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■2015/10/22 (Thu)
創作小説■
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
前回を読む
辺りはそろそろ暮れかけようとしていて、光に淡いオレンジが混じろうとしている。それでも夏の日は長く、まだ誰も帰路に就こうとはしなかった。
ツグミは「ああ、私、夢を見てるな」と気付いた。そう思っても、夢は一時停止も改編もできない。
もう何度も繰り返し見た夢。二度と見たくないと思っても、夢は勝手に再生して、勝手にリピートする。ツグミ自身の意思など無関係に。まるで、夢自身に意思があるみたいに。
あの時、ツグミは8歳だった。
ひまわりが大きくプリントされた、オレンジのワンピースを着ていた。お気に入りの洋服だった。
あの頃のツグミは、元気で無邪気で悪戯好きの、どこにでもいる女の子だった。悩みも苦しみも知らない。ちょっと普通の子供より、美術に詳しいだけの女の子だった。
8歳のツグミは、通りの反対側で、川沿いを歩く父親の姿を見つけた。
「おーい、お父さーん」
笑顔で手を振った。
太一は白いワイシャツに、茶色のスラックスを穿いていた。いつもの仕事着で、これから帰るところだった。その日は、大きな鞄を襷に掛けていた。
太一もツグミに気付いて振り返った。優しそうな顔だった。
短く切り揃えた髪。角ばった顔に、大きな目。ちょっとコワモテという感じの顔だったけど、優しい人だった。怒られた記憶は一度もなかった。優しい父親だった。
ツグミは左右を確かめて、道路に飛び出した。いつも閑散とした通りで、車は滅多に通らない場所だった。
でもその時、太一が突然に叫んだ。「危ない」と道路を飛び出そうとした。
ツグミは訳がわからず、きょとんと道の半ばに足を止めてしまった。
ツグミも、8歳の自分に「逃げて」と叫びたかった。あの瞬間だけは、改編したいと何度も思った。今となっては、何もかも手遅れだった。
幼いツグミは、ようやく猛烈な勢いで迫る何かに気付いた。
振り返った。そこに、真っ黒な鉄の塊があった。
直後、記憶が飛んだ。
しばらくして、ゆっくり意識が戻ってきた。目の前に、アスファルトのごつごつとした質感があった。体の感覚が遠ざかって、もどかしくふわふわ浮いているみたいだった。なのに、ひりひりする何かがじわりと体の下に広がるのを感じた。おしっこだと思った。血だった。
地面に倒れたきり、ツグミは動けなかった。目だけで、父が立っていた場所を探した。
さっきの黒い鉄塊が停まっていた。その時には、黒いワゴン車だと認識した。
ワゴン車から男達が飛び出し、太一を羽交い絞めにしていた。太一は逃れようと、叫び、手を振り回し、もがいていた。
しかし、男達は太一が小さく見えるくらいに巨大で、力も強かった。
太一は目一杯暴れたけど、ワゴン車の中に引きずり込まれてしまった。マフラーから噴き出た排ガスが、ツグミの体に吹きかけられる。
車が走り出した。猛烈な勢いで進んで行き、向うの赤信号を無視した。
ツグミは手を伸ばした。でも体はあまりにも重くて、手が自分の意思から離れてしまっているように思えた。痛みがじわじわと下の方から這い上がってきて、それが全身を痺れるような感覚に包むと、意識が途切れた。
夢はいつもここで終わりだった。夢というより記憶だった。あの時の、一番つらくて思い出したくない記憶。この記憶が、ツグミ自身を掴んで離さなかった。左脚の強烈な痛みと一緒に。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
第4章 美術市場の闇
前回を読む
1
太田川沿いの道を、太一が歩いていた。辺りはそろそろ暮れかけようとしていて、光に淡いオレンジが混じろうとしている。それでも夏の日は長く、まだ誰も帰路に就こうとはしなかった。
ツグミは「ああ、私、夢を見てるな」と気付いた。そう思っても、夢は一時停止も改編もできない。
もう何度も繰り返し見た夢。二度と見たくないと思っても、夢は勝手に再生して、勝手にリピートする。ツグミ自身の意思など無関係に。まるで、夢自身に意思があるみたいに。
あの時、ツグミは8歳だった。
ひまわりが大きくプリントされた、オレンジのワンピースを着ていた。お気に入りの洋服だった。
あの頃のツグミは、元気で無邪気で悪戯好きの、どこにでもいる女の子だった。悩みも苦しみも知らない。ちょっと普通の子供より、美術に詳しいだけの女の子だった。
8歳のツグミは、通りの反対側で、川沿いを歩く父親の姿を見つけた。
「おーい、お父さーん」
笑顔で手を振った。
太一は白いワイシャツに、茶色のスラックスを穿いていた。いつもの仕事着で、これから帰るところだった。その日は、大きな鞄を襷に掛けていた。
太一もツグミに気付いて振り返った。優しそうな顔だった。
短く切り揃えた髪。角ばった顔に、大きな目。ちょっとコワモテという感じの顔だったけど、優しい人だった。怒られた記憶は一度もなかった。優しい父親だった。
ツグミは左右を確かめて、道路に飛び出した。いつも閑散とした通りで、車は滅多に通らない場所だった。
でもその時、太一が突然に叫んだ。「危ない」と道路を飛び出そうとした。
ツグミは訳がわからず、きょとんと道の半ばに足を止めてしまった。
ツグミも、8歳の自分に「逃げて」と叫びたかった。あの瞬間だけは、改編したいと何度も思った。今となっては、何もかも手遅れだった。
幼いツグミは、ようやく猛烈な勢いで迫る何かに気付いた。
振り返った。そこに、真っ黒な鉄の塊があった。
直後、記憶が飛んだ。
しばらくして、ゆっくり意識が戻ってきた。目の前に、アスファルトのごつごつとした質感があった。体の感覚が遠ざかって、もどかしくふわふわ浮いているみたいだった。なのに、ひりひりする何かがじわりと体の下に広がるのを感じた。おしっこだと思った。血だった。
地面に倒れたきり、ツグミは動けなかった。目だけで、父が立っていた場所を探した。
さっきの黒い鉄塊が停まっていた。その時には、黒いワゴン車だと認識した。
ワゴン車から男達が飛び出し、太一を羽交い絞めにしていた。太一は逃れようと、叫び、手を振り回し、もがいていた。
しかし、男達は太一が小さく見えるくらいに巨大で、力も強かった。
太一は目一杯暴れたけど、ワゴン車の中に引きずり込まれてしまった。マフラーから噴き出た排ガスが、ツグミの体に吹きかけられる。
車が走り出した。猛烈な勢いで進んで行き、向うの赤信号を無視した。
ツグミは手を伸ばした。でも体はあまりにも重くて、手が自分の意思から離れてしまっているように思えた。痛みがじわじわと下の方から這い上がってきて、それが全身を痺れるような感覚に包むと、意識が途切れた。
夢はいつもここで終わりだった。夢というより記憶だった。あの時の、一番つらくて思い出したくない記憶。この記憶が、ツグミ自身を掴んで離さなかった。左脚の強烈な痛みと一緒に。
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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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