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■2015/07/20 (Mon)
創作小説■
第1章 隻脚の美術鑑定士
前回を読む
「絵はこれだけやないんやで。次はこれや」
岡田は次なる箱を差し出し、蓋を開けた。現れたのは台紙に包まれた厚手の紙だった。岡田はそれを畳の上に並べる。
版画だ。全部で8枚。大胆で荒々しいタッチ。凄まじいまでの極彩色。見る者を圧倒するような迫力を持ちながら、描かれるモチーフは静の極地である観音と菩薩であった。作者は棟方志功(※)だ。
山下が「おお」と歓声を上げて身を乗り出した。そこそこの美術好きにはたまらない品だ。
しかしツグミは、一目ちらっと見るだけで充分だった。
「7枚が贋物です。本物は1枚だけです」
ツグミは淡々と、いきなり結論を下した。
「どういうことや?」
岡田も山下も同時に身を乗り出した。ツグミはまず、ずらりと並べられた棟方版画の右端を示した。
「右から3点。棟方志功も紙にこだわる人でした。いつも好んで使っていたのは出雲産紙でした。でも、これはいい紙ですけど美農産紙です。棟方が使っていた紙じゃありません」
決定的だったらしく、山下が「うん」と唸った。
8枚の版画はいずれも紙の色、質感が違っていた。色の白いもの、黄色に変色しているもの、全部ばらばらだった。
「それなら残りの5枚はどうや。どれも出雲産紙やろ。なら本物やないか?」
岡田も負けじと食い下がる。
「確かに出雲産紙です。でも、次の2点も明らかに棟方志功ではありません。絵が違います。線に勢いはないし、仏さんが太っているように見えます。色に煌びやかさがない。特におかしいのは、サインです。これは、本物の棟方の倍もあります。こんなでかいサインを描く画家がどこにいますか」
ツグミは贋物の欠点をずばずばと並べた。
問題の2枚は線が1点にまとまらず、ふわふわとしている。色についてもけばけばしているだけ。極彩色とはいうより、汚いという評するほうがぴったりだった。
それにサインが大きすぎだった。観音の胸の下、でかでかと絵の下半分を覆っていた。
そう指摘されると、山下老人の目から急速に輝きが失われていった。もう「贋作を見る目」になっていた。
「ほう。それじゃ、あとの3枚はどうや。贋物はあと2枚やと言うとったな」
突きつけるように、岡田はツグミの前に残りの3枚を示した。
「あとの2枚、これとこれが贋物です」
ツグミは3枚の版画の右と左を示した。
「根拠はなんや」
岡田が口調をきつくして問い詰める。
「岡田さんも本当はわかってますでしょ? 絵の左下。何か削ったような跡があるの」
ツグミは岡田の目を真直ぐに見て指摘した。岡田の目が、うっと歪んだ。その瞬間を見逃すまいと見詰めた。
「確かに、左下に何か……『えくらん……』なんとか、とか?」
山下が問題の箇所をじっと覗き込んだ。絵の左下の余白部分、そこだけ紙が削れたように荒れて、繊維にうっすらと何かの跡が残されていた。
「《えくらん社》と書かれてあるんです。昭和33年。棟方は《えくらん社》の要望で『棟方志功版画柵』を刊行することになりました。このとき棟方が同意したのは300部まで。でも《えくらん社》は儲けを増やそうと7000枚もの版画を摺ってしまった。警察が後に回収できたのは5300枚。1000枚以上が未回収のまま放り出されてしまいました。岡田さん、これは確かに本物として作られたものやけど、遺族に返さなあかんやつやで」
ツグミは丁寧な調子で説明しつつ、確実に決めた。場の空気は完全にツグミが制していた。あとはジャッジの審判を待つだけだった。
「……わしの負けや。嬢ちゃん、よくやったで」
岡田が負けを認めた。しかし「お遊戯はもうおしまいですよ」というみたいに笑った。ツグミは肩透かしを食らった気分で、熱くなりすぎていた自分が急に恥ずかしくなってしまった。
美術鑑定が終わり、緊張した空気はさらさらと溶けて和室特有の和やかさが戻ってきた。女中たちがやってきて、廊下と反対側の障子が全開になった。狭い空間に松の木と庭石を密集させた日本庭園が、夕日の光の中で煌きはじめていた。
「本物は結局、これ1枚だけなんやな。うん、確かに棟方志功や。やっぱり本物は違うなぁ」
山下老人は棟方志功の版画を手にとって、「うんうん」と何度も頷いた。
「50万円でどうでしょう。真画なんやから嬢ちゃんも文句ないやろう」
岡田は早くも商売人に戻っていた。山下は「うん、安いね」と満足気だった。贋作が多く、本物が掘り出されても100万円を越える棟方が50万円だから確かに良心的だ。
「山下さん、他の作品はどうですか。《えくらん社》の棟方はさて置き、コピー品も愛嬌があっていいもんですよ。1枚2000円くらいなら妥当なお値段です」
ツグミは岡田の後を継ぐようにお勧めしてみた。
しかし山下は、急につまらなそうな目をしてツグミを見た。
「妻鳥さん、それは違うわ。わしは値を張るお宝がほしいんや。それだけしか価値がないんやったら、わし、要らん」
山下の表情に急に成金特有の卑しさが浮かぶような気がした。ツグミは自分の発言が気まずくなって、うつむき黙ってしまった。
※ 棟方志功 1903~1975年。版画家。荒々しい彫りと極彩色で印象を残す。「わだはゴッホになる」という台詞が有名。
次を読む
目次
物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
前回を読む
3
ツグミはふと緊張が解けて息をついた。でも岡田はまだ箱をもう1つ用意していた。ツグミは改めて気持ちを緊張させた。「絵はこれだけやないんやで。次はこれや」
岡田は次なる箱を差し出し、蓋を開けた。現れたのは台紙に包まれた厚手の紙だった。岡田はそれを畳の上に並べる。
版画だ。全部で8枚。大胆で荒々しいタッチ。凄まじいまでの極彩色。見る者を圧倒するような迫力を持ちながら、描かれるモチーフは静の極地である観音と菩薩であった。作者は棟方志功(※)だ。
山下が「おお」と歓声を上げて身を乗り出した。そこそこの美術好きにはたまらない品だ。
しかしツグミは、一目ちらっと見るだけで充分だった。
「7枚が贋物です。本物は1枚だけです」
ツグミは淡々と、いきなり結論を下した。
「どういうことや?」
岡田も山下も同時に身を乗り出した。ツグミはまず、ずらりと並べられた棟方版画の右端を示した。
「右から3点。棟方志功も紙にこだわる人でした。いつも好んで使っていたのは出雲産紙でした。でも、これはいい紙ですけど美農産紙です。棟方が使っていた紙じゃありません」
決定的だったらしく、山下が「うん」と唸った。
8枚の版画はいずれも紙の色、質感が違っていた。色の白いもの、黄色に変色しているもの、全部ばらばらだった。
「それなら残りの5枚はどうや。どれも出雲産紙やろ。なら本物やないか?」
岡田も負けじと食い下がる。
「確かに出雲産紙です。でも、次の2点も明らかに棟方志功ではありません。絵が違います。線に勢いはないし、仏さんが太っているように見えます。色に煌びやかさがない。特におかしいのは、サインです。これは、本物の棟方の倍もあります。こんなでかいサインを描く画家がどこにいますか」
ツグミは贋物の欠点をずばずばと並べた。
問題の2枚は線が1点にまとまらず、ふわふわとしている。色についてもけばけばしているだけ。極彩色とはいうより、汚いという評するほうがぴったりだった。
それにサインが大きすぎだった。観音の胸の下、でかでかと絵の下半分を覆っていた。
そう指摘されると、山下老人の目から急速に輝きが失われていった。もう「贋作を見る目」になっていた。
「ほう。それじゃ、あとの3枚はどうや。贋物はあと2枚やと言うとったな」
突きつけるように、岡田はツグミの前に残りの3枚を示した。
「あとの2枚、これとこれが贋物です」
ツグミは3枚の版画の右と左を示した。
「根拠はなんや」
岡田が口調をきつくして問い詰める。
「岡田さんも本当はわかってますでしょ? 絵の左下。何か削ったような跡があるの」
ツグミは岡田の目を真直ぐに見て指摘した。岡田の目が、うっと歪んだ。その瞬間を見逃すまいと見詰めた。
「確かに、左下に何か……『えくらん……』なんとか、とか?」
山下が問題の箇所をじっと覗き込んだ。絵の左下の余白部分、そこだけ紙が削れたように荒れて、繊維にうっすらと何かの跡が残されていた。
「《えくらん社》と書かれてあるんです。昭和33年。棟方は《えくらん社》の要望で『棟方志功版画柵』を刊行することになりました。このとき棟方が同意したのは300部まで。でも《えくらん社》は儲けを増やそうと7000枚もの版画を摺ってしまった。警察が後に回収できたのは5300枚。1000枚以上が未回収のまま放り出されてしまいました。岡田さん、これは確かに本物として作られたものやけど、遺族に返さなあかんやつやで」
ツグミは丁寧な調子で説明しつつ、確実に決めた。場の空気は完全にツグミが制していた。あとはジャッジの審判を待つだけだった。
「……わしの負けや。嬢ちゃん、よくやったで」
岡田が負けを認めた。しかし「お遊戯はもうおしまいですよ」というみたいに笑った。ツグミは肩透かしを食らった気分で、熱くなりすぎていた自分が急に恥ずかしくなってしまった。
美術鑑定が終わり、緊張した空気はさらさらと溶けて和室特有の和やかさが戻ってきた。女中たちがやってきて、廊下と反対側の障子が全開になった。狭い空間に松の木と庭石を密集させた日本庭園が、夕日の光の中で煌きはじめていた。
「本物は結局、これ1枚だけなんやな。うん、確かに棟方志功や。やっぱり本物は違うなぁ」
山下老人は棟方志功の版画を手にとって、「うんうん」と何度も頷いた。
「50万円でどうでしょう。真画なんやから嬢ちゃんも文句ないやろう」
岡田は早くも商売人に戻っていた。山下は「うん、安いね」と満足気だった。贋作が多く、本物が掘り出されても100万円を越える棟方が50万円だから確かに良心的だ。
「山下さん、他の作品はどうですか。《えくらん社》の棟方はさて置き、コピー品も愛嬌があっていいもんですよ。1枚2000円くらいなら妥当なお値段です」
ツグミは岡田の後を継ぐようにお勧めしてみた。
しかし山下は、急につまらなそうな目をしてツグミを見た。
「妻鳥さん、それは違うわ。わしは値を張るお宝がほしいんや。それだけしか価値がないんやったら、わし、要らん」
山下の表情に急に成金特有の卑しさが浮かぶような気がした。ツグミは自分の発言が気まずくなって、うつむき黙ってしまった。
※ 棟方志功 1903~1975年。版画家。荒々しい彫りと極彩色で印象を残す。「わだはゴッホになる」という台詞が有名。
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目次
物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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