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■2009/08/29 (Sat)
映画:日本映画■
雪は降り止む気配はなく、すでに随分な厚みを作り始めている。
谷を背にした小さな村は、雪に閉ざされ、白一色に包まれようとしている。
そんな雪の村に、薬箱を背負った男が一人、立ち入っていく。銀髪の蟲師、ギンコだ。
冒頭の雪山のシーンで登場する庄屋は、映画監督のりんたろうが演じている。ただし台詞なしでクローズアップのみ。表情だけだが、なかなかの存在感を放つ。大友克洋繋がりだろう。
庄屋の居間に行くと、男達が囲炉裏を囲んで談笑している声が聞こえた。
ギンコは居間に上がっていき、おずおずと男達に声をかける。
「蟲師のギンコと申します。一夜の軒下を借り受け、しのがせてもらいます」
ギンコは庄屋の主に感謝を告げて、厩に引っ込もうとした。
だが、庄屋の女将が、ギンコを奥の部屋へと誘う。
「実は、診てやってもらいたい者がおるのです」
女将は静かに、秘密を打ち明けるように、切り出した。
そこは深い谷の底の村。風もとおらぬ、静かな村だ。
村では何年かに一度、大雪が降り出すと、しんとして、物音一つしなくなる。静けさが極まると、気付けば話し声が聞こえなくなってしまうという。
昔からそれは、蟲のせいだと言われていた。
真火は原作の設定では少年だったが、少女に変えられた。原作は女流作家らしいショタ趣味で描かれていたが、映画版は男性の監督で、しかも実写では漫画のショタは描けぬと判断されたのだろう。
庄屋の家でも、小間使いの何人かの耳が聞こえなくなっていた。
ギンコは、小間使いの耳を診断して、すぐに“吽”と呼ばれる蟲の仕業であると見抜く。
“阿吽”の“吽”。音を喰う蟲だ。
ギンコはただちに治療薬を作り、小間使いの耳から“吽”を取り除く。
ギンコの手際の良さに感心した庄屋の女将は、「実は」ともうひとつ秘密を打ち明ける。
「もう一人いるんです。それが、他の者とは、なにやら出方が違っておりまして。……両耳を病んでしまった者がおるのです」
屋敷のずっと奥に、秘密の座敷が隠されていた。
そこに、耳を塞ぐ幼い少女がいた。
少女の額には、四本の角が生えていた。
SFの巨匠が日本の曖昧と言われる感性をどう表現するのか?見てみると、なるほど、原作を解体し、周辺世界をいちから組み上げている。大友克洋流のアプローチ方法を見る絶好の機会だ(大友克洋が映画に他人の原作を扱ったのは、この作品が初めて)。
『蟲師』が舞台とするのは日本だが、どこであるか不明である。
時代もいつの時代に属しているのか、特定できず判然としない。
だが『蟲師』が描いているのは、紛れもなく日本だ。
『蟲師』は、日本人がずっと深いところに感じ、決して失われない精神を描いている。
和の風景が大切に描かれている。光と影のくっきりとした対立。淡幽の屋敷では、常のぼんやりとした影が漂う様が描かれている。大友作品で、こういった中間色の使い方は珍しいはずだ。
『蟲師』には、映画全体に深い影が漂っている。
物語の中で“常闇”と表現される闇は、どこまでも深く、恐ろしく、それでいて静謐に満ちている。
まるで凪いだ水面のようにすべらかで、時々、ゆるやかな風に波紋を浮かべるように、『蟲師』の闇は静かな沈黙を湛えている。
“常闇”が生み出す闇はとてつもなく深いが、そこから感じるのは、恐怖がすべてではない。不思議なぬくもりであり、懐かしさであり、哀しげにさせるようなものが込められている。
それは日本人がずっと古くから、いや、日本の大地が記憶し、日本人に提供し続けてきた感性だ。
物語の中心はほとんどが山や村。そういった場所に漂う影の暗さを意識して描かれている。原作は作者の感性のまま自由に世界観が構築され、物語が作り上げられていった。実写劇場版は、大友克洋らしい論理的構築で、物語の組み換えを行っている。電気が出てくる場面など、実に象徴的だ。『蟲師』で描かれた風景も、蟲も、蟲師も、いつか時代の狭間に失われていく運命を描いている。
『蟲師』は妖怪奇譚でもある。
『蟲師』に登場する“蟲”はどこにでもいて、自由に漂っている。
時々人間に取り付き、病を引き起こすが、決して人間を憎み、滅ぼそうとは考えていない。
ただそこに漂い、あるときには人間と共存するものとして描かれている。
『蟲師』が描く“蟲”は、かつて日本中に潜んでいた妖怪の姿を連想させる。
現代の妖怪は、コミックや西洋式唯物主義に毒されて、ただの商業キャラクターに成り下がってしまった。
だが『蟲師』が描いた“蟲”は、現代の風潮に正面から反逆し、日本が土着的に備えていた幽玄さと呼ぶべきものを甦らせている。
眩い白色灯の光が都市を覆い、騒がしいばかりの西洋文化が押し寄せてくる現代においても、我々の精神の底には『蟲師』に描かれたような幽玄さが、今も残っているのだ。
原作の淡幽は穏やかだが芯の強い女性として描かれていた。実写劇場版を演じた蒼井優は、漫画版より幼く、可憐なイメージ。和装姿が実に美しかった。
映画『蟲師』の物語はあまりも暗く、ひっそりと沈黙している。
だが、『蟲師』は恐怖映画ではない。
闇が深いからこそ、ふっと射してくる光が美しく際立ってくる。
我々は、日本が土着的に備えていた闇を、通俗的な怪談物語に貶め、消費してきた。
現代人の多くは、暗黒や霊的なものに接しても、もはやテレビで見たインチキ心霊番組しか連想できなくなってしまった。
心の底からぞっとするが、穏やかで、ぬくもりのある闇。
あまりにも静かで、もの悲しげな闇。
『蟲師』の描く日本は、どこであるかわからない。だが日本人がかつて持っていた精神を、はっきりした形で描き、呼び覚まそうとする。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:大友克洋 原作:漆原友紀
音楽:配島邦明 脚本:村井さだゆき
出演:オダギリジョー 蒼井優 江角マキコ 大森南朋
○○○りりィ 李麗仙 クノ真季子 守山玲愛
○○○稲田英幸 沼田爆 りんたろう
谷を背にした小さな村は、雪に閉ざされ、白一色に包まれようとしている。
そんな雪の村に、薬箱を背負った男が一人、立ち入っていく。銀髪の蟲師、ギンコだ。
冒頭の雪山のシーンで登場する庄屋は、映画監督のりんたろうが演じている。ただし台詞なしでクローズアップのみ。表情だけだが、なかなかの存在感を放つ。大友克洋繋がりだろう。
庄屋の居間に行くと、男達が囲炉裏を囲んで談笑している声が聞こえた。
ギンコは居間に上がっていき、おずおずと男達に声をかける。
「蟲師のギンコと申します。一夜の軒下を借り受け、しのがせてもらいます」
ギンコは庄屋の主に感謝を告げて、厩に引っ込もうとした。
だが、庄屋の女将が、ギンコを奥の部屋へと誘う。
「実は、診てやってもらいたい者がおるのです」
女将は静かに、秘密を打ち明けるように、切り出した。
そこは深い谷の底の村。風もとおらぬ、静かな村だ。
村では何年かに一度、大雪が降り出すと、しんとして、物音一つしなくなる。静けさが極まると、気付けば話し声が聞こえなくなってしまうという。
昔からそれは、蟲のせいだと言われていた。
真火は原作の設定では少年だったが、少女に変えられた。原作は女流作家らしいショタ趣味で描かれていたが、映画版は男性の監督で、しかも実写では漫画のショタは描けぬと判断されたのだろう。
庄屋の家でも、小間使いの何人かの耳が聞こえなくなっていた。
ギンコは、小間使いの耳を診断して、すぐに“吽”と呼ばれる蟲の仕業であると見抜く。
“阿吽”の“吽”。音を喰う蟲だ。
ギンコはただちに治療薬を作り、小間使いの耳から“吽”を取り除く。
ギンコの手際の良さに感心した庄屋の女将は、「実は」ともうひとつ秘密を打ち明ける。
「もう一人いるんです。それが、他の者とは、なにやら出方が違っておりまして。……両耳を病んでしまった者がおるのです」
屋敷のずっと奥に、秘密の座敷が隠されていた。
そこに、耳を塞ぐ幼い少女がいた。
少女の額には、四本の角が生えていた。
SFの巨匠が日本の曖昧と言われる感性をどう表現するのか?見てみると、なるほど、原作を解体し、周辺世界をいちから組み上げている。大友克洋流のアプローチ方法を見る絶好の機会だ(大友克洋が映画に他人の原作を扱ったのは、この作品が初めて)。
『蟲師』が舞台とするのは日本だが、どこであるか不明である。
時代もいつの時代に属しているのか、特定できず判然としない。
だが『蟲師』が描いているのは、紛れもなく日本だ。
『蟲師』は、日本人がずっと深いところに感じ、決して失われない精神を描いている。
和の風景が大切に描かれている。光と影のくっきりとした対立。淡幽の屋敷では、常のぼんやりとした影が漂う様が描かれている。大友作品で、こういった中間色の使い方は珍しいはずだ。
『蟲師』には、映画全体に深い影が漂っている。
物語の中で“常闇”と表現される闇は、どこまでも深く、恐ろしく、それでいて静謐に満ちている。
まるで凪いだ水面のようにすべらかで、時々、ゆるやかな風に波紋を浮かべるように、『蟲師』の闇は静かな沈黙を湛えている。
“常闇”が生み出す闇はとてつもなく深いが、そこから感じるのは、恐怖がすべてではない。不思議なぬくもりであり、懐かしさであり、哀しげにさせるようなものが込められている。
それは日本人がずっと古くから、いや、日本の大地が記憶し、日本人に提供し続けてきた感性だ。
物語の中心はほとんどが山や村。そういった場所に漂う影の暗さを意識して描かれている。原作は作者の感性のまま自由に世界観が構築され、物語が作り上げられていった。実写劇場版は、大友克洋らしい論理的構築で、物語の組み換えを行っている。電気が出てくる場面など、実に象徴的だ。『蟲師』で描かれた風景も、蟲も、蟲師も、いつか時代の狭間に失われていく運命を描いている。
『蟲師』は妖怪奇譚でもある。
『蟲師』に登場する“蟲”はどこにでもいて、自由に漂っている。
時々人間に取り付き、病を引き起こすが、決して人間を憎み、滅ぼそうとは考えていない。
ただそこに漂い、あるときには人間と共存するものとして描かれている。
『蟲師』が描く“蟲”は、かつて日本中に潜んでいた妖怪の姿を連想させる。
現代の妖怪は、コミックや西洋式唯物主義に毒されて、ただの商業キャラクターに成り下がってしまった。
だが『蟲師』が描いた“蟲”は、現代の風潮に正面から反逆し、日本が土着的に備えていた幽玄さと呼ぶべきものを甦らせている。
眩い白色灯の光が都市を覆い、騒がしいばかりの西洋文化が押し寄せてくる現代においても、我々の精神の底には『蟲師』に描かれたような幽玄さが、今も残っているのだ。
原作の淡幽は穏やかだが芯の強い女性として描かれていた。実写劇場版を演じた蒼井優は、漫画版より幼く、可憐なイメージ。和装姿が実に美しかった。
映画『蟲師』の物語はあまりも暗く、ひっそりと沈黙している。
だが、『蟲師』は恐怖映画ではない。
闇が深いからこそ、ふっと射してくる光が美しく際立ってくる。
我々は、日本が土着的に備えていた闇を、通俗的な怪談物語に貶め、消費してきた。
現代人の多くは、暗黒や霊的なものに接しても、もはやテレビで見たインチキ心霊番組しか連想できなくなってしまった。
心の底からぞっとするが、穏やかで、ぬくもりのある闇。
あまりにも静かで、もの悲しげな闇。
『蟲師』の描く日本は、どこであるかわからない。だが日本人がかつて持っていた精神を、はっきりした形で描き、呼び覚まそうとする。
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作品データ
監督・脚本:大友克洋 原作:漆原友紀
音楽:配島邦明 脚本:村井さだゆき
出演:オダギリジョー 蒼井優 江角マキコ 大森南朋
○○○りりィ 李麗仙 クノ真季子 守山玲愛
○○○稲田英幸 沼田爆 りんたろう
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