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■2012/04/24 (Tue)
シリーズアニメ■

この最初のカットでぶっ飛んだ。
主人公の西見薫の足下で切り捨てられた急な坂道を、学生たちが群れをなしてぞろぞろと登ってきている。朝の登校風景だ。皆それぞれの顔で、憂鬱そうにうつむいたり、ぼんやり視線を投げかけたり、友達を見つけて笑顔で挨拶したり。
そのただ中であり構図の中心で、西見薫は呪いのこもった憂鬱をカメラの正面に向けている。
パースの行方は遙か向こうまで立体的に描かれ、同じ方向を目指して歩いてくる学生たちの1人1人を手抜きなしに描いている。ふとすると“ただのモブキャラ”と切り捨てられそうな群衆を、それぞれ何かしらの表情と演技を付け、何かしらの“背景”を思わせるように描かれている。
坂道はただでさえ作画の難しい題材である。地上の位置が断続的に変化し、そこに立つべき人も建物もそれに合わせて浮き上がったり沈んだりしているように描かねばならず、下手に描くとあっという間に空間の歪んだ気持ち悪い絵になってしまう。うっかりすると、浮世絵的な縦構図の絵でごまかされそうな場面である。
しかし『坂道のアポロン』はこの坂道を絵画としてごまかしのない正攻法で描き、見る者に対し、自信たっぷりに突きつけた。
これは凄いアニメが来たぞ。

西見薫は横須賀から九州の叔父の家に居候することとなった。やってきた場所は長崎。東京とはあまりにも環境が違う。聞き慣れない博多弁。節操のない視線。囁き声とは言えなくらいの遠慮のない声。教室から聞こえてきた声は、転校生への好奇や期待ではなく、余所者に対する侮蔑だ。
転校続きだった西見薫は人と接することが苦手だ。転校直後にありがちな生徒たちの視線を浴びると、途端に気持ち悪くなる。同じことを子供の頃から何度も繰り返した挙げ句、吐く癖がついてしまっていた。
全身にまとわりついてくる不快から逃れる唯一の方法――。自分を取り戻すための場所――。それは屋上へ行くことだった。
しかしそこにいたのは、川渕千太郎。この学校の問題児で、同じクラスメイトからも恐れられる不良少年である。西見薫が駆け上がった屋上で見たものは、3年の不良グループと殴り合いの喧嘩をする千太郎だった。
だが不思議にもこの2人を結びつけるものがあった。音楽である。
西見薫はクラシック。千太郎はジャズ。ジャンルは違えども、同じ音楽趣味として、引きつけるものがあった。

それは見る者にとっても、親しみのない異境である。学園ものの舞台として大阪や広島はまあまああるものの、それ以上に西に踏み込んだ作品は例が少ない。スタジオジブリの『海が聞こえる』は希少な例の一つだろう。聞き慣れない博多弁、都会ものに対する遠慮のない軽蔑。西見薫だけではなく、多くのアニメの視聴者にとっても新鮮であり、強烈に感じるところである。
60年代――昭和40年代という年代にも作品特有の個性を感じさせる。
調べてみると、この頃、SFブームが起き、ビートルズが来日し、ウルトラマンの放映もこの頃だ。少年マガジンでは『巨人の星』の連載が始まり、骨太な不良少年漫画隆盛の時期である。千太郎のような大柄な不良少年も、実際の風景にいたかもしれない。思えばいま権威的ともいえるくらい大きくなった文化の始まりが、おおむねこの時代に集中している。
ひょっとしたらジャズも色んな文化に乗って日本にやってきたかも知れない。若者たちはその音楽の端っこに触れて、夢中になってギターを弾きドラムを叩き下手くそに真似しようとしていた。『坂道のアポロン』そんな時代の空気を追いかけ、描こうとした作品だ。


女学生の着こなしもいかにも古い。長いスカート、男子生徒のものと見た目があまり変わらない飾りっ気のないブラウス(男子生徒の学ランは最近のものと変わりがなく、逆にびっくりさせられる)。
もっと特徴的なのは、現代のセンスからは想像できない千太郎のファッションだろう。破けた学生帽、ワイシャツの下には赤と白の縞々模様のシャツを着込んでいる。今時あんな赤と白の縞々シャツは、あの漫画家の普段着でしかお目にかかることはできない。
学校の風景は、鉄骨とコンクリートを組み合わせただけの不格好な積み木細工のような建築である。机や椅子などは、机や椅子といわず、はっきりいえばただの腰を掛けるだけの木の構造物でしかない。きっとその日の午後には腰がどうにかなっているだろう。今時はもう少し洒落た建築物として学校が描かれるが(それでも我慢ならないくらい美的センスが喪失しているが)、『坂道のアポロン』はあえてその時代にあったであろう古さや、記憶の中に危うく残存している建築の形を再現しようとしている。現在のセンスで、しかし当時の形をある種の理想として追いかけている。


ムカエレコードの地下に作られた狭いスタジオ。そこで景気よくドラムを叩く千太郎。その圧倒的な音感と、作画のエネルギー。
この場面は、モデルとなった演奏者の周囲に無数のカメラを設置し、動きを“一度”に撮影し、それを素材としてアニメーターに引き渡して描き起こしさせたものだ。
ここで監督は、“一発撮影”にこだわった。同じ演奏を、カメラワークを変えてやり直させる、ということをさせなかった。それはジャズのリズムではない。ジャズはその瞬間に込められた勢いで呼吸感そのものだ。だから素材の継ぎ接ぎはさせず、一発撮影に執着した。
アニメーションとして描き起こす際にも、もちろんロトスコープのようななぞり描きというわけにはいかない。まず、実写の演者とアニメのキャラクターのフォルムが違う。アニメーションとし

対する西見薫の反応も秀逸だ。はじめはドラムの音に驚き、耳を塞ぐ。しかし間もなくそのリズムに捕らわれる。いつの間にか塞いでいた耳を放し、引き込まれている。その心情の移り変わりを、模範的なモンタージュの積み重ねで描いているが、その効果は抜群である。西見がじわじわと引き込まれいく過程が、実際にアニメを見ている人の気持ちとなって重なり、西見の心情をリアルに感じさせてくれる。それには動画の圧倒するエネルギーと、一発撮りにこだわったドラムの音の圧力があったからこそだ。
この瞬間だけでも、テレビアニメの歴史に残していいだけの堂々たる名シーンである。

いま学園ものは、題材で描かれる。

キャラクター創作についてもすでに飽和状態で、よほどの場外ホームランを打たない限り、現在進行形で量産されるおびただしいキャラクターたちの中に埋没してしまう。キャラクターのあらゆる系統は提出済みで、そこから新しく何かを提示するのはもはや不可能。「できるものなら、やってみろ」状態だ。
だからこそ、何をモチーフにして学園物語を描くべきか。あるいは主人公に何をさせるべきか。漫画雑誌を手に取ると、そのモチーフの探索に作家も編集者も苦労している様が見えてくる。野球やサッカー、バスケットといったメジャーなスポーツの傑作はすでに積み上げるほど描かれてきた。どう切り口を変えてみても、どこかの誰かがすでに足跡を残している。今の漫画家は、過去の作家が描き散らかして雑草すら残っていない荒野で、新しい何かを描き、結果的に読者に「面白い!」と言わせねばならないのだ。
ある作家は女の子に麻雀をやらせ、ある作家は女の子にギターを持たせ、ある作家は女の子を自転車に乗せ、ある作家は女の子に水泳をさせ……。

だからこそ題材なのである。題材が持っている専門性が否応なくその物語を、あるいはキャラクターをそれ以外の多くの作品と違う道を歩ませる。例えば、麻雀をはじめた人と、ギターをはじめた人とは、向かう結末はまるっきり違うだろう。あるいは、その先に見えてくる風景も違ってくるだろう。登山家と航海士が見る風景が同じはずはない。また専門性が読者に新鮮な知識を与えてくれるはずだ(最終的には、読者にどんな風景を見せられるか、が勝負である。そこで「あの作品とあまり変わらない」と思われたら、もうその作品には価値はない)。
だからいかに題材を描くか、題材を探すか、がいま漫画/アニメにおいて重大なテーマになっているのだ。その題材でいかに多くの人に影響を与えられるか、『坂道のアポロン』を見てジャズに興味を持った、ジャズをやってみようと思わせられるかが、ヒットを切り分けるポイントとなっている。
『坂道のアポロン』が見つけ出したテーマはジャズ。時代は60年代。たった50年前とはいえ、現代とは見える風景もキャラクターのイメージも違う。気合いたっぷりに描いたジャズの演奏シーンも圧巻だ。この組み合わせは、やはり新鮮だ。ファーストインプレッションは文句なしの満点だ。この先に良き展開が、そして良き結末が描かれることに期待しよう。
作品データ
監督:渡辺信一郎 原作:小玉ユキ
脚本:加藤綾子・柿原優子 キャラクターデザイン:結城信輝 総作画監督:山下喜光
美術監督:上原伸一 美術設定:上原成代 色彩設定:鎌田千賀子
編集:廣瀬清志 撮影監督:武原健二 録音監督:はたしょう二 音楽:菅野よう子
アニメーション制作:MAPPA/手塚プロダクション
出演:木村良平 細谷佳正 南里侑香 諏訪部順一
○ 北島善紀 岡本信彦 村瀬歩 佐藤亜美菜
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