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■2016/07/11 (Mon)
第7章 Art Loss Register

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18
 川村はそれ以上に何も言わなかった。
 ツグミは川村が何か言うのだと思って、待った。答えを与えてくれる、と思って。
 しかしいくら待っても、川村は何も言わなかった。
 夕日が水平線に消えかけている。空の黄昏も消えつつあった。川村の背中も、夕日の輝きと同時に掻き消えそうになった。
 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画に出てくる登場人物は、みんな背を向けている。背を向けて、どこかへ行こうとしている。決して帰ってこないどこかへ……。
 今の川村の背中は、まさにフリードリヒだった。川村が背負う風景も、そこに漂う空気も、まさしくフリードリヒだった。絵の世界に間違って迷い込んだみたいだった。
 ツグミはどうしようもなく胸が締め付けられる気がした。川村の側へ行って、あの手を掴まないとどこかに行ってしまうと思った。
 しかしツグミは、川村に近付けなかった。川村の背中に人を拒む気配は全くない。なのにツグミは、絵の中に決して踏み込めないように、川村の背中に近付けなかった。
 代わりにツグミの目に涙が溢れた。ツグミ自身、どんな意味の涙なのか、わからなかった。ただ涙が溢れ頬に落ちた。
 そんな時、物音がするのに気付いた。自然の風景にはあまりにも不似合いな、車のエンジン音だった。
 ツグミは音が響いた方向を振り返った。海岸沿いの道は、すでに闇に落ていた。その闇を、2台の車がヘッドライトを点けて走っていた。
「川村さん、逃げて!」
 ツグミは川村を振り向いて叫んだ。きっと宮川の手下だ。どうやってこの場所を知り得たのかわからないけど、とにかく奴らは追ってきてしまった。
 だが、川村は動かなかった。川村の背が、風景と一緒に、ゆっくりと闇に溶け込もうとしていた。そのまま、いなくなってしまうような気がした。
「逃げる必要はない。むしろ、行ったほうがいい。決着をつけないとね」
「そんな無茶を言わないでください。川村さん、殺されちゃう!」
 ツグミは必死になって声を張り上げた。それでも川村に一歩も近付けなかった。
 車が山の麓で駐まった。バタン、とドアを閉める音が、広場まで這い上ってきた。
 ツグミはもう一度、願うような気持ちで携帯電話に目を向けた。しかしディスプレイに書かれているのは『圏外』の2文字だった。
 ツグミは川村に訴えようと、もう一度振り向いた。すると、先に川村の口が開いた。
「ツグミ。君が見付けるんだ。太一さんが僕に与えた役目だった。だけど君が果たすほうが、ふさわしい。太一さんも、きっとそれを望むはずだから」
 川村が言い終わると同時に、夕日が落ちた。
 夜が訪れた。
 ツグミは、なぜか川村の声が別の人間の声に聞こえた。あれは――そう、お父さんの声だ、と気付いた。

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目次

※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

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