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■2015/09/08 (Tue)
創作小説■
第3章 贋作工房
前回を読む
1
あれから数日が過ぎた。胸にわだかまりが残ったが、それだけで事件はなく、時間だけが流れていった。画廊には相変わらず、客は1人も来ず、電話も1本もない。ツグミは1人きりで退屈な時間を『美術年鑑』を見て過ごした。
平日なので、セーラー服は来たままだった。トレンチコートは畳んでテーブルの隅に置いてある。今日は少し暖かかった。
『美術年鑑』は国内で活躍するほとんどの画家の名前と、作品の評価額が書き連ねてある本だった。電話帳ほどの厚さがあり、中身も電話帳並みの細かさでびっしりと名前が列記されていた。
ツグミはもしや川村の名前が見付かるのではないかと思った。あれだけ実力のある絵描きだから、1度くらい画壇に出品したのではないか、と思ったのだ。
だが『美術年鑑』と向き合って数時間。川村の名前は無数にあったが、『修治』の名前はついに見つからなかった。これだけの名前が載っていて、同姓同名が見付からないほうが返って驚きだった。
ふと目が疲れて顔を上げる。いつの間にか、画廊の中は暗く霞みかけていた。時計を見ると、もうすぐ5時だ。
辺りはあまりにも静かで、時計の秒針が妙な重たさを持って響いていた。
そろそろ明かりを点けたほうがいい頃だろう。そう思って、杖を手にした。
そこに、電話が鳴った。
鑑定依頼だろうか。それにしては、ちょっと時間が遅い。鑑定依頼してくるおじさんたちは、大抵ツグミの事情を知っていて、4時頃までに電話してくるものだ。
ツグミはあれこれ考えながら、受話器を手に取った。
「妻鳥画廊です」
「私、集英社《週刊プレイボール》編集部の上平と申します。今、神戸西洋美術館に展示されている絵について、お聞きしたいのですが」
男の声で、挨拶もなしに強引としか言いようのない調子で話が始まった。
「は、はあ……」
相手の一方的なペースについていけず、とりあえず相槌を打った。
口の中が急に乾くのを感じた。胸が早鐘を打つ。まさか……、と思った。
「ミレーの絵が偽物という噂は、本当なのですか?」
まるで遠慮のない無邪気な子供のように、いきなり核心を突いてきた。
ツグミはすぐに答えを返せなかった。ショックで呼吸が詰まってしまった。
「あの、その件に関しては、私はあんまり……」
今にも絡みそうな舌を御しつつ、何とか説明しようとした。
「おかしいですねぇ。あの絵を買ったのは、お宅じゃないんですか?」
ツグミが言うのを遮って、男はとぼけるような調子で追求した。
「私、本当に何も知りません」
どうしよう。泣いてしまいそうだった。
誰かが画廊に入ってきた。顔を上げると、コルリだった。赤いジャンパーに、小振りのリュックを背負っている。学校帰りの格好だ。手に何か、丸めて持っていた。
「あの絵を購入するために使ったとされる必要経費2000万円、どこに消えたんですかねぇ。ネットでは、あなたが全部持っていったんじゃないか、ってみんな噂してますよ。本当のところ、どうなんですか? 正直に話してください。本当は使っちゃったんでしょ、お金」
男は親しみのある口調を装いながら、確実に自分の推測を押し付けるやりかたで尋問してきた。
「……あ、あ、その……」
言葉が急にわからなくなってしまった。体から熱が消えて、汗ばかりが噴き出していた。周囲の風景が急に暗く遠ざかって、自分が置かれている状況もわからなくなってしまった。
すると、コルリが横合いから強引に受話器を引ったくった。
「こちらでは、そのような質問には答えかねますので……」
コルリはできぱきと事務的な文句を並べて、さっさと切ってしまった。
「……ルリお姉ちゃん、今のなんやったの?」
ツグミはいまだに胸の動悸が治まらず、落ち着かせようと手で抑えていた。はあはあと、浅く息をしていた。
コルリはまず明かりを点けると、「Closure」の暖簾を掛けて入口に二重ロックを掛けた。それから、テーブルの上に手にしていた何かを広げた。
「ツグミ、これ見」
テーブルに上に広げられたのは《夕刊ギンダイ》だった。一面の、大きな見出しにゴシック体で、『ミレー、贋作か?』と書かれていた。字の大きさに対して、末尾の『?』がやたら小さかった。
続く見出しの下に、美術館のミレーが置かれている展示場が写されていた。撮影禁止のはずなのに、ルール無用の取材がすでに敢行されている証拠だった。その写真を取り囲むように、いかにも挑発的な文章が並んでいた。
「何なの、これ!」
ツグミは《夕刊ギンダイ》を手に取り、声を上げた。自分でも怒っているのか、動揺しているのか、どんな感情で声を上げたのかわからなかった。
「何でか知らん。とにかく、バレたんや」
コルリは非常事態を宣言するようだった。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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