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■2014/03/06 (Thu)
読書:研究書■
映画監督押井守は、プロダクションIG社長・石川光久をこう評する。
世界に名を轟かせる、日本を代表するアニメーション制作会社プロダクションIG。この会社を取り仕切っている石川光久はどんな人物なのか。
石川が生まれたのは東京都八王子市。山と田んぼに囲まれた、40世帯前後の小さな村で生まれ育った。貧しい農家で、3人兄弟の末っ子。米農家だったが、家族の食卓はいつも麦ご飯。「米は売るもの」という認識だった。
貧しい暮らしで、家では畑仕事の手伝いばかり。成績は低かったが、親からは勉強しろとは一度も言われなかった。ただし、いつもこう言われていた。
勉強もスポーツも駄目な劣等生だったけど、そのうちにもみんなが石川を頼るようになった。学級委員長に選ばれ、野球部ではキャプテンだった。石川は、みんなが「この人を頼りたい」と思える人物だった。
高校卒業後は明星大学を受験。奇跡的に合格するが、大学にはほとんど通わず、バイトに明け暮れ、お金ができると放浪の旅をした。バイクに乗り、計画も立てず、ふらりと行き当たりばったりに進む。行き着いた場所で住み込みのバイトをして、お金ができたらまたどこかへ行く。これを繰り返して、何ヶ月も家に帰らない。そんな生活だった。
旅はそのうちにも海外へと足を伸ばしていく。インドやタイ。パキスタン、アフリカまで行くこともあった。
アフリカで紛争に巻き込まれたり、盲腸を切った……という武勇伝を持っているそうだが、
「それは押井さんが、勝手に言っているだけ」
だ、そうだ。
ただし、本当に医者かどうか怪しい人の元で、麻酔なしで虫歯を引っこ抜いた……という武勇伝は本当だったようだ。
そんなある日、フーテンの暮らしを一変させる出会いがあった。たまたま福生の市民会館で見た「文楽」の公演である。これに感動を覚えた石川は、地元の車人形一座に転がり込み、その日のうちに弟子入りを決めてしまう。
本当の転機は次の事件だった。1981年、石川が22歳の時だ。車人形の一座が海外公演へ行ってしまい、石川は1人、日本で留守番をすることになった。その間にアルバイトでもしよう、と思って何となく求人広告の中から「タツノコ・プロダクション」を選んだ。
当時の石川はアニメなんて何も知らない。家が貧乏だったから、テレビなんてほとんど見せてくれない。社名に『プロダクション』とあるから、劇団関係の仕事をしているのだろうと思った。石川はアニメの世界に「迷い込んできた」のである。
ところが、石川はあっという間にこの業界に魅せられてしまう。
石川の最初の仕事は制作進行。制作進行とは、予算やスケジュール管理をする人のことで、アニメーターに仕事の指示を出したり、各会社との関係を取り持ち、カット袋を回収しに行ったりする人のことである。現場になくてはならない運営役である。
石川は、この制作進行の仕事に特別な才能を発揮し始めた。周りを立てるのが好きな性格と、方々を旅して回ったときの交渉能力がこの仕事の役に立った。そのうちにも、「石川がいないと仕事が回らない」というくらいにまで信頼されはじめ、アルバイトから正社員へ、制作デスクへと昇進する。学級委員長で野球部のキャプテンだった石川は、アニメ業界でも「みんなが頼りにしたいやつ」だった。残念ながら車人形一座は破門になってしまったが、石川の想いはすでにアニメ業界の中にあった。
そんな時だった。タツノコが、社員のリストラをしようという話が上がってきたのだ。
石川は奮起した。誰もリストラなんかさせない。会社が黙るくらいの凄い作品を作ってやる!
石川は自らの足でスタッフを口説き、集めて回った。そうして集まったのは西久保瑞穂、後藤隆幸、黄瀬和哉、沖浦啓之といった錚々たるメンバーだった。後に、日本を代表する最強のアニメーターと呼ばれる人達である。この陣容で、石川は『赤い光弾ジリオン』を制作。低予算作品にも関わらず、そのクオリティは業界から注目を集め、批評的も商業的にもまずまずの成功を収めて終わった。
だが石川にとって本当のご褒美は、この時に集めたスタッフが、「石川について行きたい」と言ったことだろう。この声を受けて、石川は独立。後藤隆幸率いる作画スタジオ「鐘夢(チャイム)」と合流し、『有限会社アイジー・タツノコ』を設立する。Iは石川、Gは後藤のイニシャルである。
その後は多難であった。下請けばかりの生活。仕事はつらいのに、収入は僅か。『ジリオン』の勢いで会社を興したものの、前途は暗かった。
が、わずか1年後には転機が訪れる。『機動警察パトレイバー』の劇場版の制作が、アイジー・タツノコに決定したのだ。
設立してわずか1年、フリーのアニメーターが数人いるだけの小さな会社である。ありえないような抜擢だが、実は『ジリオン』で目をつけていた押井守監督の指名であった。
『機動警察パトレイバー』の劇場版第1作目は、リアルな背景描写、インターネット社会を予見したようなストーリー、いま振り返っても驚異ともいえるクオリティの高さで、後々、長くファンの間で語られる作品となった。アイジーは押井が要求するクオリティを完璧な形で応えてみせ、その後も、押井に「ここを拠点にしよう」と決心させるほどだった。
その第2作目『パトレイバー2』の制作には暗雲が付きまとった。
押井は『パトレイバー2』の制作に4億円を要求した。だがバンダイはこれを拒否。「押井の映画は絶対にコケる。そんなお金は出せない」の一点張りだった。
そこで石川は、アイジーから5000万円を出資すると言いだした。それはつまり、アイジーが作品の権利を持つという意味でもある。設立5年目の小さな一介の制作会社が、権利を主張するなど、当時ありえない話だった。
この条件に、バンダイは了承。『パトレイバー2』は制作スタートとなった。
バンダイその他周辺の人達の読み通り、『パトレイバー2』は興行的には失敗だった。だがこの名作は、長く長く売れ続け、アイジーに安定的な利益をもたらし続けている。短期的には失敗だったかも知れないが、長期的には大成功だったのだ。
制作会社が権利を主張する。今においても画期的な話である。この一件で石川の先見性について語られることは多いが、当人にはそんなつもりはまったくなかった。率直な気持ちで「押井さんの映画が見たい」という思いで資金の申し出をして、それが後の大成功を引き連れてきたのである。
いい仕事は、次なるいい仕事を引き連れてくる。仕事に対するひたむきさと誠実さが、よりよい仕事と才能を引き寄せてくる。そうして、数人のアニメーターでスタートしたアイジーは人数を増やしていき、社名を『プロダクションIG』に変更。子会社『ジーベック』を設立し、海外支店も作った。
それでも、アイジーは次なる段階へと挑戦する。大作『イノセンス』の制作である。
この作品の制作で、石川は覚悟を決めた。自分たちだけでやる。だから権利を持っていたバンダイビジュアル、講談社、MANGAENTERTAINMENTの3社から手を引いてもらう。その上で、自分の足でハリウッドを回り、出資を募る。
前作『GHOST IN THE SHELL』が名刺代わりになった。石川と押井の2人組でFOX、ワーナー、ドリームワークスを回ったが、どこへ行ってもトップが会ってくれる。いい仕事がチャンスを引っ張り込んでくれた。その結果、ドリームワークスと契約し、前作の4倍の資金を確保。
日本ではあの人に宣伝の協力を仰いだ。スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫である。鈴木敏夫は、元々は『GHOST IN THE SHELL2』でスタートしていた映画のタイトルを『イノセンス』に変更させた。キャッチコピーである『魂の乱交』という印象的なフレーズも鈴木敏夫の発案である。
さらに鈴木敏夫軍団が宣伝に集結。徳間書店、日本テレビ、ディズニー、電通、東方、三菱商事といった面子である。鈴木敏夫の一声でこの人材が集まり、絨毯爆撃というほどの宣伝攻勢が始まった。ドリームワークスが出資しているのに、犬猿の仲であるディズニーが宣伝する、という異例の体勢だったが、鈴木と石川の人望のおかげで不問となった。
『イノセンス』はカンヌ映画祭コンペティション部門に正式招待され、風向きがこちら側に強く吹いていた。
しかし――『イノセンス』は何の賞も与えられなかった。日本国内の興業収入は10億円。観客動員数は70万人。米国では104万ドル(1億2000万円)。制作費すら回収できなかった。
石川はこの結果を、
「興行的に見ても、こんなもんでしょう」
と語っている。
0号試写の時に、
『イノセンス』の興業は失敗に終わった。しかし、プロダクションIGの企業としての名声は高まっていく。この揺るぎない傑作が、今も新しい仕事を引き込んでいる。
石川光久は、ある時こう語った。
数人でスタートしたアイジーは、劇場作品を軸に仕事を回し、下請けから元請けに昇進、作品の権利も多数獲得し、優秀なアニメーター達と信頼関係を築いた。もちろん、アニメファンもアイジーと聞けば作品に一目を置く。
それでもアイジーは立ち止まってはいられない。今も次なるステージを求めて、歩み続けている。
著者:梶山寿子
編集・出版:日経BP社
「初対面の印象は、ただのバカにしか見えない(笑)。それはいまだに変わんないね。アイジーの社長という肩書きをはずして会えば、ただのトッポいヤツにしか見えないし」
あんまりな言いようである。しかし、こうとも言う。「ハリウッドにとって、間違いなくあいつは組みたい相手なんだよ。会社ではなく個人として評価される。日本人には珍しいタイプだね」
世界に名を轟かせる、日本を代表するアニメーション制作会社プロダクションIG。この会社を取り仕切っている石川光久はどんな人物なのか。
石川が生まれたのは東京都八王子市。山と田んぼに囲まれた、40世帯前後の小さな村で生まれ育った。貧しい農家で、3人兄弟の末っ子。米農家だったが、家族の食卓はいつも麦ご飯。「米は売るもの」という認識だった。
貧しい暮らしで、家では畑仕事の手伝いばかり。成績は低かったが、親からは勉強しろとは一度も言われなかった。ただし、いつもこう言われていた。
「おふくろからは『上を見ずに、下を見ろ』と言われて育った。人におだてられても舞い上がるな、いつも周囲に気を遣え」
石川少年は、親の教えを素直に守り通した。人を立てるのが好きで、周りが笑ってくれていると幸せを感じる。何人かで歩いていると、必ずみんなの後ろを歩く。そんな少年に育った。勉強もスポーツも駄目な劣等生だったけど、そのうちにもみんなが石川を頼るようになった。学級委員長に選ばれ、野球部ではキャプテンだった。石川は、みんなが「この人を頼りたい」と思える人物だった。
高校卒業後は明星大学を受験。奇跡的に合格するが、大学にはほとんど通わず、バイトに明け暮れ、お金ができると放浪の旅をした。バイクに乗り、計画も立てず、ふらりと行き当たりばったりに進む。行き着いた場所で住み込みのバイトをして、お金ができたらまたどこかへ行く。これを繰り返して、何ヶ月も家に帰らない。そんな生活だった。
旅はそのうちにも海外へと足を伸ばしていく。インドやタイ。パキスタン、アフリカまで行くこともあった。
アフリカで紛争に巻き込まれたり、盲腸を切った……という武勇伝を持っているそうだが、
「それは押井さんが、勝手に言っているだけ」
だ、そうだ。
ただし、本当に医者かどうか怪しい人の元で、麻酔なしで虫歯を引っこ抜いた……という武勇伝は本当だったようだ。
そんなある日、フーテンの暮らしを一変させる出会いがあった。たまたま福生の市民会館で見た「文楽」の公演である。これに感動を覚えた石川は、地元の車人形一座に転がり込み、その日のうちに弟子入りを決めてしまう。
本当の転機は次の事件だった。1981年、石川が22歳の時だ。車人形の一座が海外公演へ行ってしまい、石川は1人、日本で留守番をすることになった。その間にアルバイトでもしよう、と思って何となく求人広告の中から「タツノコ・プロダクション」を選んだ。
当時の石川はアニメなんて何も知らない。家が貧乏だったから、テレビなんてほとんど見せてくれない。社名に『プロダクション』とあるから、劇団関係の仕事をしているのだろうと思った。石川はアニメの世界に「迷い込んできた」のである。
ところが、石川はあっという間にこの業界に魅せられてしまう。
「世の中って、すぐに浮かれちゃうじゃない。でも、自分はひたむきに生きる人間が好き。ひたむきに一生懸命に働く人の姿は美しいって、子どもの頃から思っていたし……。アニメーションの現場で働いている人もみんなひたむきなんだよ。純粋で無垢でコツコツ仕事をしている。こういう人に囲まれて働く環境が最高にいいなあって思う。すごく楽しいし、救われる。石川の場合、アニメーションが好きというより、アニメーションを作っている人間が好きなんだよ」
※ 石川光久は、自分のことを「石川」と呼ぶ。石川の最初の仕事は制作進行。制作進行とは、予算やスケジュール管理をする人のことで、アニメーターに仕事の指示を出したり、各会社との関係を取り持ち、カット袋を回収しに行ったりする人のことである。現場になくてはならない運営役である。
石川は、この制作進行の仕事に特別な才能を発揮し始めた。周りを立てるのが好きな性格と、方々を旅して回ったときの交渉能力がこの仕事の役に立った。そのうちにも、「石川がいないと仕事が回らない」というくらいにまで信頼されはじめ、アルバイトから正社員へ、制作デスクへと昇進する。学級委員長で野球部のキャプテンだった石川は、アニメ業界でも「みんなが頼りにしたいやつ」だった。残念ながら車人形一座は破門になってしまったが、石川の想いはすでにアニメ業界の中にあった。
そんな時だった。タツノコが、社員のリストラをしようという話が上がってきたのだ。
石川は奮起した。誰もリストラなんかさせない。会社が黙るくらいの凄い作品を作ってやる!
石川は自らの足でスタッフを口説き、集めて回った。そうして集まったのは西久保瑞穂、後藤隆幸、黄瀬和哉、沖浦啓之といった錚々たるメンバーだった。後に、日本を代表する最強のアニメーターと呼ばれる人達である。この陣容で、石川は『赤い光弾ジリオン』を制作。低予算作品にも関わらず、そのクオリティは業界から注目を集め、批評的も商業的にもまずまずの成功を収めて終わった。
だが石川にとって本当のご褒美は、この時に集めたスタッフが、「石川について行きたい」と言ったことだろう。この声を受けて、石川は独立。後藤隆幸率いる作画スタジオ「鐘夢(チャイム)」と合流し、『有限会社アイジー・タツノコ』を設立する。Iは石川、Gは後藤のイニシャルである。
その後は多難であった。下請けばかりの生活。仕事はつらいのに、収入は僅か。『ジリオン』の勢いで会社を興したものの、前途は暗かった。
が、わずか1年後には転機が訪れる。『機動警察パトレイバー』の劇場版の制作が、アイジー・タツノコに決定したのだ。
設立してわずか1年、フリーのアニメーターが数人いるだけの小さな会社である。ありえないような抜擢だが、実は『ジリオン』で目をつけていた押井守監督の指名であった。
『機動警察パトレイバー』の劇場版第1作目は、リアルな背景描写、インターネット社会を予見したようなストーリー、いま振り返っても驚異ともいえるクオリティの高さで、後々、長くファンの間で語られる作品となった。アイジーは押井が要求するクオリティを完璧な形で応えてみせ、その後も、押井に「ここを拠点にしよう」と決心させるほどだった。
その第2作目『パトレイバー2』の制作には暗雲が付きまとった。
押井は『パトレイバー2』の制作に4億円を要求した。だがバンダイはこれを拒否。「押井の映画は絶対にコケる。そんなお金は出せない」の一点張りだった。
そこで石川は、アイジーから5000万円を出資すると言いだした。それはつまり、アイジーが作品の権利を持つという意味でもある。設立5年目の小さな一介の制作会社が、権利を主張するなど、当時ありえない話だった。
この条件に、バンダイは了承。『パトレイバー2』は制作スタートとなった。
バンダイその他周辺の人達の読み通り、『パトレイバー2』は興行的には失敗だった。だがこの名作は、長く長く売れ続け、アイジーに安定的な利益をもたらし続けている。短期的には失敗だったかも知れないが、長期的には大成功だったのだ。
制作会社が権利を主張する。今においても画期的な話である。この一件で石川の先見性について語られることは多いが、当人にはそんなつもりはまったくなかった。率直な気持ちで「押井さんの映画が見たい」という思いで資金の申し出をして、それが後の大成功を引き連れてきたのである。
いい仕事は、次なるいい仕事を引き連れてくる。仕事に対するひたむきさと誠実さが、よりよい仕事と才能を引き寄せてくる。そうして、数人のアニメーターでスタートしたアイジーは人数を増やしていき、社名を『プロダクションIG』に変更。子会社『ジーベック』を設立し、海外支店も作った。
それでも、アイジーは次なる段階へと挑戦する。大作『イノセンス』の制作である。
この作品の制作で、石川は覚悟を決めた。自分たちだけでやる。だから権利を持っていたバンダイビジュアル、講談社、MANGAENTERTAINMENTの3社から手を引いてもらう。その上で、自分の足でハリウッドを回り、出資を募る。
前作『GHOST IN THE SHELL』が名刺代わりになった。石川と押井の2人組でFOX、ワーナー、ドリームワークスを回ったが、どこへ行ってもトップが会ってくれる。いい仕事がチャンスを引っ張り込んでくれた。その結果、ドリームワークスと契約し、前作の4倍の資金を確保。
日本ではあの人に宣伝の協力を仰いだ。スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫である。鈴木敏夫は、元々は『GHOST IN THE SHELL2』でスタートしていた映画のタイトルを『イノセンス』に変更させた。キャッチコピーである『魂の乱交』という印象的なフレーズも鈴木敏夫の発案である。
さらに鈴木敏夫軍団が宣伝に集結。徳間書店、日本テレビ、ディズニー、電通、東方、三菱商事といった面子である。鈴木敏夫の一声でこの人材が集まり、絨毯爆撃というほどの宣伝攻勢が始まった。ドリームワークスが出資しているのに、犬猿の仲であるディズニーが宣伝する、という異例の体勢だったが、鈴木と石川の人望のおかげで不問となった。
『イノセンス』はカンヌ映画祭コンペティション部門に正式招待され、風向きがこちら側に強く吹いていた。
しかし――『イノセンス』は何の賞も与えられなかった。日本国内の興業収入は10億円。観客動員数は70万人。米国では104万ドル(1億2000万円)。制作費すら回収できなかった。
石川はこの結果を、
「興行的に見ても、こんなもんでしょう」
と語っている。
0号試写の時に、
「押井さん、これは回収に10年かかるよ。……もう腹くくったから」
と押井に伝えていた。『イノセンス』の興業は失敗に終わった。しかし、プロダクションIGの企業としての名声は高まっていく。この揺るぎない傑作が、今も新しい仕事を引き込んでいる。
石川光久は、ある時こう語った。
「その人の良さを引き立てるっていう意味なら、石川は鏡みたいなものかもしれない。相手をきれいに映すのが仕事なんだよ」
『上を見るな、下を見ろ』と親から教えられ、人を立てるのが好きで、ひたむきに仕事に打ち込むアニメーターが好きな石川。そのアニメーター達にいい仕事を与えようと思ったから、プロダクションIGの今がある。数人でスタートしたアイジーは、劇場作品を軸に仕事を回し、下請けから元請けに昇進、作品の権利も多数獲得し、優秀なアニメーター達と信頼関係を築いた。もちろん、アニメファンもアイジーと聞けば作品に一目を置く。
それでもアイジーは立ち止まってはいられない。今も次なるステージを求めて、歩み続けている。
著者:梶山寿子
編集・出版:日経BP社
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