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■2012/07/17 (Tue)
シリーズアニメ■
「漫画は漫画として読めばいい。どうしてアニメにするのか!」
アニメにする必要性があったかどうかは、後々見ていた人々によって判定されるだろう。
このアニメは、女の子のかわいさをお楽しみいただくため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。
というのは建前で、実際には対話こそがこの作品の中心的テーマであるようだ。
原作は久米田康治がネームまでを担当し、それ以降の作業をイラストレーターのヤスが請け負う、という役割分担で描かれる漫画である。ベテラン作家にネームまで描かせ、それまでもっとも重要とされていたキャラクターを別作家に描かせる、というなかなかユニークなシステムで描かれている。漫画とはキャラクターであるのか、それともネームであるのか。漫画家の場合、本質がどこに現れてくるのか、面白い謎かけを解く切っ掛けになる作品である。それ以上に一歩推し進めれば、作家の性質によっていかに分担させ、あるいは共演させるべきなのか、これからの“漫画”のテーマを一歩先んじた作品であるといえる。
『じょしらく』は落語家の少女が主人公であるものの、落語は特に重要なモチーフではない。舞台は楽屋であるが、楽屋という特異性は重要視されず、少女たちも和装姿であるが、これはただその場所と符号させるための変異的な制服といったところで、やはり重要というわけではない。
あくまでも『じょしらく』は会話劇である。誰かがネタを振り、誰かが掘り下げ、誰かが方向性をねじ曲げ、誰かが流れをぶった切る。『じょしらく』の基本ルールは、いかに馬鹿げたあり得ない話であっても絶対に否定しない、全員が話に参加し、ロールプレイを演じる。それが実際あまりにも馬鹿げているからこそ、笑いが巻き起こるわけである。
笑いとは常識的、社会的条理からの脱線と引き戻しのバランスによって引き起こされる。そこでいかに意外性を持ったユニークさが引き出せるかで、笑いの質が決定される(“恐怖”を演出する場合の方法論もほぼ一緒である)。ただ訳のわからないことをいくつ並べても笑いにはならないし、形式化された言葉や状況を展開させても、それは笑いのセオリーではない。
『じょしらく』いや久米田康治の笑いは、ほとんど今現在の社会的なものから拾い上げられている(故に風刺作家と呼ばれる)。現在系で起きている事件や傾向をえぐり出すように批評を加えつつ、あるいは作者の幅広い知識から偉大な賢人の言葉や法則性が拾い上げられ、それらは風刺ネタと奇妙な化学反応を引き起こし、理想的ともいえる笑いの脱線を展開させる。
『さよなら絶望先生』ではネタの羅列と風刺だったが、『じょしらく』の場合ではキャラクターがとことん演じる、という違いがあるようだ。
近年ありがちになった、ネットに散乱している言い回しや誰かが何度も繰り返したネタを羅列するだけの作品とは趣旨が違う。『じょしらく』はネームの中に、久米田康治のオリジナリティが強烈に表れている。
映像制作がシャフトでなくて良かった、と私は密かに思っている。近年のシャフトは、原作漫画のコマをそのままトレースして、何の工夫もなく色だけ塗って画面上にアウトプットするいい加減な手法で映像を制作してきた。動画の質も、目に見えて低下している。構成はボロボロで、見るに堪えない作品を乱発してきた。一方で『じょしらく』はクオリティに問題のあるJCスタッフである。第2話の段階でも、動画の精度や指先のトレースに崩れが見られた。どこまで品質を維持できるか、不安なところである。
アニメ『じょしらく』は尺の長さに合わせて、複数のエピソードがまとられているようだ。第1話Aパート『普段問答』は、原作第2巻特別編として収録された『ふだん問答』を中心としているが、冒頭の「漫画は漫画として読めばいい……」の台詞は第4巻「30日目/ちょいたし講釈」から採られている。アニメとして見易い話を、うまくまとめられているといえる。
舞台は原作通り楽屋から一歩も外に出ず、対話だけで物語が進行する。自然と構図は人物が中心になる。ほとんどのカットにキャラクターが登場し、何かしらの発言しているといった状態である。人物の構図の切り取り方は、顔、首、胸、腰、股間、膝、くるぶし、と“関節”で切る方法が一般的であるが、それでもパターン化されやすく、うっかりすると“ありきたりな構図の連続”になる難しいところである。
また『じょしらく』特有の所作として、キャラクターたちが“地面に直接座っている”ということが挙げられる。あるいは、正座である。正座した姿勢での演技がキャラクターの動きの基本となっている。
和装姿であるから、歩き走きの動画であまり膝を上げられない、という特徴もある。アニメーターは和装での歩き方、走り方の研究をしなくてはならない。
キャラクターは最近のアニメとしては珍しく、フィルターの効果に頼らず、基本的な色彩だけで描かれている。線と色彩が中心で、今どきの傾向と比較する単調に見えるし、動きや構図の描き方次第で映像が弱くなる可能性を孕んでいる。映像としての力強さは、むしろいかに原画/動画の質を保っていけるかにかかっているだろう。
音楽は現代的な楽器だけではなく、趣を感じさせる音色を中心に採用されているが、いかにも伝統的な単調さを強調させるふうでもなく、またコメディ作品にありがちな騒々しさも避け、静かに穏やかな調子で背景を支えている感じである。
出演俳優は原作漫画の限定版に付いていたドラマCDを1代目として、アニメ版は“2代目”という扱いになっている。1代目はすでに名の知れているベテランが中心だったが、2代目は新人が中心、後藤沙緒里だけが1代目からの続投で、一番のベテランとなった。
意外だったのは、冒頭の場面でキャラクターがちゃんと落語を演じていたことだろう。背景がしっかり描けている。第1話の冒頭場面、落語の終わり際の場面が演じられ、舞台袖に下がるまでの所作を、フルコマで妥協なく描かれている。原作とは異なり、落語をきちんと描こう、というアニメ作家側の意識を感じさせる。
原作における落語の場面と言えば「お後がよろしいようで」の一言だけだったが、アニメ版ではもう少し手前の、何を演じていたかわかるくらいまでは描かれている。
モデルとなっているのは【新宿末廣亭】で間違いないだろう。アニメの一場面とグーグルビューを比較すると、ほぼ一致した。寄席だけではなく、周囲の町並みまでそのまま描かれている。場所を特定し、落語の文化を映像の背景に置かれる骨として描こうとしたのだろう。また寄席そのものの解説が加えられたのは意外だった。
毎回Bパートは原作から趣旨を変え、楽屋の外に出るようである。第1話では寄席の周囲を、第2話ではなぜか東京タワー観光。脚本はほぼ完全なオリジナルである。
第1話でみんなが集まってくる場面で一同が着ている衣装は原作第2巻のおまけページに描かれた、ヤスが想像する一同の日常の場面から採られている。第2話の衣装は、原作第4巻目次ページ手前のページに描かれているものを手本にされているようだ。
Bパートは毎回短く、4分から5分と幕間劇のような趣だが、原作を詳しく読み込んでいる者にとっても、なかなか新鮮味のある映像になっている。
あまり知られていない話だが、動画マンは何も指示がなかった場合、原画と原画の間を何を描いてもいいのである。左の例は、原画コマがすでに正面を向いているから、原画の指示通りの動画であるが、時々動画マンの遊び心で突飛な絵が入っていたりすることもある。
『じょしらく』は基本的に楽屋から外に出ることはない。アニメでは時々、外に出るようだ。原作のルール付けを絶対視するわけではなく、柔軟に、自然な脚本の流れに沿って映像を組み立てているようだ。
原作漫画とアニメを比較すると、映像を組み立てる方法論に違いが見られる。アニメはアニメで、妥当といえる脚本と構図の作り方が実践されているようだ。
しかしだからといって、本当に映像化する価値があったのか。舞台は一つだけ、特に動きの必要のない会話劇の映像化。
映像作家の力量は、ここで示される。映像作品として有無言わせる映像の力があれば、その時には『じょしらく』にアニメ化の意義があったのか判断されるだろう。会話劇でも描き方次第で、人を惹き付ける名作になり得る。アニメ『じょしらく』はまだまだこれからである。
StaChid じょしらく公式ホームページ
Twitter 女子落語協会
新宿末廣亭 公式ホームページ
作品データ
監督:水島努 原作:ネーム・久米田康治/作画・ヤス 監修:林家しん平
キャラクターデザイン:田中将賀 シリーズ構成:横手美智子
美術監督:柴田千佳子 色彩設計:村永麻耶 撮影監督:大河内喜夫
編集:西山茂 音響監督:岩浪美和 音楽:横山克
アニメーション制作:J.C.STAFF
出演:小岩井ことり 山本希望
○ 佐倉綾音 南條愛乃 後藤沙緒里
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