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■2015/07/28 (Tue)
創作小説■
第1章 隻脚の美術鑑定士
前回を読む
7
「感想を聞きたいな」川村がツグミの側にそっと耳を寄せて囁いた。
ツグミは思わず悲鳴を漏らして川村を振り向いた。それから、みっともなさを取り繕うようにうつむいた。
「あの、ごめんなさい。えっと、これはチェンバロ?」
動転してしまったのか、絵を指さしながらどうでもいいことを訊ねてしまっていた。
「うん、そうだよ」
川村は軽く微笑んで、杖を拾ってツグミに差し出した。
絵の左隅のほう、影に覆われた部分に、絨毯が被せられ、本が大量に積み上げられた何かが置かれていた。ツグミはちらと僅かに見えた脚で、チェンバロだと気付いたのだ。
「それじゃ、その、ぜひ家で取り扱わせてください。いま契約書を持ってきますね」
ツグミは川村から杖を受け取り、恥ずかしい気持ちをごまかすように早口に言った。
胸のドキドキがどうしようもなく高鳴っていた。きっと顔を真っ赤にしているに違いない、と思うと川村を真直ぐに見られなかった。
ツグミは逃げ出すような気持で電話棚に向かい、引き出しから契約書を1枚引っ張り出した。契約書とは名ばかりで、単に氏名、住所、電話番号の書く欄のある事務伝票だった。
川村にテーブルに着くように勧めて、自分も椅子に座り契約書とボールペンを差し出した。川村がさらさらと契約書に文字を書き始める。
『氏名=川村修治 住所=神戸市垂水区…… 電話番号=6092―7824』
ツグミは川村の手の動きをじっと眺めた。そうか、修治さんって言うんや……。川村はなかなかの達筆だった。
川村はすぐに契約書を書き終えて、ツグミに差し出した。ツグミは日付と担当者名を書き込み、それから、おや、と気付いた。
「電話番号、ちょっと短いですよ」
電話番号は8桁までしか書かれていなかった。
「本当に? そうだな、じゃあ、零を2つ……」
川村は契約書を引き戻し、電話番号の後ろに零を2つ書き足した。
それからツグミは「ちょっと待っとってくださいね」と席を立ち、再び棚に向かった。
下から2番目の抽斗。そこに、小さなダイヤル式の金庫が収まっていた。レジはないから、この金庫に金を入れていた。ダイヤルを回し、金庫を開ける。中を覗きこんでみて、あっとなった。たったの2000円しか入ってなかった。
どうしよう。と思ったその時、ポケットに入れられた11万円を思い出した。ツグミは川村に気取られないように、ポケットの中の封筒をそっと引っ張り出した。中のお札を抜き取り、《妻鳥画廊》の印の入った封筒に移し変える。
その作業が終わると、ツグミは何でもない微笑みを取り繕って、川村の前に進んだ。川村は席を立って、ツグミを待っていた。
「ありがとうございます。これが絵の買い取り料です。絵が売れたら、半分が川村さんの分になります。ちょっと少ないと思うけど、どうぞ」
ツグミは丁寧に言って、封筒を差し出した。
しかし川村は封筒を受け取らなかった。ツグミの掌を優しく包み込み、封筒を引き戻した。
「あ、あの……」
ツグミは困惑して川村を見上げた。
「これは君のポケットに入っていたお金だろ。いいよ。お金は絵が売れてからでいい」
静かに諭すようだった。
川村の優しさが返ってつらくて、ツグミは憂鬱な気持ちになって目を封筒に落とした。
「……家でいいんですか。こんな立派な絵、本当に家なんかでいいんですか?」
ツグミは思い切って口にしてみた。川村の絵があまりにも素晴らしくて、後ろめたく思ってしまった。不相応。自分の胸の中で、自分ではない誰かが非難するように思えた。
川村は迷いなく頷いた。
「ここだからいいんだよ。君を信じてるから」
川村の言葉が、すっとツグミの気持に流れ込んでくるようだった。ツグミはこれまでになく胸が熱くなって、川村の顔をただただじっと見詰めてしまっていた。恥ずかしいという気持も、今のツグミの胸には入る余地がなかった。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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