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■2009/08/27 (Thu)
映画:日本映画■
荒野に、取り残されたような家が一つ。すでに荒らされて、家主が家の前に倒れていた。
家主は額を一発撃ち抜かれて死んでいた。
そんな荒んだ場所を背景にしながら、男が一人、静けさを讃えて座っていた。男の前には鍋が用意され、鍋は焚き火の炎に当てられていた。鍋の中の豚肉や焼き豆腐が、いよいよぐつぐつと踊り始めようとしている。
男の背後に、気配が忍び寄った。一人、二人、三人。リッチとその手下たちだ。
リッチたちは気配を隠そうとせず、堂々と拍車の音を鳴らし男歩み寄り、撃鉄をあげる音を聞かせた。
「ピリンゴ。探したぜ。お前もここで終わりだ」
リッチは今にも上擦りそうな声で、勝利を宣言した。
そのとき、砂を交えた風に、鐘の音がひっそりと混じった。
「何の音だ?」
リッチがにわかに動揺を示して、音の方角を探ろうとした。
「祇園精舎の鐘の音」
ピリンゴがようやく口を開いた。だがその眼差しは、ピリンゴを取り囲む男たちではなく、鍋の具合に注がれている。
「なに?」
「源氏と平家を知っているか? 遠い島国で、赤と白に分かれて戦った」
ピリンゴは淡々とした静けさを纏いながら、掌の中の卵をいじった。
「どっちが勝った。白か」
リッチはピリンゴを追い詰めるように、二歩、接近した。
「決戦の地は壇ノ浦。赤い平家は、白い源氏に破れた。その物語は、このように始まる。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す
奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
偏に風の前の塵に同じ……」
タイトルに『スキヤキ』の名前が入れられたのは、西部劇の通称が『マカロニ』だからだ。成程『スキヤキ』の呼称がぴったりの、ごった煮の映画だ。
宿場町“根畑(ネヴァダ)”。
そこは不法者に占拠されて、治安を失った町だった。
中心となるのは平家と源氏とよばれる二つの勢力で、毎日のように殺伐とした殺し合いを繰り広げていた。
そんな宿場町に、一人の流れ者がやってくる。男は決して名を名乗らず、宿場町の渾沌を浄化しようと立ち上がる。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』はそんな冒頭で始まる西部劇映画だ。
物語の骨格はダシール・ハメットの『血の収穫』をベースにしている。
かつて黒澤明監督が『用心棒』の原作に採用した作品で、いまやハードボイルド・アクションドラマのオリジナルとして掲げられている小説だ。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』はあまりにも奇抜な設定とシチュエーション満載で描かれるが、物語自体は、躊躇いもなく王道を突き進んだ映画だ。
“静”から“動”へ、渾沌へと流れていく描写は、三池監督の特徴だ。三池監督には、かつて職業映画監督が持っていた気質を感じる。今、自在にエンターティンメントを作れる数少ない映画監督だ。
「SF映画は英語圏文化の産物であって、日本語で撮影できない」
とは某映画監督の言葉だ。
同じ理由で、西部劇も英語圏文化の産物であって、銃社会の歴史を持たない日本では、西部劇は撮影できない。
もし日本語で制作しても、奇怪なイミテーションができあがるに決まっている。
アメリカがSFという舞台を採用しなければ、チャンバラ映画『スター・ウォーズ』を製作できなかったのと、同じ理由だ。
だから『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は、日米の文化が奇怪な感性が入り混じって作られている。
出演俳優のほとんどは日本人だが、英語で喋り、西洋の衣装を身にまとっている。
後半に進むほど、コメディタッチ(開き直り)の度合いが強くなる。そもそもまともでない設計の映画に、まともな展開を求めてはいけない。コメディともシリアスとも言わない、形容しづらい映画だ。
映画『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は、あまりにも独特の感性で製作された映画だ。
舞台となる宿場町の風景は細部まで描かれて、重量感のあるリアリズムで描かれている。
だが、何かがおかしい。いや、全てがおかしい。
そもそも、日本人俳優が英語で演技している時点で、『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は奇怪な映画として運命を宿命付けられているのだ。
だから映画制作者たちは、気持ちのいいくらい、開き直って奇怪なものを奇怪なものとして描いている。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の感性は、とどめる物はなく放出され、それが見事なまでの痛快さを演出している。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』が本当に融合させたのは、日米の文化ではなく、映画的リアリズムと、多分、おふざけだ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:三池崇史 原作:ダシール・ハメット
音楽:遠藤浩二 脚本:NAKA雅MURA
出演:伊藤英明 佐藤浩市 伊勢谷友介 安藤政信
堺雅人 小栗旬 田中要次 石橋貴明
木村佳乃 内田流果 溝口琢矢 稲宮誠
クエンティ・タランティーノ
家主は額を一発撃ち抜かれて死んでいた。
そんな荒んだ場所を背景にしながら、男が一人、静けさを讃えて座っていた。男の前には鍋が用意され、鍋は焚き火の炎に当てられていた。鍋の中の豚肉や焼き豆腐が、いよいよぐつぐつと踊り始めようとしている。
男の背後に、気配が忍び寄った。一人、二人、三人。リッチとその手下たちだ。
リッチたちは気配を隠そうとせず、堂々と拍車の音を鳴らし男歩み寄り、撃鉄をあげる音を聞かせた。
「ピリンゴ。探したぜ。お前もここで終わりだ」
リッチは今にも上擦りそうな声で、勝利を宣言した。
そのとき、砂を交えた風に、鐘の音がひっそりと混じった。
「何の音だ?」
リッチがにわかに動揺を示して、音の方角を探ろうとした。
「祇園精舎の鐘の音」
ピリンゴがようやく口を開いた。だがその眼差しは、ピリンゴを取り囲む男たちではなく、鍋の具合に注がれている。
「なに?」
「源氏と平家を知っているか? 遠い島国で、赤と白に分かれて戦った」
ピリンゴは淡々とした静けさを纏いながら、掌の中の卵をいじった。
「どっちが勝った。白か」
リッチはピリンゴを追い詰めるように、二歩、接近した。
「決戦の地は壇ノ浦。赤い平家は、白い源氏に破れた。その物語は、このように始まる。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す
奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
偏に風の前の塵に同じ……」
タイトルに『スキヤキ』の名前が入れられたのは、西部劇の通称が『マカロニ』だからだ。成程『スキヤキ』の呼称がぴったりの、ごった煮の映画だ。
宿場町“根畑(ネヴァダ)”。
そこは不法者に占拠されて、治安を失った町だった。
中心となるのは平家と源氏とよばれる二つの勢力で、毎日のように殺伐とした殺し合いを繰り広げていた。
そんな宿場町に、一人の流れ者がやってくる。男は決して名を名乗らず、宿場町の渾沌を浄化しようと立ち上がる。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』はそんな冒頭で始まる西部劇映画だ。
物語の骨格はダシール・ハメットの『血の収穫』をベースにしている。
かつて黒澤明監督が『用心棒』の原作に採用した作品で、いまやハードボイルド・アクションドラマのオリジナルとして掲げられている小説だ。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』はあまりにも奇抜な設定とシチュエーション満載で描かれるが、物語自体は、躊躇いもなく王道を突き進んだ映画だ。
“静”から“動”へ、渾沌へと流れていく描写は、三池監督の特徴だ。三池監督には、かつて職業映画監督が持っていた気質を感じる。今、自在にエンターティンメントを作れる数少ない映画監督だ。
「SF映画は英語圏文化の産物であって、日本語で撮影できない」
とは某映画監督の言葉だ。
同じ理由で、西部劇も英語圏文化の産物であって、銃社会の歴史を持たない日本では、西部劇は撮影できない。
もし日本語で制作しても、奇怪なイミテーションができあがるに決まっている。
アメリカがSFという舞台を採用しなければ、チャンバラ映画『スター・ウォーズ』を製作できなかったのと、同じ理由だ。
だから『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は、日米の文化が奇怪な感性が入り混じって作られている。
出演俳優のほとんどは日本人だが、英語で喋り、西洋の衣装を身にまとっている。
後半に進むほど、コメディタッチ(開き直り)の度合いが強くなる。そもそもまともでない設計の映画に、まともな展開を求めてはいけない。コメディともシリアスとも言わない、形容しづらい映画だ。
映画『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は、あまりにも独特の感性で製作された映画だ。
舞台となる宿場町の風景は細部まで描かれて、重量感のあるリアリズムで描かれている。
だが、何かがおかしい。いや、全てがおかしい。
そもそも、日本人俳優が英語で演技している時点で、『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』は奇怪な映画として運命を宿命付けられているのだ。
だから映画制作者たちは、気持ちのいいくらい、開き直って奇怪なものを奇怪なものとして描いている。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の感性は、とどめる物はなく放出され、それが見事なまでの痛快さを演出している。
『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』が本当に融合させたのは、日米の文化ではなく、映画的リアリズムと、多分、おふざけだ。
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作品データ
監督・脚本:三池崇史 原作:ダシール・ハメット
音楽:遠藤浩二 脚本:NAKA雅MURA
出演:伊藤英明 佐藤浩市 伊勢谷友介 安藤政信
堺雅人 小栗旬 田中要次 石橋貴明
木村佳乃 内田流果 溝口琢矢 稲宮誠
クエンティ・タランティーノ
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