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■2009/08/27 (Thu)
映画:日本映画■
春野一は、田圃の脇の道を走っていた。
目の前の線路を、電車が駆け抜ける。
電車の中には、春野一が片思いをし続けた女の子が乗っていた。
その春、片思いだった女の子は転校してしまった。
一度も言葉を交わさないまま、春野一は失恋した。
冒頭の二つのデジタルカット。この二つのシーンだけでも映画の色調を解説している。デジタルの効果についても考えさせられる。デジタルは仰々しいエフェクトが全てではなく、作家の夢想世界を具現化するのにも役立つ。
春野幸子は、大きな自分が、自分を眺めるのに悩まされていた。
大きな自分は、どこにでも現れ、気付くと自分を見下ろしている。
いったいいつになったら、あの大きな自分が消えてくれるのか、春野幸子は考えていた。
恐怖映画の雰囲気で語られる、入れ墨と血まみれの男。だが、その頭にはうんこ。『茶の味』は小さな断片になった物語(キャラクター?)がいくつも並んでいるイメージだ。通常の連続した物語と少し違う趣向で作られている。
ある日、幸子は、アヤノおじさんと春野一の二人が話しているのを聞く。
「あの、お前がよく行っている瓢箪池ってあるだろ。あそこさ、昔、森だったんだ。“呪いの森”って言われててさあ、俺が小学校6年生の頃、俺、あそこで初めての野糞デビューしたんだよな」
その野糞を切っ掛けに、入れ墨をした血まみれの男が、アヤノおじさんの前に現われるようになった。
血まみれの男は、アヤノおじさんが逆上がりができるようになった瞬間、姿を消した。
春野幸子は、自分も逆上がりができるようになったら、大きな自分も消えるのでは、と考えるようになる。
幸子は、誰もいない空き地に鉄棒を見つける。物語とは主人公が何かを思い立ち、達成するまでの過程と経過と位置づけるならば、“逆上がり”はキーとなる。だが、この映画の場合、本質はもう少し別のところにありそうだ。
一方、春野一の高校に、女の子が転校してきた。
鈴石アオイ。
美人で、勝気な女の子だった。それに、趣味は自分と同じ囲碁だった。
春野一に、新たな恋の予感が巡ってきた。
漫画家のおじいちゃんは、アニメーター美子の師匠という設定。美子の下に、時々「アニメ監督」が訪れるが、その監督がまさかの庵野秀明。動画を見ている様子は、やはり自然だ。
映画は、春野一家の周辺を、静かに、つぶさに描いていく。
大きなドラマはなく、ただ過ぎ去って行く日々をのんびりと眺めていく。
ただし、ありふれた日常の物語とは少し違う。
映画の登場人物たちは、どこか不思議な人たちばかりだ。
大きな自分に見詰められている幸子。
かつて漫画家だったおじいちゃん。
アニメーターのお母さんの美子。
そんな一家のもとに集まり、訪れる人たちはみんなどこか変わっている。
映画は、そんな人々の日常を強調的に表現するわけでもなく、ドラマを組み立てるわけでもなく、のんびりとした時間の経過を描いていく。
加瀬亮、土屋アンナ、松山ケンイチ、轟木一騎(エヴァンゲリヲン新劇場版の監督助手)……改めて出演者を見ると、後に出世した人達がたくさん顔を並べている。そう思うと、なかなか貴重な作品だ。
一言で形容し、カテゴライズしづらい映画だ。
家族映画ではないし、青春映画ではないし、もちろんコメディ映画でもないし、恋愛映画でもなさそうだ。
“シュール”という便利な言葉はあるが、それはカテゴライズに失敗した言葉であって、何か特定の範疇を指す言葉ではない。
まず、物語の構成自体、通俗的な映画の手法とかなり違っている。
言葉はなに一つ解説せず、登場人物同士がどう連なっているのかほとんどわからない。
ドラマチックなクライマックスなども、もちろんない。
ただただ、とてつもなく不思議な景色が映画全体に溢れている。
この映画の感性を理解するのに、言葉は不十分だし、言葉の無力さを痛感せずに入られない。
とにかく自身の目で映画を見て、自身の感性で“何か”を感じるべきだろう。
映画記事一覧
作品データ
監督・原作・脚本:石井克人
音楽:リトルテンポ
出演:坂野真弥 佐藤貴広 浅野忠信 手塚理美
我修院達也 土屋アンナ 中嶋朋子 三浦友和
轟木一騎 加瀬亮 庵野秀明 岡田義徳
寺島進 武田真治 森山開次 松山ケンイチ
目の前の線路を、電車が駆け抜ける。
電車の中には、春野一が片思いをし続けた女の子が乗っていた。
その春、片思いだった女の子は転校してしまった。
一度も言葉を交わさないまま、春野一は失恋した。
冒頭の二つのデジタルカット。この二つのシーンだけでも映画の色調を解説している。デジタルの効果についても考えさせられる。デジタルは仰々しいエフェクトが全てではなく、作家の夢想世界を具現化するのにも役立つ。
春野幸子は、大きな自分が、自分を眺めるのに悩まされていた。
大きな自分は、どこにでも現れ、気付くと自分を見下ろしている。
いったいいつになったら、あの大きな自分が消えてくれるのか、春野幸子は考えていた。
恐怖映画の雰囲気で語られる、入れ墨と血まみれの男。だが、その頭にはうんこ。『茶の味』は小さな断片になった物語(キャラクター?)がいくつも並んでいるイメージだ。通常の連続した物語と少し違う趣向で作られている。
ある日、幸子は、アヤノおじさんと春野一の二人が話しているのを聞く。
「あの、お前がよく行っている瓢箪池ってあるだろ。あそこさ、昔、森だったんだ。“呪いの森”って言われててさあ、俺が小学校6年生の頃、俺、あそこで初めての野糞デビューしたんだよな」
その野糞を切っ掛けに、入れ墨をした血まみれの男が、アヤノおじさんの前に現われるようになった。
血まみれの男は、アヤノおじさんが逆上がりができるようになった瞬間、姿を消した。
春野幸子は、自分も逆上がりができるようになったら、大きな自分も消えるのでは、と考えるようになる。
幸子は、誰もいない空き地に鉄棒を見つける。物語とは主人公が何かを思い立ち、達成するまでの過程と経過と位置づけるならば、“逆上がり”はキーとなる。だが、この映画の場合、本質はもう少し別のところにありそうだ。
一方、春野一の高校に、女の子が転校してきた。
鈴石アオイ。
美人で、勝気な女の子だった。それに、趣味は自分と同じ囲碁だった。
春野一に、新たな恋の予感が巡ってきた。
漫画家のおじいちゃんは、アニメーター美子の師匠という設定。美子の下に、時々「アニメ監督」が訪れるが、その監督がまさかの庵野秀明。動画を見ている様子は、やはり自然だ。
映画は、春野一家の周辺を、静かに、つぶさに描いていく。
大きなドラマはなく、ただ過ぎ去って行く日々をのんびりと眺めていく。
ただし、ありふれた日常の物語とは少し違う。
映画の登場人物たちは、どこか不思議な人たちばかりだ。
大きな自分に見詰められている幸子。
かつて漫画家だったおじいちゃん。
アニメーターのお母さんの美子。
そんな一家のもとに集まり、訪れる人たちはみんなどこか変わっている。
映画は、そんな人々の日常を強調的に表現するわけでもなく、ドラマを組み立てるわけでもなく、のんびりとした時間の経過を描いていく。
加瀬亮、土屋アンナ、松山ケンイチ、轟木一騎(エヴァンゲリヲン新劇場版の監督助手)……改めて出演者を見ると、後に出世した人達がたくさん顔を並べている。そう思うと、なかなか貴重な作品だ。
一言で形容し、カテゴライズしづらい映画だ。
家族映画ではないし、青春映画ではないし、もちろんコメディ映画でもないし、恋愛映画でもなさそうだ。
“シュール”という便利な言葉はあるが、それはカテゴライズに失敗した言葉であって、何か特定の範疇を指す言葉ではない。
まず、物語の構成自体、通俗的な映画の手法とかなり違っている。
言葉はなに一つ解説せず、登場人物同士がどう連なっているのかほとんどわからない。
ドラマチックなクライマックスなども、もちろんない。
ただただ、とてつもなく不思議な景色が映画全体に溢れている。
この映画の感性を理解するのに、言葉は不十分だし、言葉の無力さを痛感せずに入られない。
とにかく自身の目で映画を見て、自身の感性で“何か”を感じるべきだろう。
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作品データ
監督・原作・脚本:石井克人
音楽:リトルテンポ
出演:坂野真弥 佐藤貴広 浅野忠信 手塚理美
我修院達也 土屋アンナ 中嶋朋子 三浦友和
轟木一騎 加瀬亮 庵野秀明 岡田義徳
寺島進 武田真治 森山開次 松山ケンイチ
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