春。卯月。
桜が花びらを散らせる季節。キョン(名称不明)は高校に入学し、新たな学園生活を送ろうとしている。
しかし、キョンの目線は暗い。
風景はモノトーンに沈み、周囲は無機質なコンクリートの塊が積み上げられている。
高校に上がっても、結局はただの日常が延長されるだけ。
そんなのはわかっている。
退屈な毎日が繰り返されるだけだ、と。
だが、突然にキョンの日常は、ビビッドな色彩を帯びるようになる。
涼宮ハルヒの登場によって。
冒頭の場面。キュンを取り囲む現実風景を強調的に描かれている。次のセルを中心とする展開と比較すると、非常に対照的。
「ただの人間には興味はありません。この中に、宇宙人、未来人、異星人、超能力者がいたら、私のところに来なさい。以上!」
涼宮ハルヒは、条理的な社会に対し、徹底的な反抗と異議申し立てをする。
涼宮ハルヒは、中学生時代でも様々な奇行を繰り返し、
毎日目まぐるしく変化する髪型が、キョンによって説明される。
涼宮ハルヒは日常の破壊者であり、非日常への案内人だ。
アニメの冒頭では、涼宮ハルヒの髪型は長い。瞳の力が強く、常に斜めをむいている眉が、ハルヒの意志力の強さを物語っている。キャラクター等身は現実的だが、顔の構成はむしろマスコット・キャラクターに見られるパターンが踏襲されている。
我々の社会は、異端を排除し、想定されない事故に目を向けないことで成り立っている。
この世には、常識しかない、と大人は子供に教える。
特別なことは決して起きないし、あなたたちから特別な事件は決して起きない、と。
現代人の多くはそう信仰しているし、キョンもまた常識の信者だ。
涼宮ハルヒは、そんな常識世界からを拒絶し、脱構築を試みる。
映像の大部分がハルヒのクローズアップで占められる。キョンの意識が、涼宮ハルヒに集中している様子を見せている。
涼宮ハルヒは圧倒的エネルギーを持って、行動を要求しない社会に対して、活動を開始する。
高度に発達した官僚的社会は、現代の少年少女に何を与えたか。
豊かさか?
いや、退屈と憂鬱だ。
涼宮ハルヒは優れた身体、頭脳、イマジネーション(おまけに美少女だ)をもてあますかのように、社会に対して異議申し立てをする。
物語の舞台は学校であるが、学校こそ堅牢なるパースティクティブに覆われた場所だ。
だが、涼宮ハルヒは圧倒的な行動力を持って、現実的なパースティクティブからの超越をはかる。
それは、“世界”への挑戦だ。
ハルヒの行動は突飛だし強引だし、しばしば周囲に被害をもたらすが、陰湿さそのものはない。いわゆる虞犯行為もなく、社会に対する強烈な反抗心を持っているがエンコーやドラッグといった方向には知らないのは、作り手の意識の高さによるものだろう。むしろ、ハルヒの逸脱した快活さが強調され、見る側は単純にハルヒの奇行を楽しめばよい作りになっている。
物語はほとんどがキョンのモノローグで進行する。
キョンのモノローグの大部分は言葉として発せられない。
しかしキョンのモノローグは、物語の進行役として、声なき突っ込み役として、物語に心地よいリズムを与えている。
ハルヒの愉快な仲間たち。キャラクターはどれも造りが独創的で、登場に至るエピソードは秀逸だ。原作者:谷川流の才能の高さが窺える。
背景にあると思わせる設定の仄めかし方も、見事としか言いようがない。
キョンは、条理世界の申し子でもある。
キョンはサンタクロースを信じず、超能力も宇宙人を信じない。
物語は涼宮ハルヒという不条理的飛躍と、キョンの堅牢な条理とを延々交差させ続ける。
だが物語を覆う世界は、学園生活という地点からさほどの逸脱を見せない。
涼宮ハルヒがいかに超絶的な発想を見せようとも、周辺に個性的で「いわゆる一つの萌え要素」を登載したキャラクターを配しようとも、むしろ日常の拘束力は絶対的な強力さを持って涼宮ハルヒを捉える。
結局は、規範に従った、ありがちな学園ものに終始するわけだ。
そんな世界構造も、少しずつ、日常は侵食し始める。
キョンが信仰し続けた常識世界は、じわりじわりと崩壊の兆しを見せる。
作品データ
超監督:涼宮ハルヒ
監督:石原立也 原作:谷川流
キャラクター原案:いとういのぢ
キャラクターデザイン・総作画監督:池田晶子
音楽:神前暁 美術監督:田村せいき 色彩設定:石田奈央美
シリーズ演出:山本寛
出演:杉田智和 平野綾 茅原実里 後藤邑子
白石稔 松本恵 桑原夏子 柳沢栄治