレンチコートを羽織って、自分の体を隠すようにした。同じ年頃の女の子はオシャレに夢中なのに、自分は足を引き摺っている。ツグミはそんな自分に劣等感を抱いていた。
助手席の窓に、自分の顔が薄く映っていた。脚の障害に釣られて、背はもう高くならないらしい。そのせいなのか、顔つきもまるっきり子供だった。艶のある長い黒髪。二重の目にきちんと整った小顔。容姿はそれなりに悪くないけど、高校生には見えなかった。残念な話だけど、人が言うには中学生にも見えないという。
「まだ気にしとんのか?」
信号待ちしている時に、岡田が唐突に口を開いた。
「え、何が?」
急に声を掛けられて、変な声を上げてしまった。
「山下のじいちゃんが最後に言ったやろ。『値打ちのないもんは要らん』って、あの台詞や」
信号が青に変わった。車が再び動き出す。
「ああ……」
ツグミはちらと岡田を見て、再び窓の外に目を向けた。車は芦屋の閑静な住宅街を抜けて、6車線の広い通りに出ていた。行き交う車が吐き出すガスが、夕陽の光にきらきらと輝きを散らしている。
「ああいうのはな、モノが本物か贋物かとか本当はどうでもいいんや。高ければ、贋物でも買いよる。結局、札束を飾る代わりに絵やら壷やらを飾っとおだけなんや」
岡田は正面を見ながら、ぼつぼつと不満を続けた。
「そういう市場を形成しているのが美術の業界なんやけどな……。でも安くてありふれてても、ええもんはいくらでもある。値段では計れない思い入れだってあるやろ。見せびらかすためとか、税務署対策のために絵を買っても、絵描きは嬉しくないやろな」
ツグミは窓ガラスに肘を付き、頬杖しながら追従した。岡田からこんな不満が聞けるなんて意外だった。
「ところがな、世の中はそういうふうには見いへん。1000円やと思ったものが100万円やとわかった途端、態度をころっと変えるんや。《日産》が89年に《ビジョン・ヌーベル社》と提携して美術事業に手を出した時、当時の担当者が何て言ったか知っとおか? 『日本人の心を豊かさ』を育てるために外国の美術品を買う、って言うたんや。外国の1億円の絵を見なきゃ、心は豊かにならんのかい。1000円の絵に感動したらあかんのか」
岡田は喋っているうちに次第に調子が乗ってきたのが、言葉に力がこもり始めた。
「でも岡田さん、贋もん売るのは犯罪やで?(※)」
ツグミは岡田の横顔をちらと見ながら、忠告するように言った。贋作と知りつつ売った場合は、詐欺罪に当たる。
岡田は不機嫌な顔を一転させて、愉快そうに笑い声を上げた。
「俺は画商や。鑑定士ちゃう。美術品が贋物やったなんて知らんわ。それに、俺は買い手の品性を試しとんや」
「……本当は知っとおくせに」
岡田の顔が急にいやらしく感じて、目を逸らして口の中でもごもごと不満を漏らした。
※ 本編中にあるように、贋作と知りつつ販売した場合、詐欺罪に当たる。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
前回を読む
4
鑑定が終わり、山下は鑑定料を封筒に入れてツグミに差し出した。ツグミはさっそく封筒を開き、額を確かめた。1万円札が11枚も入っていた。「多すぎです。こんなにたくさん、困ります」
ツグミはちょっと慌てた声で封筒を返そうとした。鑑定料は美術品によって相場が変わる。10万円の美術品で鑑定料1万円。50万円の美術品で3万円。それに鑑定証書が2万円。今回の鑑定ではせいぜい6万円といったところだ。
「いやいや、楽しかったからね。またよろしく頼むよ」
山下は機嫌よさそうに笑ってツグミに封筒を握らせた。
ツグミは充分なお礼を言って山下家を後にした。通りに出ると、風の冷たさを感じた。空が高く、夕陽の色が淡く混じりかけている。ぽつぽつと綿のような雲が浮かんでいた。秋なんだな、とふと思う空だった。
歩きながら、ツグミはポケットに入れた封筒が少し後ろめたく思った。儲からない画廊を経営していて、家計はいつも火の車。嬉しい収入なのは間違いないのだけど、やはり後ろめたい気持は心から去ってくれなかった。
しばらくして、背後から車のエンジン音が近付いてきた。ゆっくりとツグミの側で速度を落とす。ツグミはちらと後ろを振り返った。白のワゴン車だ。相当使い込んだらしく、あちこちへこみができていて、銀色の金属面を剥き出しにしていた。
ワゴン車はツグミと並んだところで一度停まり、窓から運転手が顔を出した。岡田だ。
「送ったるで」
岡田は気楽そうに声をかけた。
「いいです」
ツグミはつんと言葉を返して、できる限り早く歩いた。
ワゴン車がゆっくりスタートしてツグミを追いかけた。
「いいから乗れや。電車賃だって、結構かかるんやろ」
岡田は窓から身を乗り出させたまま、器用にハンドルを操る。
ツグミは足を止めて、岡田を振り返った。岡田でさえ、妻鳥家の際どい懐事情を知っている。岡田に説得されるのは癪だけど、節約できるものは節約したかった。
ツグミは車道に出て、ワゴン車の前を横切って助手席に入った。座る姿勢になると、急に気持ちが落ち着く。
車が走り出した。高級住宅街の風景がゆるやかに流れていく。ツグミは何気ない感じに窓の外を眺めた。
ふと、ワンピースふうの白いセーラー服姿の女の子達が目についた。芦屋のお嬢様高校の制服だ。女の子達は楽しげに声を上げて笑っていた。
ツグミは暗い気持ちになって、溜め息をこぼした。
事故に遭ったのは、8つの時だった。左脚に障害が残り、膝から下は今も感覚が戻らない。それなのに時々、火のついたような痛みが体にせり上がってくる。
高校に入る頃になると、見た目を気にするようになった。寒い時期になるとセーラー服の上に丈の長いトレンチコートを羽織って、自分の体を隠すようにした。同じ年頃の女の子はオシャレに夢中なのに、自分は足を引き摺っている。ツグミはそんな自分に劣等感を抱いていた。
助手席の窓に、自分の顔が薄く映っていた。脚の障害に釣られて、背はもう高くならないらしい。そのせいなのか、顔つきもまるっきり子供だった。艶のある長い黒髪。二重の目にきちんと整った小顔。容姿はそれなりに悪くないけど、高校生には見えなかった。残念な話だけど、人が言うには中学生にも見えないという。
「まだ気にしとんのか?」
信号待ちしている時に、岡田が唐突に口を開いた。
「え、何が?」
急に声を掛けられて、変な声を上げてしまった。
「山下のじいちゃんが最後に言ったやろ。『値打ちのないもんは要らん』って、あの台詞や」
信号が青に変わった。車が再び動き出す。
「ああ……」
ツグミはちらと岡田を見て、再び窓の外に目を向けた。車は芦屋の閑静な住宅街を抜けて、6車線の広い通りに出ていた。行き交う車が吐き出すガスが、夕陽の光にきらきらと輝きを散らしている。
「ああいうのはな、モノが本物か贋物かとか本当はどうでもいいんや。高ければ、贋物でも買いよる。結局、札束を飾る代わりに絵やら壷やらを飾っとおだけなんや」
岡田は正面を見ながら、ぼつぼつと不満を続けた。
「そういう市場を形成しているのが美術の業界なんやけどな……。でも安くてありふれてても、ええもんはいくらでもある。値段では計れない思い入れだってあるやろ。見せびらかすためとか、税務署対策のために絵を買っても、絵描きは嬉しくないやろな」
ツグミは窓ガラスに肘を付き、頬杖しながら追従した。岡田からこんな不満が聞けるなんて意外だった。
「ところがな、世の中はそういうふうには見いへん。1000円やと思ったものが100万円やとわかった途端、態度をころっと変えるんや。《日産》が89年に《ビジョン・ヌーベル社》と提携して美術事業に手を出した時、当時の担当者が何て言ったか知っとおか? 『日本人の心を豊かさ』を育てるために外国の美術品を買う、って言うたんや。外国の1億円の絵を見なきゃ、心は豊かにならんのかい。1000円の絵に感動したらあかんのか」
岡田は喋っているうちに次第に調子が乗ってきたのが、言葉に力がこもり始めた。
「でも岡田さん、贋もん売るのは犯罪やで?(※)」
ツグミは岡田の横顔をちらと見ながら、忠告するように言った。贋作と知りつつ売った場合は、詐欺罪に当たる。
岡田は不機嫌な顔を一転させて、愉快そうに笑い声を上げた。
「俺は画商や。鑑定士ちゃう。美術品が贋物やったなんて知らんわ。それに、俺は買い手の品性を試しとんや」
「……本当は知っとおくせに」
岡田の顔が急にいやらしく感じて、目を逸らして口の中でもごもごと不満を漏らした。
※ 本編中にあるように、贋作と知りつつ販売した場合、詐欺罪に当たる。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
PR