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■2010/08/10 (Tue)
シリーズアニメ■
第1話~第5話までのあらすじ
ある日の午後。小室孝は授業に出席せず、高校の片隅で退屈な時間を過ごしていた。
ふと、校門に不審者が現れる。教師たちの何人かがやってきて、不審者を追い払おうとする。しかし、何か様子がおかしい。
突然、不審者が教師に噛み付いた。悲鳴が上がり、派手に血が吹きあがる。噛み付かれた教師は、その瞬間、絶命してしまった。
だがその直後、死んだはずの教師が起き上がった。意思がないみたいにふらりふらりと足取り危うく歩き、他の教師に襲い掛かり、体に喰らいつき肉を貪る。
何かが起きた。
その様子を見ていた小室孝は、ただちに行動に移す。授業中にもかかわらず教室の中に飛び込むと、幼馴染の宮本麗と、親友の井豪永を連れて脱出を試みる。
学校内は瞬く間が感染が広がり、〈奴ら〉がうろつく修羅へと変わってしまった。小室と宮本、井豪は、〈奴ら〉から逃れつつ屋上へを目指す。
ようやく屋上の給水タンクまで辿り着いたが、井豪が〈奴ら〉に噛まれ、死亡してしまう。死亡してまもなく井豪は〈奴ら〉と同じように、生気のない顔になって、ゆらりと起き上がった。小室は覚悟を決めて、井豪の頭をバットで叩き割る。
一方その頃、学園内の各所でそれぞれの活動が始まろうとしていた。
高城沙耶は平野コータと共に武器を作り、脱出を試みる。
古武術の心得のある毒島冴子は、保険医の鞠川静香を危機から救い、職員室を目指す。
屋上に逃れた小室は、ここに篭城し続けても、いつかバリケードは突破されるし、食糧の蓄えがないと気付く。ここから脱出しなくてはならない。
小室と宮本は、意を決して屋上から脱出する。〈奴ら〉との危険な戦いを潜り抜けつつ、高城沙耶や毒島冴子たちと合流し、職員室に逃げ込む。
そこで、テレビ放送で世界中で〈奴ら〉による襲撃と蹂躙が始まっている事実を知る。学校に篭城していても、いつか〈奴ら〉に襲われ、殺されるだけだ。小室たちは、そこに集った全員と協力し合うことを誓い、マイクロバスで脱出する計画を立てる。
〈奴ら〉を撃退しつつ学校内を進み、ようやくマイクロバスの前まで辿り着く小室たち。すると、そこに生き残りである紫藤浩一と数名の生徒が同乗を求めて飛び込んできた。小室は紫藤たちをバスに乗せて、学校から脱出する。
しかし間もなく紫藤の存在に不満を訴えた宮本が、単独でバスから飛び降りてしまう。小室は毒島と合流する約束をして、宮本を追いかけてバスを降りる。
小室と宮本は、〈奴ら〉の襲撃を退けながら、落ちていたバイクを手に入れて合流地点を目指して走る。
バスの中では、紫藤が扇動者となって、生徒たちから狂信的な支持を得ようとしていた。危険を感じた高城、平野、毒島、鞠川の4人は、紫藤と決別してバスから降りる。
高城たちは小室と合流する約束だった場所を目指して橋を渡ろうとするが、〈奴ら〉に取り囲まれ危機を迎える。
だがその時、突然に小室がバイクに乗って飛び込んできた。小室のバイクが〈奴ら〉を薙ぎ倒す。小室が手に入れた拳銃が平野に手渡され、素晴らしい射撃で次々と〈奴ら〉を撃ち殺していく。宮元の槍術と毒島の木刀の協力で、あれだけいた〈奴ら〉は瞬く間に一掃された。
何とか合流できた小室と高城たち。鞠川が、近くに知り合いのマンションがあるから、そこを目指そうと提案する。一同はしばしの休息を求めて、マンションを目指すが、そこもすでに〈奴ら〉の巣窟となっていた……。
ゾンビというキャラクターが日本の作品で描かれる機会はあまりない(作品中では〈ゾンビ〉とは言及されず、あくまでも〈奴ら〉としている)。制作されてもB級映画かゾンビ映画パロディくらいしかない。どうしても、本家ゾンビ映画の模造品か亜流品などで、なかなかゾンビというキャラクターが受け入れることができなかった。
というのも、ゾンビというキャラクター自体が、西洋文化特有のものだからだ。ゾンビは西洋社会が生み出し、育んでいったキャラクターだ。それに、宗教観の違いも少なからず影響しただろう。西洋では死体は焼却せず土葬し、来るべき審判の日に備えるという。そしてゾンビ映画の背景にいつも語られるのは、その審判の日がついにやってきて、罪深き人々が罰を受けてゾンビにされて土の中から甦ったのだ、という解説だ。
ゾンビというキャラクターの発想自体が、西洋文化、宗教が背景にあるわけで、だから日本で描こうとしても、どうしても本家を手本にした模造品、亜流品にしかならないのだ。
第1話で死亡する井豪永。宮野真守が演じている。有名俳優を起用して、その後も生き残るかのような印象で描きながら(ホームページのメインキャストにも掲載されている)、第1話の最後で死亡してまう。ヒッチコックの『サイコ』を手本にした“引っ掛け”だろう。
かつて三池崇史監督が『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』という西部劇映画が制作した。この映画、舞台はどうやら日本らしく(“根畑(ネヴァダ)”という名前の宿場だ)、出演者はすべて日本人。なのに、なぜか台詞はすべて英語という奇妙な映画であった。
なぜならば、西部劇は英語文化が生んだエンターティメントだからだ。銃社会ですらない日本で、日本人が西部劇を演じても決して本物らしくはならない。だから、ここは日本だが日本ではないどこかという場所をでっち上げて、出演者は国籍不明状態で英語を演じたのだ。
「SF映画は英語圏文化の産物であって、日本語で撮影できない」
というのは、映画『アヴァロン』を制作した押井守監督の言葉だ。日本には日本特有の文化があり、日本人が演じる限り、その立場は守るべきである。その歴史的範疇から外れた作品をいくら努力しても、決して望んだ形で実現し得ない。
ゾンビ映画も同じだ。日本人が描くべきではない。
ゾンビは映画ごとに個性があるのが面白い。最近では「走るゾンビ」が話題になっているが、実際には映画ごとに様々なゾンビの性格が試みられている。『バタリアン』では頭を破壊されてもゾンビは動くし、化学兵器として作られた『バイオハザード』シリーズ、血を浴びるだけでもゾンビ化という『プラネット・テラー』などもある。
だが、そこは日本のアニメ・漫画である。日本のアニメ・漫画にはあらゆるものを飲み込む土壌がある。何でもあり、でたらめさ、現実の原理や概念など軽く飛躍し、ロボットでもモンスターでも妖怪でも忍者でも、何でも一つのフィールドの中で表現できる。
何でもありを60年続けてきたからこそ、自由な発想で何でも取り込んで、その作品におけるリアリティに異質なものを同居させられるのだ。
だからこそ、『学園黙示録』というゾンビ漫画・アニメがあり得たのである。
『学園黙示録』は『ストライクウィッチーズ』と同じくニコニコ動画配信されている作品である。以前から「シリーズアニメはテレビを捨ててもいいのではないか」とブログに書いてきたが、現実的にそうなりつつある。詳しい記述は『ストライクウィッチーズ』の補足に書いたのでそちらを参考にしてもらいたい。
しかし、ゾンビを絵画世界で描く試みはそれ自体が難題であるはずだ。日本の漫画キャラクターは基本、人形を素体にしている。ゾンビのようなグロテスクな側面を強調した「生きる屍」のような描写は、日本の漫画のタッチでは難しいはずだ。
それに、ゾンビに襲われ、取り囲まれるという緊張感を描き出そうとしたら、技術面で相当の実力が必要になってくる。
しかもそれをアニメシリーズで描こうというのだ。高いクオリティを維持し続けないと、即座に緊張感を失ってしまうし、誰も続きを見ようとはしないだろう。物語の展開と共に、作画の高さが頼りなのだ。描写に一瞬の隙があってはならない、という難題を宿命付けられた作品だ。
オープニングシーンから、女性キャラクターのセクシャリティは強調的に描かれる。服は引き裂かれ、白く輝く肌が露出し、下着がちらりと見えている。女性キャラクターがあまりにも個性的で、男性キャラクターはその影に埋没しがちである。それが『学園黙示録』の一つの特色だ。女性キャラクターがいくら肌を見せても、殺されないという珍しいホラー作品になった。
ゾンビが登場する作品であるが、作品に恐怖はどこにもない。ゾンビから取り囲まれている状況からの脱出、そのサバイバルが中心となって描かれ、主人公たちは常人をはるかに越えた身体能力でゾンビたちを蹴散らし、それから――恐怖アニメとは思えないセクシャリティを露骨に強調する。
『学園黙示録』に登場する女性キャラクターは最低でもバストサイズが83(毒島冴子 それでもDカップ)という素晴らしいプロポーションを誇り、カットのあちこちでバストの揺れが強調され、あるいは無理矢理なアングルでスカートの中を覗きこむ。
第1話においては、ゾンビに襲われる学校生徒はほとんどが女性キャラクターであり、その描写は異形の何かに襲われる恐怖感以上に、強姦を連想させるように描かれている。
だが、むしろそういったセクシャリティがこの作品の際立った個性であり、そういえばちょっと前の恐怖映画の売りは無意味に露出する女性の裸(つまりおっぱい)、あるいはセックスシーンであった(で、その直後かならず殺人鬼に殺される。あれだけセクシャリティを強調しながら、ゾンビに殺されない『学園黙示録』は非常に珍しい)。
ゾンビ映画の原点であるジョージ・A・ロメロの作品を見ると、意外なくらいゾンビが登場してこないということに気付くはずだ。ゾンビが登場し、群がり、生きた人間が集って一軒家やショッピングモールに取り残される。物語が篭城状態に入ると、ゾンビはまったくといっていいくらいに登場してこない。
ジョージ・A・ロメロ作品では、ゾンビ以上に、異常な閉鎖状態で取り残された人間の描写を重視している。ゾンビという特殊状態に取り囲まれ、死という危険そのものに直面した人間が密室でどのように行
動し、葛藤を抱き、恐慌状態に陥るのか。
ジョージ・A・ロメロ作品は人間に重心を置いて、ゾンビ映画という状況を描く。
という前提でゾンビ映画というものを考えると、ゾンビ以上に人間の心理や集団が作りだす社会を中心に描くのは、源流に則っていると考えてもいいかもしれない。
『学園黙示録』のアクションは豪快だ。リアルに描かれたパースティクティブなど一瞬で吹っ飛ぶかのような、ありえないアクションを次から次へと連発する。ゾンビという状況以上に、キャラクターたちの素晴らしい活劇も作品の見所となっている。
シリーズ作品でゾンビを描く、あるいはゾンビを題材に描いた作品は珍しい。西洋のドラマでもあっただろうか、とふと考えたくなる(調べてみたが、シリーズでゾンビを扱った作品は見付からなかった)。
ゾンビ映画はシリーズ化する場合が多いが、基本的に2時間で完結する。2時間で完結するという前提だから、主要となる舞台はたった一つだけ。大抵は、その小さな場所で作り上げた社会が限界を迎え、崩壊する結末で終わる。
しかし『学園黙示録』は大胆に最初の舞台から飛び出し、ゾンビの出現によって社会がどのように変質し、事態に対して対処しようとしているのか、その描写を一つ一つ取り上げていく。
2時間作品なら恐らく学校に篭城するだけで物語は終わっただろう。だが『学園黙示録』は面白いくらいに主人公たちの活動範囲が広げられ、社会が描かれ、物語の舞台を次々と移していく。たった2時間という範疇をはるかに飛び越えた物語展開が期待される作品だ。
そういえばホラー映画はゴールデンタイムでも深夜でも放送しなくなった。日本の社会が、恐怖に対する極度のアレルギーを引き起こすようになったからだ。凶悪な少年犯罪の原因になるから……、あるいは少年少女の成長に有害に違いないから……、放送局はどこもクレームを恐れて、刺激の弱い、ゆるいゆるい笑いに逃げ込むようになった。アニメとはいえ、ゾンビをテレビで見るようになったのは何年ぶりだろう? むしろ今の状況だと、アニメでないとこの大胆さは出てこなかっただろう。
果たして『学園黙示録』の物語がどのような結末を迎えるのか――。そもそもゾンビ映画は結末を――エピローグが描かれることはなかった。ある程度の希望的観測や、あるいは全員死亡という絶望が描かれるだけである。
ゾンビに取り囲まれている、という状況の向こう側を描いた作品が(多分)皆無なのだ。それは、シリーズではなく2時間作品だから、じっくり描きこめないという弱さがあるためだろう。
『学園黙示録』は史上初めて描かれたゾンビ・シリーズ作品である。ただどこかから脱出するだけの作品ではないだろうし、それで終結するだけの作品など誰も期待していないだろう。長編ならではの、エピローグのある作品が期待されているはずなのだ。
2時間作品では決して描かれない領域がきっとあるはずだ。ゾンビという異常状況の向こう側にいったい何があるのか――。続きの物語を期待して待ちたい作品だ。
学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD 公式ホームページ
学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ニコニコチャンネル
作品データ
監督:荒木哲郎 原作:佐藤大輔 佐藤ショウジ
シリーズ構成・脚本:黒田洋介 キャラクターデザイン・総作画監督:田中将賀
サブキャラクターデザイン:落合瞳 プロップデザイン:新妻大輔
美術監督:川本亜夕 色彩設計:橋本賢 撮影監督:山田和弘
音響監督:たなかかずや 音楽:和田貴史 編集:肥田文
アニメーション制作:マッドハウス
出演:諏訪部順一 井上麻里奈 竹達彩奈 沢城みゆき
〇 谷山紀章 喜多村英梨 竹内順子 檜山修之
〇 福井裕佳梨 宮野真守
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