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■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 ライトノベルが背負う課題
ライトノベルは特殊な傾向を持ち始めている……。まずいって、物語の主要な舞台が学園かファンタジーかのどちらかしかない。ライトノベルのオリジナル性はキャラクターや物語自体にない。その周辺で描かれる特殊設定や用語、それに関連を持つキャラクターたちが作品の本質となっている。キャラクターや物語にはいわゆる「テンプレート」と呼ばれるものがすでに用意され、そこで創造的な何か挑戦しようという作家は少ない。いや、そもそも読者が創造的な何かをそこに求めていない。物語やキャラクターは、作中で提示されるうんざりするような特殊用語の数々によって変質する。
『アスラクライン』という作品は、その典型的な形式を躊躇いもなく踏襲している。キャラクターの造形は「テンプレート」「属性」と呼ばれるものから選択され、物語はありきたりな台詞をあきもせずに繰り返している。しかも『アスラクライン』の作中で提示される特殊用語の数々は、我々が普遍的に知っている通俗的な感覚から乖離している。用語だらけの言葉が並べられると、何について話をしてるのかまったくわからない。『アスラクライン』という作品だからこそ、というべき異端的な描写があるかといえばそれすらない。わかりにくい上に、特別なドラマがそこにない。敷居が無用に高すぎるのだ。
だが『アスラクライン』のような傾向は、ライトノベル全般に見られる傾向になっている。多すぎる特殊設定や、知っていることを前提に笑いを求める「お約束」と呼ばれる展開。もはや一般的な人間には従いていけない、入りがたい「領域」を作り始めている。
『アスラクライン』が舞台にしているのは学園である。学園生活は社会に隷属する大抵の日本人が経験する場所である。そこがどういった場所なのか改めて解説する必要のない場所である。それは1933年版『キング・コング』において、アンの窃盗シーンの理由が描かれないのと同じ理由だ。誰もが当り前に知っている場所であり、知っている社会だからだ。
しかし『アスラクライン』が描く学園は、我々の知っている学校生活とはあまりにもかけ離れた場所である。学校内部に悪の組織的なものがあり、対立があり、主人公は学園の延長に世界を左右する何かを背負っているようである。
もしも彼らが卒業してしまったら、その後の学校はどうなってしまうのだろうか。学校生活の延長に世界の平和云々があるとしても、それを守れるのは学校に在籍している3年間の出来事に過ぎなくなる。卒業したらどうなるのか。留年して世界の平和を維持し続けるのか。
学生にとって学園はあくまでもかりそめの場所でしかない。学園の延長に世界云々の問題があるとするならば、学校教師が手を加えるべき事件である。学生は所詮は学校という社会と、教師という支配者に隷属する存在でしかなく、その想定を上回ることはできない(虞犯行為と退学者を除いて)。しかし『アスラクライン』には教師を含めた大人の存在が驚くほど希薄だ。授業風景にすら、教師は顔すら見せない。あたかも始めから存在していないかのように。
これは『アスラクライン』に限定した話ではない。『とある科学の超電磁砲』も大人の存在が希薄な作品である。ただし『とある科学の超電磁砲』は都市それ自体が学園の延長という珍しい構造で作品が描かれている。だから生徒が都市の治安を管理しているという設定だ。なるほど、これなら教師の代理をしていても構わないだろう。『とある科学の超電磁砲』に登場する少女は、いずれも驚異的な異能力者で、治安維持に必要な実行力を持っている。
だが『とある科学の超電磁砲』の少女たちも3年生になれば卒業するのである。『とある科学の超電磁砲』に登場する「ジャッジメント」は警察的な組織で、構成メンバーは特殊な訓練を受ける。それでもやはり卒業してしまえばそれまでなのでだ。少女たちが都市の治安を守って戦えるのは、学生である期間だけなのである。「学園都市」の治安は、より年若い未熟な少女たちが守り続けるわけである。いや、ひょっとすると彼女たちは、留年して都市の治安維持活動を続けていくつもりなのだろうか。学校の卒業生が犯罪者になる想定はないのだろうか。この場合、幼いあの少女たちは強大な力を持った卒業生犯罪者に対抗できるのだろうか。
学園を主要舞台にしたライトノベルは、学園以外の社会が一切でてこないのだ。主人公が接しているのは自宅と学校だけであり、その周辺にあるべき社会がどこにも出てこない。大抵の作品は、子供の監視者であり、資金的な提供者である親が出てこない。親という社会すら描かれないのである。『とある科学の超電磁砲』は学校以外の場所が活躍の場として出てきているように見せかけられているが、あの都市はあくまでも学園の延長だ。社会を統治する大人は、あの風景だけではなく、少女たちの主要な生活の場にすら存在を感じさせない。
最近とくに奇妙に感じたのは『けんぷファー』だ。『けんぷファー』の第1話において、主人公は突然出現した敵と白昼堂々と闘争を繰り広げ、車道をふっ飛ばし電柱をへし折った。ここまでの大騒動を起こしておきながら、警察もマスコミも一切物語に関与してこない。電柱をへし折ったならば、ある程度の停電くらい起きるはずだ。関係した学生はすぐに特定され、警察に連れて行かれるだろう。新聞の一面トップを飾るくらいの事件だ。同じ第1話では図書館の本棚を真っ二つに引き裂かれる場面も描かれた。あれだけの騒動があれば、真っ先に体育館係のおっかない先生が飛びついてきそうだ。
だというのに、『けんぷファー』は大人や社会が一切介入してこない。教師すら見かけなかった。『けんぷファー』の世界で最も権力を持つ者というのは、同年代の子供なのである。まるで世界に子供たちしかいないというように。社会が物語に関わってこないのだ。『蠅の王』の世界のように、子供たちだけの小さなコミニティがそこに描かれている。それでいながら、主人公たちはやはり学校生活という場所に隷属し、その規範にきっちりと従い続けているのだ。
エロゲーであれば、親がいない、あるいは社会が影響してこないという設定にある程度の意味を持たせることができる。エロゲーの主人公たちは親と社会という監視者がいないからこそ、自由奔放に性の放埓が実行できるのだ。家庭内であっても、親という監視者がいる限りタイミングを見計らう必要がある。そうそう簡単に性的な展開には至らないだろう。社会というのが形だけであって実体として存在していないから、野外での性交もありえる。あれは野外であって野外ではない。そもそも社会が介入してこない前提なのだから、どこであっても野外ということにならないのだ。親あるいは大人という社会がないから、エロゲーの主人公たちは自由すぎる性交という反社会的な逸脱行為ができるのだ。
いつの間にそうなったか知らないが、この好都合設定がライトノベル世界に浸透し、当り前の前提となってしまった。ライトノベルには社会が描かれない。大人が描かれない。親のいない空洞化した家庭と教師のいない学校があり、その全てを子供たちだけで統治されている。その前提の上に複雑奇怪な設定と用語が羅列され、我々を困惑させている。学園が舞台であっても、誰もが知るモラトリアル空間としての共感を得ることができない。何もかもが奇怪さを際立たせるだけである。
小説よりもう少し軽めの読書として生み出されたライトノベル。子供の時期には、本格的な小説より確実に入り込みやすく、親しみやすいだろう。アニメや漫画、ゲームと多様に連動しているからイメージが明確だ。権威ある人は「創造力が育たない云々」などというが、想像力などというものは知覚しているものの中から構築されるシュミレーションに過ぎない。知らないものを想像せよというのは無理だ。物を知らない子供に概念だけで構成された小説を与えたって、理解して読み進められるわけがない。だからこそ、ライトノベルが必要なのだ。
しかしライトノベルはそういった子供のための読書入門ではなく、もはや特殊ないちジャンルである。ライトノベルでしか通用しない物語展開に、「お約束」と呼ばれる笑いに、一般人を遠ざけるのが目的なのかと勘ぐってしまう複雑奇怪な特殊用語、特殊設定。マニアックな人以外禁止の領域である。
小説に限らず、物語創作に必要なのは《斬新なアイデア》と《通俗的な常識》のバランスである。そのどちらにも偏ってはならない。片足は常に通俗的な、誰もが知っている認識の上に置いておくべきなのである。時には科学的学術的に誤っている事象でも、一般的な認識はどちらだ、と審査するべきものである。それを踏み外し、野放図に物語を展開させると、誰も付いてこれない奇怪な産物となってしまう。通俗的な感覚が欠落していると、いくらその物語が科学的学術的に正確だとしても、共感は得られないだろう。逆に科学的学術的な視点が欠けてしまうと、物語はなんとなく接地点をなくしてふわふわした印象になり、あまり現実ではない不安定な印象を与えてしまう。(ファンタジーであっても自由に描いていいものではない。ファンタジーに必要なのは民俗学、考古学、人類学の素養だ。風景の描写には自然主義者としての観察眼が必要だ。ライトノベルが描くファンタジーは、ずばりいってしまえば現代人がファンタジー風のコスプレをしているだけだ。ファンタジーを読書したという感慨はどこにもない)
もはやライトノベルは子供のためのものでもなければ大人の読書でもない。単にマニアックな特殊趣向を持った人のための読書だ。さらに進んでいけば、ライトノベルはそれ自体が他の社会から切り離されていくだろう。文学という分野からも孤立していく。孤立した文化というものは、常に世代が引き摺っていく。その世代がライトノベルから遠ざかっていくと、よほどの変わり者ではない限り読者になろうという者は現れないだろう。ライトノベルは単にライトノベルという孤立したジャンルになり、最後には忘れられていくだけである。
〔2009年11月10日〕
前回 『全体の構成』を読む
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