裏山の広場に、のび太は寝転がっていた。
傍らには、0点のテスト用紙。
「あ~あ、どうしようっかな……」
唐突に、風が吹いた。テスト用紙は、風に飛ばされてしまう。
藪を抜けると、そこはゴミ置き場。投棄された洗濯機に、木の苗が放り捨てられていた。
のび太は、テスト用紙を追いかけて、森の中へ入っていく。
深い藪を抜けた向うに、ゴミ捨て場があった。
のび太は、そこでテスト用紙を拾う。
それからのび太は、投棄された洗濯機に、木の苗が放り捨てられているのに気付く。
「木の赤ちゃん……?」
のび太はふと思いついて、木の苗を持ち帰ってしまう。
“植物自動化液”を浸して一日置くと、木の苗は意思を持って動き出した。
こう見ると、眼鏡をかけていないのび太の顔が、随分、現代風になっているとわかる。
家に帰り、こっそり庭に植えようとするが、ママに「駄目よ」と釘を刺されてしまう。
そこでドラえもんは秘密アイテム“植物自動化液”を出し、木の苗に注ぐ。
すると翌日の朝、木の苗は意思を持って活動を始めた。
のび太は、動く木の苗に「キー坊」と名付けた。
異世界の風景。植物が中心となる文明都市。発想は、平凡というしかない。
それにしても新シリーズのスネ夫の前髪は、やわらかくなった。
自然の破壊と、逆襲、人間文明の反省。
一昔前のSF漫画では主流となっていたテーマだ。原作『ドラえもん』においても、執拗に繰り返された題材である。
『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』は古びたテーマを、最新の感性で再生させる。
今回、いい味を出していたのは、ジャイアンだ。
過去シリーズでは、それほどコメディリリーフではなかったが、今回は笑いの中心である。
物語の中心にあるのは、動き出す植物である。
子供は、しばしば植物に対しても人格があると見做し、ごっこ遊びの相棒にする。
キー坊の発想は、いわば子供遊びが原形だ。
子供の物語としては実にふさわしい創造物だ、
表情の動きが楽しい。表情の豊かさは、新シリーズの特徴だ。
アニメ本来の動きの面白さを取り戻している。
劇場版『ドラえもん』は、全体を通して、キャラクターの動きが特徴的だ。
どの場面も表情は豊かで“線の檻”に捕らわれない、自由な動きを見せる。
アニメは、いつから〈止め絵にパクとパチだけ〉でキャラクターを描くようになったのだろう。
『ドラえもん』のキャラクターは、現代の日本アニメへのアンチテーゼのように自由に動き、線の一つ一つには意識的なかすれを加え、温かみを与えている。
それでいて、背景美術は写実的で克明に描かれ、やわらかなキャラクターと豊かな感性で両立し、ぬくもりのある画面構成を生み出している。
中盤あたりから、物語の連続性はガタガタと崩壊する。
後半の展開は、もはや、“場面”が並んでいるだけだ。
シーンの一つ一つに繋がりがまったくなく、流れとしてみることができない。
ついには、見る行為が、作業か何かのようになってしまっていた。
ただし、物語の後半は、尻すぼみに崩壊していく。
脚本の準備不足か、構想力の欠如か。
物語に論理的構造は消えうせ、ただ場面だけが羅列される。
後半になって登場するキャラクターにしても、中途半端で順序の悪さが目立つ。
冒険アニメの金字塔。
子供時代、誰もが一度は夢中になるのが、ドラえもんの劇場シリーズだ。
そんな輝きを、次回作には取り戻して欲しい。
しかし、それでも有り余る魅力があるのが『ドラえもん』の映画シリーズだ。
唐突に展開する戦いや、急激な変調を見せる物語は、現実的なパースティクティブをもった現代的な物語というより、古典的な民話や神話物語を連想させる。
現代の詩人が失った感性が、子供向け漫画映画の中に残されていた。
いつか、“子供時代の思い出”のひとつに数えられる映画になれば良いだろう。
作品データ
監督:渡辺歩 原作:藤子・F・不二雄 音楽:大野木寛
出演:水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ
木村昴 関智一 堀北真希
有田哲平 三宅裕司