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■2015/09/06 (Sun)
創作小説■
物語中に登場する美術品は、すべて空想上のものです。
前回を読む
螺旋階段を降りて1階に入ったところで、脇にトイレが現れた。ツグミはヒナに手を引っ張られて、トイレに入った。
トイレに入ると、貴族屋敷の雰囲気は消えて、黒い大理石の壁に、アントニ・ガウディ風(※)に曲線を多用した近代的デザインが現れた。入ってすぐの洗面台に、大きな鏡が設置されていた。
トイレに入ってくると、ヒナはいきなりツグミの肩を掴み、顔を近付けてきた。
「あのな、ツグミ。私に気ぃ遣わんでええからな。本当のこと言うんやで」
ヒナの声は緊張で震えてしまっていた。言葉が一気に出ず、深呼吸を間に挟んだ。
「……ツグミ。あれは、贋作か?」
一語一語、慎重に吐き出すようだった。
ツグミは答えに逡巡した。見るからにヒナは正常な様子ではない。どう説明するべきだろう、と考えた。
答えははっきりしていた。本物か贋物か。質問の答えは2択であり、そのうちの一つを選ぶだけだった。だが、今の動揺しているヒナに対して、どう言うべきか悩んでしまった。
ツグミはうつむき、空気を飲みこんで、動揺を押さえ込んだ。
「うん。あれはミレーじゃない。ごく最近作られた模写や」
ツグミはヒナの目を真直ぐに見て、ごまかさずに言った。
ヒナはふらっと崩れかけた。洗面器に体を預け、何とか自分の体を支えた。ツグミは杖のストラップを右手首に通すと、両手でヒナの腕を掴んで支えようとした。
「そんなはずはない。だって、科学鑑定に立ち会った。専門家の意見も聞いた。私自身も絵をちゃんと確かめた。まさか、ジャン・シャルル・ミレー?」
ヒナは顔に激しい混乱を浮かべ、右手で髪を掻き揚げながら譫言のように呟き始めた。
ジャン・シャルル・ミレーはフランソワ・ミレーの孫に当たる人物だ。シャルル・ミレーは祖父作品の贋作を大量に作り、美術界を混乱に陥れた人物だ。今でもシャルル・ミレーかフランソワ・ミレーかで議論されている絵はいくつもある。
「ヒナお姉ちゃん、しっかりして。私の話を聞いて」
ツグミはヒナの肩を掴み、強く揺すった。ヒナは何とか我を取り戻したみたいに、ツグミを見下ろした。額に、急に年を取ったみたいな皺ができていた。
「ヒナお姉ちゃん、よく考えて。あれはヒナお姉ちゃんがフランスで見た絵を同じやつか? ヒナお姉ちゃんが贋物つかまされるわけがない。ヒナお姉ちゃん、あそこに展示しているやつは、本当にヒナお姉ちゃんが買ってきたやつで間違いないか?」
ツグミは正気をなくしかけたヒナの顔をじっと見詰めて、説得するように訴えかけた。
ヒナはしばらくツグミの顔を見ていた。その顔から、真っ白に表情が抜け落ちて行った。
ヒナはがくりと洗面台にうなだれた。長い髪が乱れて肩に掛かった。
「……嵌められた」
それから、ヒナは小さく呟く声で、確かにそう口にした。
どういう意味だろう?
ツグミは言葉の意味を確かめようと、口を開きかけた。しかし、
「何しとおんや。あかんやん!」
突然の声にびっくりして振り返った。トイレの入口に、コルリが立っていた。
コルリはトイレに入ってくると、身をかがめて個室に誰か入っていないかを確かめた。幸いにして、誰もいなかったようだ。
コルリがツグミとヒナの前までやってくると、3人で円陣を組むみたいに顔を寄せ合った。
「いいか。ヒナ姉もツグミも、ここでの話は絶対に誰かに言ったらあかんで。顔にも出したらあかん。あれが摺りかえられたなんて、余程の専門家でなければツグミにしかわからへんはずや。本物がどこに消えたかなんて、とりあえず後や。今は企画展を無事に終わらせることを考えるんや。いいな」
コルリはひそひそと、ツグミやヒナの顔を確かめるようにしながら言った。秘密会議というには緊張感がありすぎで、ツグミは辛かった。
ヒナは頷くと、鏡を向いて一度深く呼吸し、さっと髪を直した。あっという間に、元の美人が戻ってきた。
「ツグミ、帰ろう。ヒナ姉もしっかりするんやで」
コルリがツグミの手を握り、ヒナに言付けを残した。
ツグミはコルリに従いてトイレを後にした。一度ヒナを振り返った。ヒナの美しい顔に、不安が浮かんでいた。いや、あれは自分の不安を投影したものだ、とツグミは気付いた。ヒナの顔に、何の表情も浮かんでいなかった。
※ アントニ・ガウディ 1852~1926年。スペインの建築家。自然を手本にした曲線の多い建築物を多く残す。現在も建設中のサグラダ・ファミリアはあまりにも有名。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
第2章 贋作疑惑
前回を読む
16
ヒナは小部屋を通り過ぎると、次に現れた螺旋階段を下へ降りて行った。美術館出口に通じている螺旋階段だ。照明は弱く、小さな窓から灰色の光が零れ落ちていた。螺旋階段を降りて1階に入ったところで、脇にトイレが現れた。ツグミはヒナに手を引っ張られて、トイレに入った。
トイレに入ると、貴族屋敷の雰囲気は消えて、黒い大理石の壁に、アントニ・ガウディ風(※)に曲線を多用した近代的デザインが現れた。入ってすぐの洗面台に、大きな鏡が設置されていた。
トイレに入ってくると、ヒナはいきなりツグミの肩を掴み、顔を近付けてきた。
「あのな、ツグミ。私に気ぃ遣わんでええからな。本当のこと言うんやで」
ヒナの声は緊張で震えてしまっていた。言葉が一気に出ず、深呼吸を間に挟んだ。
「……ツグミ。あれは、贋作か?」
一語一語、慎重に吐き出すようだった。
ツグミは答えに逡巡した。見るからにヒナは正常な様子ではない。どう説明するべきだろう、と考えた。
答えははっきりしていた。本物か贋物か。質問の答えは2択であり、そのうちの一つを選ぶだけだった。だが、今の動揺しているヒナに対して、どう言うべきか悩んでしまった。
ツグミはうつむき、空気を飲みこんで、動揺を押さえ込んだ。
「うん。あれはミレーじゃない。ごく最近作られた模写や」
ツグミはヒナの目を真直ぐに見て、ごまかさずに言った。
ヒナはふらっと崩れかけた。洗面器に体を預け、何とか自分の体を支えた。ツグミは杖のストラップを右手首に通すと、両手でヒナの腕を掴んで支えようとした。
「そんなはずはない。だって、科学鑑定に立ち会った。専門家の意見も聞いた。私自身も絵をちゃんと確かめた。まさか、ジャン・シャルル・ミレー?」
ヒナは顔に激しい混乱を浮かべ、右手で髪を掻き揚げながら譫言のように呟き始めた。
ジャン・シャルル・ミレーはフランソワ・ミレーの孫に当たる人物だ。シャルル・ミレーは祖父作品の贋作を大量に作り、美術界を混乱に陥れた人物だ。今でもシャルル・ミレーかフランソワ・ミレーかで議論されている絵はいくつもある。
「ヒナお姉ちゃん、しっかりして。私の話を聞いて」
ツグミはヒナの肩を掴み、強く揺すった。ヒナは何とか我を取り戻したみたいに、ツグミを見下ろした。額に、急に年を取ったみたいな皺ができていた。
「ヒナお姉ちゃん、よく考えて。あれはヒナお姉ちゃんがフランスで見た絵を同じやつか? ヒナお姉ちゃんが贋物つかまされるわけがない。ヒナお姉ちゃん、あそこに展示しているやつは、本当にヒナお姉ちゃんが買ってきたやつで間違いないか?」
ツグミは正気をなくしかけたヒナの顔をじっと見詰めて、説得するように訴えかけた。
ヒナはしばらくツグミの顔を見ていた。その顔から、真っ白に表情が抜け落ちて行った。
ヒナはがくりと洗面台にうなだれた。長い髪が乱れて肩に掛かった。
「……嵌められた」
それから、ヒナは小さく呟く声で、確かにそう口にした。
どういう意味だろう?
ツグミは言葉の意味を確かめようと、口を開きかけた。しかし、
「何しとおんや。あかんやん!」
突然の声にびっくりして振り返った。トイレの入口に、コルリが立っていた。
コルリはトイレに入ってくると、身をかがめて個室に誰か入っていないかを確かめた。幸いにして、誰もいなかったようだ。
コルリがツグミとヒナの前までやってくると、3人で円陣を組むみたいに顔を寄せ合った。
「いいか。ヒナ姉もツグミも、ここでの話は絶対に誰かに言ったらあかんで。顔にも出したらあかん。あれが摺りかえられたなんて、余程の専門家でなければツグミにしかわからへんはずや。本物がどこに消えたかなんて、とりあえず後や。今は企画展を無事に終わらせることを考えるんや。いいな」
コルリはひそひそと、ツグミやヒナの顔を確かめるようにしながら言った。秘密会議というには緊張感がありすぎで、ツグミは辛かった。
ヒナは頷くと、鏡を向いて一度深く呼吸し、さっと髪を直した。あっという間に、元の美人が戻ってきた。
「ツグミ、帰ろう。ヒナ姉もしっかりするんやで」
コルリがツグミの手を握り、ヒナに言付けを残した。
ツグミはコルリに従いてトイレを後にした。一度ヒナを振り返った。ヒナの美しい顔に、不安が浮かんでいた。いや、あれは自分の不安を投影したものだ、とツグミは気付いた。ヒナの顔に、何の表情も浮かんでいなかった。
※ アントニ・ガウディ 1852~1926年。スペインの建築家。自然を手本にした曲線の多い建築物を多く残す。現在も建設中のサグラダ・ファミリアはあまりにも有名。
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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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