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■2016/05/22 (Sun)
創作小説■
第6章 イコノロギア
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13
光太が川村と出遭ったのは、1997年の秋だった。当時の光太は、熱心に画壇に作品を応募していた。もちろん、アニメの仕事をこなしながらだ。
光太はすでに特選を受けるようになっていたが、しかしそこから先に進めずあがいていた。光太もそそろそろ画壇の「裏のシステム」の気付き始めていて、やめようか、と考えていた頃だった。
裏のシステム、とは画壇では、独力での出世がほとんど不可能だというあれだった。どこかしらの有名な先生の弟子に入り、その先生が画壇で勢力を持たねば、弟子も出世できないという裏の仕組みだ。ある程度以上を目指そうと思えば、作品よりも出世の見込みのある先生を見出す方法を考えねばならなかった。政治性と人脈がものを言う世界だった。
そんな時に、光太は1枚の絵に出遭った。
絵はどこの風景なのかわからない。雲海に、ごつごつとした岩の柱が、何本も突き出していた。岩の柱に男が背を向けて、1人で立っていた。空は赤く染まりかけて、どこか哀しげだった。
目を惹く絵だった。技術的に優れているだけではなく、どこか心を捉えて、離れがたい気持ちにさせる存在感があった。
だが案の定、画壇はその絵画を一切、評しなかった。落選だった。画壇の最上権威は、未だに20世紀初頭の印象派絵画であり、評されるのは印象派初頭風を物真似した絵ばかり。古典主義的な厳格さと静謐さを湛えたその絵に、注意を向ける者はいなかった。それに、どの画家にも師事していない“馬の骨”であることがマイナスになった。
光太だけが直感していた。「天才が現れた!」と。その絵を描いたのが、川村鴒爾だった。
光太はすぐに絵を描いた本人を探し出して会ってみたが、そこでまた驚いた。川村鴒爾は、まだ16歳の少年だった。
「凄い奴がいるって、思ったな。でも川村は貧乏な奴でな。その時の絵も、絵具は借り物。キャンバスはゴミ捨て場から拾ってきたものだった。学校にも行っとらん。生活に追われて、絵を発表するのは今回限りって言うんや。俺はこいつは放っておけん。それに、画壇に絵を出しとったら駄目になる。今の画壇は大家に弟子入りせんと、無鑑査に上がれん。大家に弟子入りするには、金を包まんとあかん。俺もようやく画壇の仕組みがわかってきた頃やったからな。こいつは、俺が面倒見て、育ててやらなあかんと思ったんや」
光太は川村との出会いを、生き生きと語った。光太にとって川村との思い出は、今でも誇らしい記憶のようだった。
こうして光太は川村を引き取り、自分の家に住まわせて育てる決意を決めた。
光太は当時自分が住んでいた、杉並区のアパートに川村を同居させた。このアパートで、川村の衣食住の全ての面倒を見た。まだ頼子と結婚する前の話である。
それから、川村に「絶対に修行になる」とアニメの背景を描かせた。
アニメは基本的にあらゆるものが描けなければならない。それは、あらゆるものを描く機会がある、ともいえた。
絵の修行は、とにかく多くデッサンをこなす以外にない。どんな優れた美術家も、デッサンしてみない限りは、キャンバスの中に取り込めない。アニメはそうしたデッサンの機会を、充分に得られる職業であった。
川村は、光太の期待にこれ以上ないくらいに応えてくれた。川村の描く背景は、どの美術スタッフが描くものより優れていたし、スピードも早かった。パースが狂いは一切なかったし、光の捉え方も正確で、キャラクターと合わせると、作品のクオリティが1段2段上がって見えるように思えるくらいだった。まだ若くて仕事全体を把握していないところがあるが、いずれは美術監督に据えたい人材だった。
「あの、それじゃ、叔父さんに引き取られる前って、川村さん、どこで、どんな暮らしをしていたんですか?」
ツグミは話の腰を折って、訊ねた。せっかくだから、川村の来歴が知りたかった。どこで生まれて、どんな両親の許に育ったのだろう。
すると、光太は急に眉間に深い皺を寄せた。
「そういえば、あいつの古里は知らんな……。貧乏で次の画壇には出せないっていうのは聞いたけど。具体的にどこでどんな暮らしをしていたかって、そういう話は、一度もやらなかったな」
光太は、記憶を探るようにしたが、最後には首を捻って、諦めてしまった。
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目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです
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