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■2015/07/16 (Thu)
創作小説■
第1章 隻脚の美術鑑定士
暗い森の奥で、金色の光が射し込んでいた。光はきらきらと周囲に散って、緑の苔に覆われた幹をかすかに浮かび上がらせていた。
夜の宴は始まっていた。妖精たちが集り、うっとりとした恍惚を浮かべて光の中を漂っていた。
そこは人の住いから遠く離れた場所だった。人間の言葉も鉄の文明も知らず、草むらには靴の跡もなかった。獣たちは原始の時代から姿を変えず、永遠の神秘の中を今も漂っていた。宴が永遠に続く場所だった。
突然に、電話が鳴った。
「ヒィ!」
妻鳥ツグミは思わす声を上げてしまった。ぱたぱたと周囲を見回す。画廊に誰もいないのが幸いだった。ほっと胸に手を当てて溜め息をこぼす。
夢から突然はっと目覚めた時のように、現実世界を確かめる。学校から帰ってきたばかりで、セーラー服姿のままだった。画廊に置かれた白い円テーブルの椅子に座って、それきり絵の世界に没頭していたのだ。
電話は事務用品を入れた小さな棚の上で、遠慮なく鳴り続けている。ツグミは夢の中の気分を少し引き摺りつつ、杖を手にして左脚をかばうように立ち上がった。受話器に手を置いて、一度深呼吸をした。
「はい、妻鳥画廊です」
気持ちをスッと入れ替えて、事務的な声で応対した。
妻鳥画廊。兵庫区の古い趣を残す街並みに、ひっそりたたずむ画廊だ。それなりに歴史なり由緒なりのある場所だったが、今は訪ねる人もほとんどいない。展示している絵も僅かに数点だけだった。
「芦屋の山下ですぅ。美術鑑定を依頼したいんですけどぉ」
おっとりと間延びするような感じの女性の声が聞こえた。言葉は丁寧だけど、神戸訛だ。
ああ、山下さん……。芦屋の高級住宅街に住んでいる美術好き。電話してきたのは常駐の女中で、ツグミにとって馴染みのある声に喋り方だった。
「わかりました。30分ほどでそちらに行きますとお伝えください」
ツグミはいつものフレーズを口にしつつ、壁の時計に目を向けた。3時半を少し過ぎた頃だった。芦屋に到着する頃には4時頃だろう、と簡単に計算した。
女中は「はい、おまちしておりますぅ」とおっとりした調子で言い、丁寧に電話を切った。
ツグミも受話器を置いた。椅子に掛けてあった丈の長いトレンチコートを羽織って、襟元に入った髪をすくい上げた。忘れものはないかな、とちょっと自分の体を見て確かめた。大丈夫そうだ。
照明を落とし、「Closure」と書かれた緑の暖簾を入口のガラス扉に掛ける。ガラス扉全体が隠れる、大きな暖簾だ。
出発の前に一度画廊の中を振り返った。誰もいない6畳ほどの小さな空間。暗くなりかける光に、壁の白が淡く浮かんでいた。画廊には接客用の円テーブルと、簡単な事務用品を入れた棚が置かれているだけだった。
静かで誰もいない画廊。壁に掛けた絵が、ささやかな存在感を放っていた。まるで目を離した隙に動き始めるような、そんな生命感が絵に宿っているように思えた。
「行って来ます」
ツグミは壁に掛けられた絵に挨拶をして、そっとドアを閉めた。
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目次
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暗い森の奥で、金色の光が射し込んでいた。光はきらきらと周囲に散って、緑の苔に覆われた幹をかすかに浮かび上がらせていた。
夜の宴は始まっていた。妖精たちが集り、うっとりとした恍惚を浮かべて光の中を漂っていた。
そこは人の住いから遠く離れた場所だった。人間の言葉も鉄の文明も知らず、草むらには靴の跡もなかった。獣たちは原始の時代から姿を変えず、永遠の神秘の中を今も漂っていた。宴が永遠に続く場所だった。
突然に、電話が鳴った。
「ヒィ!」
妻鳥ツグミは思わす声を上げてしまった。ぱたぱたと周囲を見回す。画廊に誰もいないのが幸いだった。ほっと胸に手を当てて溜め息をこぼす。
夢から突然はっと目覚めた時のように、現実世界を確かめる。学校から帰ってきたばかりで、セーラー服姿のままだった。画廊に置かれた白い円テーブルの椅子に座って、それきり絵の世界に没頭していたのだ。
電話は事務用品を入れた小さな棚の上で、遠慮なく鳴り続けている。ツグミは夢の中の気分を少し引き摺りつつ、杖を手にして左脚をかばうように立ち上がった。受話器に手を置いて、一度深呼吸をした。
「はい、妻鳥画廊です」
気持ちをスッと入れ替えて、事務的な声で応対した。
妻鳥画廊。兵庫区の古い趣を残す街並みに、ひっそりたたずむ画廊だ。それなりに歴史なり由緒なりのある場所だったが、今は訪ねる人もほとんどいない。展示している絵も僅かに数点だけだった。
「芦屋の山下ですぅ。美術鑑定を依頼したいんですけどぉ」
おっとりと間延びするような感じの女性の声が聞こえた。言葉は丁寧だけど、神戸訛だ。
ああ、山下さん……。芦屋の高級住宅街に住んでいる美術好き。電話してきたのは常駐の女中で、ツグミにとって馴染みのある声に喋り方だった。
「わかりました。30分ほどでそちらに行きますとお伝えください」
ツグミはいつものフレーズを口にしつつ、壁の時計に目を向けた。3時半を少し過ぎた頃だった。芦屋に到着する頃には4時頃だろう、と簡単に計算した。
女中は「はい、おまちしておりますぅ」とおっとりした調子で言い、丁寧に電話を切った。
ツグミも受話器を置いた。椅子に掛けてあった丈の長いトレンチコートを羽織って、襟元に入った髪をすくい上げた。忘れものはないかな、とちょっと自分の体を見て確かめた。大丈夫そうだ。
照明を落とし、「Closure」と書かれた緑の暖簾を入口のガラス扉に掛ける。ガラス扉全体が隠れる、大きな暖簾だ。
出発の前に一度画廊の中を振り返った。誰もいない6畳ほどの小さな空間。暗くなりかける光に、壁の白が淡く浮かんでいた。画廊には接客用の円テーブルと、簡単な事務用品を入れた棚が置かれているだけだった。
静かで誰もいない画廊。壁に掛けた絵が、ささやかな存在感を放っていた。まるで目を離した隙に動き始めるような、そんな生命感が絵に宿っているように思えた。
「行って来ます」
ツグミは壁に掛けられた絵に挨拶をして、そっとドアを閉めた。
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