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■2015/12/07 (Mon)
第5章 Art Crime

前回を読む

 ツグミは岡田の話を聞きながら、何か引っかかるものを感じた。うつむいて、自分の記憶の中を探る。
 つい最近、どこかで『合奏』を見なかっただろうか。
 闇の奥。有象無象に紛れるように――。そうだ、あれは……。
「なあ、嬢ちゃん。悪いけど、もう1回、絵をしっかり見てくれへんか」
 唐突に、岡田が立ち上がって声を掛けた。
「な、何ですか」
 いきなり近寄られて、ツグミは仰け反りながら左手で体をガードした。右手の杖もしっかり握り、油断なく反撃の準備をする。
「あの時の盗難品が回り回ってウチにやって来た、ってことないか? こんだけのコピー、そう簡単に作れるもんちゃうで。もう1回、これが本物か贋物か、よお見てくれ」
 岡田は仏に拝むように手を摺り合わせた。
 拝んだくらいで鑑定結果が覆るはずもない。プロが大きすぎるお宝に目がくらんで、鑑定を見誤ることを「クサむ」と言われている。今の岡田が、まさにその状態だ。
 でも、ツグミももうちょっと深入りしたい気持ちになっていた。
「溶剤と、それから、硫黄粉、持ってきてくれますか」
 少し考えて、必要な道具を注文した。
「よし来た!」
 岡田が手を叩いて嬉しそうな声を上げた。
 さっそく岡田は、積み上げた画板を乱暴に掴んで掻き分けて、発掘を始めた。まもなくガラクタの向うに、大きな棚が1つ現れた。
 観音開きの棚で、開けてみると、様々な絵具や薬ビンが一杯に収められていた。
 岡田は以前、まともな画商で、パトロンもやっていた。その時に蒐集した画材が、今でもこうして残されているのだ。
 もっとも、何年も手入れしていないから、ひどいカビの臭いを放っていた。
 昔の画商はパトロンを兼ねるものだった。日展や院展といった権威に頼らず、自力で画家を発見し、育てていく。画商はすでにあるものの値段を審査するだけでなく、目利きの力で埋れた絵画や新人を発掘するのも、1つの仕事であった。いや、仕事以上に使命だった。
 しかし、今は誰もそんな仕事しなくなった。育てるのは手間が掛かるし、儲けも少ない。有名画家を育てるなんていうのは、基本的に夢でしかないのだ。目利きの力を持った人も、少なくなってしまった。
 それに、才能のある人はみんな、企業デザイナーや漫画家になってしまう。作家としての精神とか、自身が信ずる創作に打ち込む、なんて考え方は古いものになり、「就職すること」のほうが重要視されるようになった。
 どこかの企業に属して、要求されるものだけを作ったり、すでに用意されている表現様式から逸脱しないように作品を描いたりする。社会というものの強制力が強くなりすぎたせいなのか、迎合的な行儀のよさばかりが芸術に求められるようになってしまった。“表現の革命者”としての芸術家は、今や絶滅種だ。
 岡田は棚の中のものを引っ掻き回し、まず溶剤とコットン、ヘラを持ってきて、作業机の上に置いた。作業机は角材とベニヤ板を組み合わせた簡単なもので、天板は真直ぐではなく、ゆるやかに波打っていた。
 ツグミはコットンを手にして、顔を引き攣らせた。カビが生えていた。人として許せないような気がしてしまった。
 今はわがままを言っている場合ではない。ツグミはコットンに溶剤を染み込ませる。絵の側に進み、身を屈めて、慎重にコットンで絵を撫でるようにした。
 じわりと溶剤が絵に染み込み、そこだけ絵の質感が変わった。ニスが落ちたのだ。
 溶剤が乾いたところで、ツグミはヘラで、水飛沫の白を、触れるか触れないかくらいの感覚で擦った。ヘラの先に、白の顔料がわずかに付いた。
 やっと岡田が硫黄粉の小瓶を見つけてきて、作業机の上に置いた。それから、岡田はその他の道具を探して店の外に飛び出した。
 岡田はすぐに戻ってきた。新聞紙とアイロン、延長コードを持ってきていた。
 作業を始める前に、岡田はさっき買って来たらしいマスクをツグミに手渡した。ありがたいことに、鼻の辺りに空間ができるタイプだった。
 岡田もマスクを付けると、作業が始まった。
 新聞紙の上に硫黄の粉が振り撒かれ、ツグミはその上で、ヘラを指先で軽く弾く。白の断片が、雪のようにひらひらと硫黄の上に落ちた。
 次に新聞を2つ折りにして、延長コードを繋いでアイロンの電源を入れた。
「いいか、嬢ちゃん。17世紀の絵画は白の顔料に鉛が含まれとった。もし、これが本物なら、硫黄に反応して、鉛白が黒くなるはずや。もし、白のままやったら……(※)」
 アイロンが温まる間に、岡田が解説した。
 新聞の上から、アイロンを当てた。すぐにむわっと臭いが広がった。硫黄は熱を当てると匂いを発するのだ。
 ツグミは作業机から3歩引いて、マスクの上から掌で覆った。それでも、強烈に迫ってくる臭いから逃れられなかった。
 しばらくして、岡田はアイロンを脇に置き、新聞紙を開いた。
 岡田が覗き込んだ。ツグミも鼻を押えながら側に近付き、覗き込んだ。
 黄土色の粉の中に、砂金のように白の断片が輝いていた。変色はなかった。

※ 鉛に硫黄を混ぜても、おそらく黒色変化しない。間違いなく化学変化を起こす薬品は硫化水素だが、あまりにも危険な薬品のため、ここでは硫黄と混ぜることにした。

次回を読む

目次

※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

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