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■2010/08/11 (Wed)
評論■
4・物語の全体像を作る
はじめに命題として掲げたが、最近のアニメは長大な物語を作ることが不得手になっている。それはなぜなのか。
単純に答えを言えば、物語の構造の作り方、それから発展させるやり方を誰からも学んでいないからだ。繰り返し書くが、「物語は思ったとおり書けばいい。自分の感性だけを信じて奔放に書けばいい」という日教組教育的な創作論にしがみついていたら、絶対に行き詰るし、傑作が誕生する期待はやはりできない(これで傑作ができるのは本物の天才だけ。「自分の感性」あるいは「自分の個性」などというものは徹底的に疑い、見下し、物語と自身を分析的に捉えて作品を作るべきである。「個性」をむやみに賛美する日教組教育的思考は、創作の世界において有害でしかない)。
創作は理性的に構造を組立て、周到に準備するしたたかさが必要だ。読者を物語世界へと誘い、熱狂させ、クライマックスへと感情を導いていく。そのためには、規則正しい順序、段階を踏んでいくべきである。
それではどのように考えて物語に順序立てを作っていくべきなのか。
まず基本的な思考として、物語は大雑把に「ドラマ」と「解説」の二つの局面により分けられる。これに、要所要所の見せ場となる「アクション」を付け足してもいいだろう。
物語はまず、「解説」という基礎段階を踏んでいくべきなのである。いきなり「ドラマ」を作ってはならない。いきなり「ドラマ」を物語上で演出してみせても、それがどんなに素晴らしい展開で、役者の見事な演技力が加わっても、何となく見ている側の感情を上滑りしてしまう。なぜならば、主人公たちが置かれている立場がわからないからだ。
単純な例として、主人公は不治の病である。間もなく命が尽きようとしているが、まさにその時、運命の恋をする……。この「主人公は不治の~恋をする」までが「解説」の部分だ。これを一気に端折って、主人公の死というクライマックスを描いても、見ているほうは「何が起きた?」とぽかんと放り出されるだけだ。まず「解説」、それに至った経緯を語る必要があるわけだ。
「解説」は物語がどんな世界を持ち、主人公がどんな立場であるのか、「ドラマ」を描くための土台作りのような作業だ。
ところで、「解説」はシンプルでなければならない。ダメな例は(SF映画にありがちだが)冒頭テロップで長々と「解説」してしまうことだ。あれで解説したつもりになってはならない。長いテロップを読むのは重労働だし、固有名詞が多く、話が複雑になってくると、テロップが画面に現れている数秒の間にすべてを理解するのが難しくなってくる。SF映画の約束事になっているテロップだが、基本、シンプルであるべきだ。映画の雰囲気作りというべきか、簡単な前置きで終わらせるべきである。
それでは「わかりやすい」「理解しやすい」解説とはどんな解説なのか。単純率直な手法は、「解説」を主人公の「体験」の中に全て描くことである。主人公の体験の中に、物語上の何もかもが説明されるから、読者は主人公と一緒に物語世界の背景を学ぶことができる。物語世界が特殊であると、主人公と一緒に体験していく過程がちょっとした冒険気分になって、楽しい気持で物語を惹き付けていられる。
『鋼の錬金術師』を例に当てはめていくと、主人公エドが体験していく過程が、物語の背景を暴きだす過程と捉えることができる。
まずエドはリオールへ旅立ち、カルト教団のコーネルと戦う(→第3話邪教の町)。この段階で読者は『錬金術師』と呼ばれるものの能力と社会的立場を理解できるはずだ。あるいは、主人公エドがどんな立場であるのかも。それから、コーネルとの戦いを通して「賢者の石」がどんなものであるかも解説される。
次に、エドとアルの過去に物語は遡っていき、2人の現在に至る境遇が解説される(→第2話はじまりの日)。エドとアルがいかにして体を失ったのか。《人体練成》という重要なキーワードがここで登場する。
その次に登場したのはキメラだ(→第4話錬金術師の苦悩)。キメラとは何か、キメラをどのように捉えるべきなのか。ただ解説だけではなく、どう感じるべきか、というところまでしっかり描かれている。
キメラのエピソードが終わると、今度はスカーの登場だ(→第5話哀しみの雨)。スカーの登場によって、物語の大きな世界観である、過去の戦争についてが解説される。過去に何があったのか、それからアメストリスという国についてが改めて解説される。
スカーが去っていくと、次は物語上でも最も重要な《第5研究所》だ(→第8話第5研究所)。《第5研究所》において賢者の石に関する秘密がようやく見え始め、これが物語後半に向けての大きな伏線となる。第5研究所は一度通過して終りではなく、物語のうちで何度も繰り返され、その重要度が確かめられる場所である。
こうして見ていくと、『鋼の錬金術師』は順当に物語に必要な解説を、読者の理解を推し量りながら進めていった、ということがわかる。リオールの戦いの前にキメラのエピソードがあってはならないし、当然だがスカーのエピソードが前にあってはならない。単なる「アクション」でも「ドラマ」でもあってもならない。「解説」を各エピソードの中に込めることが大切なのだ。
読者にどのように物語の背景にある多様で複雑なものを了解させていくか、思考すべき過程を提示していくことが創作において必要なのである。
ここで、2つのダメな例を挙げたいと思う。
『電脳コイル』と『シャングリ・ラ』の2作品だ。
このどちらも、物語の後半になって大慌てで「解説」を突っ込んだ作品だ。前半部分はゆったりと進んで行ったのに、物語の最後、クライマックスの直前になって、「実は……」と物語の核心が一気に詰め込み状態で解説される。しかも、そのほとんどが台詞だけによる解説である。
すでに書いたとおりに、映画冒頭に長々とテロップを流しても、まず誰も理解できない。同じ理由で、台詞だけの解説を延々流されても、見ている人は何が起きたのかさっぱりわからない。理解力によるが、人によっては物語が破綻している、と捉えられてしまう場合もある。物語の大切なところで読者を放り出すような解説を繰り広げ、その後にクライマックスを描かれても、いったいどういった理由で何が起きたのか、どう捉えるべきなのかさっぱりわからない。そこに感動があるわけがなく、なんとなく白けた気分でせっかくのエンディングが空振りしてしまう。
酷かったのは『シャングリ・ラ』のほうだ。物語の後半になって解説の詰め込みが始まるのだが、その解説の中心に主人公がいないのである。つまり、主人公は自分がどんな立場にあるのか知らないまま、物語の終わりに向かっていってしまったのである。見る側にとっても、主人公がどういう立場にいるか提示されていない状態であるから、主人公の心理に感情移入などできるはずもない。そんな状態のまま、クライマックス、エンディングに突入してしまったのだから、物語の重さなどどこにもなく、茫然とするしかないのである。
なぜ、『電脳コイル』や『シャングリ・ラ』のような状態に陥ってしまうのか。第一に、それまでの過程が、物語全体の構造を解説するのに何の必然性を持っていなかったからだし、あるいは作り手が必然性を与えようと考えなかったからだ。
第二に物語全体を俯瞰しながら物語を綴っていくバランス感覚。この2つが欠落すると、「前半は面白かったのに後半は尻すぼみに萎んでいく」という最近のアニメにありがちな失敗をするのだ。
前回:余談・父性に取り囲まれた物語
次回:読者の心理を操作する
ところで、映画の宣伝で一時「ラスト15分の衝撃」という文句が流行ったことがある(今でも時々見かけるが)。
実際に見ると、確かに驚きである。
何せ、それまでの物語展開を全く無視して、何の脈絡も蓋然性もなく、唐突極まりない「驚きの結末」が提示されるのである。確かに驚きだが、心地よい方の驚きではない。むしろ怒りしか沸かない。
物語の結末は、それまでに提示されたプロットの終着する場所である。その結末に至るのには、理由と必然があるのである。
それを無視して、放り出したような結末を描いたら、確かに「驚きの結末」になるが「じゃあ、それまでの話はいったい何だったの?」ということになりかねない。
物語に変な突飛さはいらない。突飛さを描くならば、それ以前から周到に準備し、突飛な展開に至る蓋然性を持たねばならない。本当に意外な結末と言うのは、読者の想定を上回ったところにあるのだ。
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