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■2009/07/11 (Sat)
第1話 男子がすなるという、あれ

これは大正14年(1925)、東京市麻布区に住む少女達の物語だ。

efe75c06.jpgその朝、鈴川小梅が学校へ行き、下駄箱を開けると、上履きの上に手紙が一つ置かれていた。手紙には、几帳面な楷書で「小梅さんへ」と書かれている。
はて?
鈴川は首を傾げた。ここは女子高だし、手紙を託されるような殿方に覚えもない。誰だろう、と鈴川は手紙を手に取った。字を見て、やっと小笠原晶子の文字だと気付いた。
aeab7668.jpgこんな回りくどいやり方をして、何の用事だろう。
鈴川は廊下を歩きながら、さっそく封を開けて中の便箋を引っ張り出した。
「お昼休みに、是非相談したいことが有るの
いつもの場所でお待ちしてゐます  晶子」
小笠原らしい、丁寧な文字がきちんと並んでいた。
相談……。なんの相談だろう。

約束どおり、鈴川は昼休みに入ると、小笠原と一緒に中庭の外に出た。
いつもの桜の木の下に腰を下ろす。ちょうど桜は満開を迎えた頃で、花びらがひらひらと風に踊っていた。
ふと、近くをセーラー服の少女たちが駆けていった。鈴川はぼんやりとセーラー服姿ではね踊る少女たちに目を向けた。
「あ~あ、いいな、セーラー服」
鈴川は羨望の目でセーラー服の少女たちを見詰めた。少女たちは、やがて向うの校舎へと駆けて行ってしまった。
49f11486.jpg「不思議なお父さんね。お家はハイカラな洋食屋なのに」
小笠原は鈴川を慰めるように声を掛けた。その小笠原も、セーラー服だった。
「表面は大正でも、中身はまだ明治なのよ。それで、晶子さん。改まって相談って、何なのかしら?」
鈴川は小笠原を振り向いて、話を引き出そうとした。
すると晶子は、真剣な顔で身を乗り出してきた。
ad895e00.jpg「小梅さん」
「あ、はい」
決意に燃える小笠原の目。鈴川は、思わず身を引いてしまった。
「実は、お願いが有るのだけれど、「うん」と言ってくださらないかしら」
「まず、内容を話すものではなくて?」
鈴川は小笠原の勢いに気圧されつつも、返事を保留にした。
「話す前に「うん」と言ってくださらないといけないわ」
小笠原は強引に鈴川から返事を求めた。
鈴川はしばらく小笠原の瞳を見つめた。まるで、思いつめるかのような強い眼差し。
鈴川は、諦めるようにため息をついた。
aa2f3e96.jpg「わかったわ。で、何をすればいいの」
すると小笠原は、ふっと緊張を解いて、微笑を浮かべた。
「一緒に野球をしていただきたいの」
まるで、一緒にお料理でもして欲しい、とでも言うようなそんな気軽な調子だった。
「野球? 男の子がやっている?」
鈴川は聞き違いかと思って、訊ね返した。
「そう。男子がすなる、というあれ」
小笠原は、なんでもない思い付きみたいに、朗らかに微笑んだ。
鈴川は、ぽかんと言葉を失ってしまった。

2176c540.jpg一日の授業が終って、教師が教室を去っていった。教壇の前の席に座っていた宗谷雪が、みんなを振り返った。
「はい、おじゃんです」
教室の生徒たちから拍手が漏れた。
小笠原が宗谷の前に進み出た。
「あの、皆さんにお願いがあるのですが、少々よろしいかしら」
小笠原が宗谷に許可を求めるように話しかけた。9d8d1632.jpg宗谷は教室に残っている少女たちを振り返った。教室中の生徒が、すでに小笠原と宗谷のやり取りを見ていた。
「どうぞ」
宗谷は微笑みと共に、小笠原に許可を与えた。
小笠原は宗谷に軽い感謝を込めて頭を下げると、教室に残る生徒たちを振り返った。
「実は私たち、このほど野球をしようと思っているのですが、どなたか、協力してくださらないかしら」
小笠原は、教室に残っている少女たちを見回しながら声を掛けた。
だが、少女たちはぽかんと小笠原を見詰めるだけだった。だれも、返事を返す者はいなかった。
「あの、私たちって、他にどなたかいらっしゃるの?」
宗谷がみんなを代表するように尋ねた。
「今は、私と鈴川さんの二人だけですわ」
de3880db.jpgと小笠原が鈴川を振り返った。すると、教室中が小笠原を注目する。
「鈴川さん、本当なの?」
「鈴川さんって、野球に詳しいの?」
教室中のみんなが鈴川の前に集って、質問を浴びせかける。鈴川は困惑するように、答えを曖昧にしたり、首を振ったりした。
「それでは、参加希望者の方は、校門の前でお待ちしております」
小笠原が頭を下げて締めくくった。

7d39149c.jpg校門前へ行くと、三人の同級生が待っていた。
「こんなに集っていただいて、嬉しいわ」
まずまずの成果に、小笠原が満足げに頷いた。
「でも野球って、9人必要なのではなくて?」
同級生の一人が尋ねた。
「あら、そうなの?」
小笠原の顔に、はじめて戸惑いが浮かんだ。
「え、ひょっとして、晶子さん、野球のこと知らないの?」
鈴川は驚いて小笠原を振り返った。
「ええ。でも大丈夫よ。これからちゃんと勉強しますわ」
小笠原はごまかすような微笑を浮かべた。
鈴川は、はじめて不安を感じて小笠原の顔を見つめた。
「それでしたら、今日のところは見学、ということでどうかしら。ここの近くですと、慶応ですかしらね」
同級生の一人が提案した。小笠原が同意して頷こうとした。しかしそこに、宗谷がやってきた。
a4bdf994.jpg「あそこは今、遠征中よ」
「あら、宗谷さん。詳しいのね」
宗谷が声を掛けるのに、鈴川達みんなが振り返った。
「今でしたら、早稲田がよろしいかと思いますわ」
宗谷は穏やかに視線を返して、別の提案をした。
「あの、宗谷さんも、ご一緒にいかが?」
小笠原が、不安な顔を浮かべて宗谷を誘った。しかし宗谷は、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「それが、これから用事があって……。ごめんなさい」
と小笠原は少女たちに頭を下げると、校門を出て行った。

仕方なく鈴川と小笠原は、三人の同級生と一緒に早稲田に向かうことにした。学校を後にして、路面電車に乗り込む。
「ねえ、三里くらいあるんじゃない?」
鈴川は不安げに隣に座る小笠原に尋ねた。
すると、小笠原は厳しい顔で鈴川を振り返った。
a1ae4af0.jpg「小梅さん。私たち、野球をするのですから、多少の苦労は覚悟しないといけませんよ。ねえ」
小笠原が同意を求めるように、ベンチの前に立っている同級生たちに声を掛けた。同級生たちが頼もしげに、「ええ、そうよね!」と返事を返した。
鈴川は所在なげに視線を落とした。憂鬱なものがこみ上げてくるのを感じた。
「ねえ、試合はいつ頃なのかしら」
同級生の女の楽しげな顔で小笠原に訊ねる。
「時期は未定ですけど、相手は決まってますわ」
「あら、どちらの女学?」
そこまで訊ねられると、小笠原は気まずそうに目線を落とした。
「その……朝霞中学ですわ」
小笠原の声が不安げに沈んだ。
「朝霞って、男子と?」
同級生たちが驚きに声を合わせた。
小笠原は視線を落としたまま、こくりと頷いた。
鈴川は顔を上げて、小笠原の横顔を見詰めた。暗い表情だったけど、あの時の思いつめたような目をしていた。

8811bc70.jpg30a522c2.jpg早稲田に到着して、野球部のグランドに向かった。野球部のグランドは、高い客席に取り込まれている。中に入る前から、賑やかな練習の音が聞こえてきた。
入っていくと、強烈な歓声がいっぱいにこだました。物凄い速度でボールが掛けていく。金属バットの甲高い音があちこちで0437c172.jpg響いていた。
野手の一人が、ボールを正面から受けて倒れた。だが、誰ひとり介抱しない。倒れた選手の頭の上に、水をぶっ掛けるだけだった。
「野球って、こんなことをしないといけないの?」
鈴川は胸の底から恐怖を感じた。
はっと振り向く。一緒に来ていたはずの三人の同級生がいない。
鈴川は慌てて野球部のグランドを飛び出した。同級生たちが駆けていく後ろ姿が見えた。
「ああ、ちょっと皆!」
鈴川が同級生たちを呼びかけた。
ae6934f2.jpg「男子と野球なんてやったら、殺されてしまいます!」
同級生たちは振り返りもせず、叫びながら去っていった。
鈴川は茫然と取り残されて立ち尽くしてしまった。小笠原がそばにやってくる気配を感じて、振り向いた。
「小梅さん。皆さんの気持ちはわかるわ。私だって、あれを見てしまうと……」
小笠原が声を詰まらせて視線を落とした。瞳に、キラキラと輝くものが現れる。
ec340ca1.jpgaade8877.jpg「晶子さん」
鈴川は心配になって、小笠原の顔を覗き込もうとした。
すると、小笠原が側に擦り寄って、鈴川の肩を引き寄せた。
「残ってくれてありがとう。一緒に頑張りましょうね」
小笠原は涙に擦れかけた声で、鈴川に感謝を告げた。
でも鈴川の顔が引き攣っていた。逃げ遅れたことに、今さら後悔の念を感じていた。

c1d80202.jpg翌朝、鈴川は憂鬱な気持ちで登校した。ぼんやり落ち込んだ気分で、下駄箱へと入っていく。
「ごきげんよう」
すると小笠原が、鈴川の背後に現れて挨拶をした。
「ご、ごきげんよう!」
鈴川は思わず小笠原から飛びのいてしまった。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
小笠原が心配そうに鈴川の顔を覗き込んできた。鈴川はごまかすように首を振った。
「なんでもない。なんでもないの」
「そう。小梅さん。今日から頑張って仲間を探しましょうね」
「……うん」
a220b72a.jpg小梅は頷き、そのままうつむいてしまった。しかし小笠原には、昨日の不安は綺麗に消えてしまっていた。
それから小笠原は、自分の包みの中から手紙を一つ差し出した。
「これ、恥ずかしいからお家に帰ってから読んでね」
小笠原が、恥ずかしそうに頬を赤くした。鈴川は、どんな表情していいかわからないぼんやりした気持ちのまま、手紙を受け取った。

教室に入ると、急にみんな沈黙して、鈴川と小笠原を注目した。嫌な感じに教室が張り詰めていた。
8d20b113.jpgすぐに、昨日の同級生が鈴川と小笠原の前にやってきた。
「あの、昨日はごめんなさい」
三人の同級生が頭を下げた。でも、小笠原が首を振った。
「あれを見たらびっくりするのは当然よ。いいのよ、気にしなくて」
小笠原が気さくに微笑むと、三人の同級生はホッと安心した表情を浮かべた。
「一緒に野球はできないけど、応援はするわ」
「うん、ありがとう」
と言葉のやり取りがあった後、同級生たちが鈴川を振り返った。
「鈴川さんも、頑張ってね」
鈴川は急に声をかけられたみたいになって、ちょっとびっくりしつつも、周囲の空気に飲まれるように頷いてしまった。

e773c223.jpg学校を終えて帰宅すると、鈴川は自分の部屋に閉じこもった。机に向かって、小笠原から託された手紙を開いた。
「昨日は本当にありがとう。正直、私もやめてしまおうかと思ったくらい。でも、小梅さんが残ってくれたおかげで、くじけずに続けていく勇気がもてたのよ。仲間を集めるのは大変だけど、二人で力を合わせて、頑張りましょうね」
手紙を読み終えて、鈴川は重く重くため息をついた。
7e19abc2.jpg鈴川はすぐに新しい便箋を取り出し、筆を手に取った。
お断りの手紙を書こう。野球なんて、無理だ。
でもそこに、厨房から声がした。
「お嬢さん、お客さんがいらしてますよ」
三郎の声だ。
鈴川は手紙を中断して、部屋を出た。待っていたのは宗谷だった。こんな時間なのにまだセーラー服姿で、包み紙を持っていた。
鈴川は、とりあえず宗谷を自分の部屋まで案内して、ソーダーを差し出した。
「ねえ、お話ってなあに?」
宗谷は、大事な話があるらしく、こんな時間に訊ねてきたらしい。
しかし宗谷は、話の本題に入らず、気になるように扉のほうに目を向けた。
「さっきの殿方は、どなた?」
「三郎さん? 家で働いている料理人よ。まだ修行中だけど、お父さんが言うには、筋が言いみたい」
鈴川は宗谷の問いに簡単に説明した。
「それだけ?」
宗谷は拍子抜けだったらしく、首を傾げた。
「うん」
「そう」
鈴川が頷くと、宗谷はなぜか残念そうにした。
「あの、お話……」
いつまでも話が本題に入らないのに、鈴川は引き戻そうとした。
7ba6e25f.jpg「あら、そうだったわね」
宗谷は持ってきた紙袋から、グローブを引っ張り出した。古びたグローブで濃い茶色をしていた。それを、鈴川に差し出す。
「あ、それ……」
鈴川はグローブを受け取った。宗谷が頷いた。
「そう。野球の道具。きのう、早稲田のグランドで見たわよね。野球をするには、色々道具を買い揃えなければいけないのよ」
44c6e25d.jpg「いくらくらい、かかるものかしら」
鈴川はグローブを膝の上において、不安になって宗谷を上目遣いにした。
「お小遣い程度では、すまないでしょうね」
「ええ!」
さらりと言う宗谷だったが、鈴川は驚きの声を上げてしまった。
「それに、お金の都合がついたとしても、問題があるの。それは男性用の道具で、私たちの手に合うようにはできていないのよ」
宗谷は説明を続けて、グローブを指でさした。
鈴川はグローブを手にはめてみた。ちょっと大きいなんてものではない。明らかに大きすぎだった。それに、グローブは片手で支えるのは重すぎる道具だった。
「野球に慣ていない私たちには、体に合わない道具を使っては、勝負にならないわ。それに、ちゃんと学校やお家の許可もとらないと」
いつも穏やかな宗谷が、はじめて厳しい調子になって話を続けた。
鈴川は、憂鬱に目線を落とした。
頑固者の父を思い浮かべていた。きっと許可なんてくれそうにない。
やっぱり、小笠原には野球するのをお断りしよう、と決心した。

翌日。昼休みに入ると、鈴川は、小笠原をいつもの中庭に呼び出した。
「それで、いったいなんなの? 朝から変よ、小梅さん」
小笠原はいつもの穏やかさで尋ねた。
「えっとね、実は……」
鈴川は言い出しにくそうにしながら、懐にしまいこんだ手紙を引っ張り出そうとした。
しかしそこに、誰かが側にやってきた。鈴川は出しかけた手紙を慌てて引っ込めた。
b3a518ca.jpg「ちょっといいかしら。野球のことで話があるんだけど」
やってきたのは川島だった。度のきつい眼鏡に三つ編み。学校一の秀才と知られる生徒だった。
「あら、どうぞ」
招かれざる人に、小笠原は微笑みながら少し警戒した。
「お仲間は集って?」
川島は遠慮なくズバリと訊ねた。
b4cead40.jpg小笠原は答えようと口を開くが、言葉が見付からないらしく首を振った。
「でしょうね」
川島はため息を吐くように言うと、許可も得ずに小笠原の側に座った。
「いったい、何を仰りたいのですか」
小笠原は少し不機嫌そうに川島を振り返った。
f5f524e9.jpg「思いつきでそういうことをなされても、学業に触るだけで、いいことがあるとは思えないのよ」
川島には躊躇いも遠慮もなく、問題点をずばずばと指摘する。
「思いつきで野球をやろうなんて思っていません。それに私たちが、勉強をおろそかにすると思って?」
小笠原はいつもより厳しい言葉でやり返した。
「では、男子と対決して、惨敗したらどうするおつもりなの。わざわざ恥をかくために、野球をするのは賛成できません」
川島が草の上に手を置いて、小笠原に顔を近づけた。
小笠原が川島から目線から逃れるようにうつむいた。口を開くが、何も答えられないみたいだった。
鈴川は、おろおろと二人のやり取りを見ているだけだった。
川島が、身を引っ込めて、腕組をした。
「それで、勝算はあるのかしら?」
川島が厳しく小笠原に問いかける。
「絶対に勝てないというものではないでしょう」
小笠原にもう勢いはなく、弱々しく言葉を返した。
「確かにその通りね。で、その方法は?」
川島はペースを変えずに追求した。
473fcde2.jpg「それは……。これから、小梅さんと考えますわ。ねえ」
小笠原はしどろもどろに言うと、鈴川を振り返った。鈴川は急に話しに引きこまれて、胸をおさえてのけぞった。頷くのも首を振るのもできなかった。
「そう。まだ決まっていないのね。ところで。なぜ男子と野球しようなんて思いついたのかしら。聞かせて頂戴」
川島は大きく頷きつつ、それでも話のペースを落とそうとはしなかった。
6e6de811.jpg小笠原は川島の尋問を逃れようと鈴川を振り返った。小笠原は困惑で張り詰めて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。しかし鈴川は、何もできずただ見詰め返すだけだった。
小笠原はうなだれるように視線を落として、自白するように言葉を綴り始めた。
「実は先日……。お父様主催のパーティーに参加したのです。そこで、ある男性の方に、女性の4e39656f.jpg社会進出について訊ねられたのです。その男性は、「女性は家庭に入るべきです。女性に学歴なんて、関係ない」って仰ったです。それで私、許せなくて……」
小笠原の言葉が途切れて、肩が小さく震えはじめた。
「ひどい! なにその人。……晶子さん」
鈴川は同情の声を上げて、小笠原の顔を覗き込んだ。小笠原の頬に、涙が一筋こぼれるのが見えた。
「でも、なぜ野球なの?」
川島は、それでも自分の調子を変えずに話を進行させた。
「その方は、自分は野球の聖者だと……」
小笠原は涙をぬぐいながら、やっとわずかに顔を上げた。
川島は、また大きく頷いた。
430a4894.jpg「だから野球というわけね。わかりました。その話、乗りましょう。そのかわり、男の子に勝つ方法は考えさせて」
川島は最後まで変わらない調子で、申し出をした。
「ありがとう、川島さん。これであと、6人集めればいいのね」
小笠原は頬を赤くして川島の手を握った。川島は、相変わらずの調子で頷いた。その表情が、なんだかひどく頼もしげだった。
そこに、宗谷がバッグを抱えてやってきた。鈴川達が宗谷を振り返った。
244c8f43.jpg「あら、川島さんも仲間に入ったの? あのね、知り合いからお古をもらってきたの」
宗谷はバッグを鈴川達の前に置くと、蓋を開けた。中には一杯の野球グローブと、ボールが入っていた。
「ちょっと面倒ですけど、手を加えれば、私たちにも使えるようになるわ。これで、あと5人集めれば野球ができるわね」
宗谷は鈴川達を見て微笑みかけた。
「あの、宗谷さんも参加してくれるの?」
鈴川が、唐突な展開についていけずに訊ねた。
9cdf1219.jpg「あら、昨日言わなかったかしら。“私たち”って」
宗谷が鈴川を見詰めて、首を傾げて見せた。
小笠原と川島が、確かめるように鈴川を振り返った。鈴川は二人の目線を受けて、慌てて思い出そうとした。
宗谷が口元を隠して、上品な微笑を浮かべた。
「鈴川さんって、意外と鈍いのね。それでは改めて、私も仲間に入れてくださらない?」
宗谷は言葉を改めためさせて、鈴川達に微笑みかけた。
「もちろん、歓迎しますわ」
小笠原が感激に顔を輝かせて立ち上がった。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
宗谷が深く頭を下げるのに、小笠原も頭を下げた。
de4e55e9.jpgb10604eb.jpgb1e256f7.jpg






スポーツ漫画・アニメが末期状態だ。
野球やサッカーといったメジャースポーツ系は、もはややりつくした感がある。熱血青春もの。考証に基づいたリアリティ有るプロスポーツもの。実録もの。ユニークなキャラクターや超絶的な魔球と打法が対立するアクション性の強いスポーツもの。
f4434f60.jpgそれでも、漫画家や編集者、アニメプロデューサーはスポーツ漫画を描こうと模索する。近年は、オリンピックで一過性的な人気の出たスポーツや、マイノリティスポーツに目を向け、そこに活路を見出そうとする動きはある。だが社会現象を起こし、実際にそのスポーツが流行ったという話はまったく聞かない。
スポーツ漫画・アニメはやりつくした。いつの間にやらスポーツは、漫画やアニメの中心的なテーマではなくなり、スポーツ漫画・アニメというジャンル自体がマイノリティになりつつある。
0e25cb8d.jpgこの時代、セーラー服は運動着扱いだった。このままユニフォームも作らないのだろうか。ところで見ての通り、キャラクターの現代の感性で描かれる。当時のファッションを厳密に再現するのではなく、現代人の洗練された視点、感性が加えられた作品だ。あくまでも、『現代の作品』としてみるべきだ。



そこで『大正野球娘。』だ。『大正野球娘。』はもはや入り込む余地のない、と思われていた野球ものだ。ただしその舞台は大正時代。現代とは明らかに異なる時代を背景としている。しかも、野球に挑戦しようとするのは、美しき乙女たちである。
男尊女卑の気風激しい時代に、少女たちが野球に挑戦する。それだけで、現代を舞台にするとははっきりと違う困難や、それを乗り越えるためのドラマが展開されると想像されるだろう。
なるほど『大正野球娘。』は時代を移すことで、スポーツ漫画・アニメに新しい風を吹き込もうとする作品だ。
e75214ca.jpgただ気になるのは、空間の扱い方だった。クローズアップになるほど、パースをおざなりに扱われ、位置関係がおかしくなる。同じ放送枠の前作が(制作所はまったくの別)空間を丁寧に扱い描く作品だっただけに気になる部分だ。微妙に顔の似たキャラクターは登場するのだが(気のせいだと思おう)。



f5e8d5c6.jpgしかも、いかにも熱血した押し付けがましい汗臭さはない。少女たちは品性あるお嬢様たちである。
作品の色調は温かみのあるパステルカラーに統一され、線の感触も柔らかい。
かつてうんざりするほど作られた男根的な要素は『大正野球娘。』にはない。格調高く、それでいて親しみのあるアイドル性こそが、作品を支える柱となっている。
時代考証はもちろん徹底されている。直線的な古典様式と、当時流行していた曲線の多いアール・デコ様式の装飾が加わる当時の美意識をしっかりと描き出せている。
時代考証がしっかりしているからこそ、少女達の挑戦、困難が生き生きとした力を持ち始める。
現代とまったく違う価値観の上でメジャースポーツを再生させる。これはなかなか注目すべき作品だ。

『大正野球娘。』公式ホームページへ

作品データ
監督・シリーズ構成:池端隆史 原作:神楽坂淳
キャラクター原案:こうたろ キャラクター原案協力:小池定路
キャラクターデザイン:神本兼利 プロップデザイン:辻野芳輝 兵渡勝
色彩設計:店橋真弓 美術監督:小林七郎 撮影監督:福世晋吾
音響監督:本山哲 音楽:服部隆之
アニメーション制作:J.C.STAFF
出演:伊藤かな恵 中原麻衣 植田佳奈 能登麻美子
   甲斐田裕子 喜多村英梨 牧野由依 後藤沙緒里
   新井里美 日野聡 加藤将之 高岡瓶々
   久川綾 吉沢希梨 升望 山川琴美
   高本めぐみ 宮川美保 宮崎寛務



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