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■2009/04/01 (Wed)
劇場アニメ■
エンラッドの王は、「手紙を片付けたい」と重臣たちと別れ、自室への階段を昇った。
国に、不吉な影が迫りつつある。
土地は痩せて、原因不明の病が流行し、魔術師たちに魔法の力が失われてしまった。
それに、竜が東世界に現れたという報告もある。
何かが起きつつある。何もかもが、大きな災いへの前兆だ。
エンラッドの王は、考えに沈みながら階段を昇り、静かな廊下に出た。
廊下には、歴代の王達を象った像がいくつも並んでいる。
エンラッドの王は、自室へ向かおうとしたが、なにかの気配を感じて振り返った。
国の危機に、父祖の霊が語りかけようとしているのか。
「まさかな」
エンラッドの王は自分の空想に、苦笑いした。
よほど気が病んでいるらしい。考えすぎだ。
エンラッドの王は、気を取り直して、自室のドアを振り返った。
そのとき、はっきりと気配を感じた。
何奴!
だが、遅かった。賊の剣は、王の胸を深く刺していた。
エンラッドの王は、呻き声を漏らしながら、膝をついた。
体から、力が抜ける。指先が冷たくなって震える。
何者だ。エンラッドの王は、意識を失う前に、賊の姿を確認しようと顔を上げた。そして、驚愕に凍りついた。
「……アレン」
賊ではなかった。息子のアレンだった。
父と子の葛藤。宮崎吾郎監督は否定するが、明らかに宮崎駿と宮崎吾郎そのものだ。父と子というテーマを正面に出さず、テレビで連呼されるような通俗的なテーマを装ったことが、映画の失敗の原因だ。言葉が、身から出てきていない。
王族の息子に、幸福は望めない。
生まれながらにして、大きな財力と権力が約束されているが、その代償に自由を失う。
いわば“原罪”である。
著名人の息子に生まれるのも、同じ理由で不幸だ。
その父親が、もし宮崎駿であった場合、原罪の力はどこまでも重くなる。
宮崎吾郎の不運は、美術史上に残る天才の息子に生まれた時点で、すでに始まっていた。
『ゲド戦記』の風景は、クロード・ロランの絵からヒントを得ているが、もっとも参考とされているのは、もちろん父親、宮崎駿作品からだ。ここにも、父と子という対比構図が現れてきている。
『ゲド戦記』は、父親殺しから物語が始まる。
だが、アレンから父殺しの明確な動機は、一切語られない。
何かわからない、体内に眠る暗くておぞましいものが、アレンを理由もなく死の衝動に掻き立てて、実行に至らせたのだ。
アレンは平常でいるときは、社交的で、気の弱い青年として描かれている。
一方で打ち明けられない深層では、強い絶望を一人きりで抱えている。
アレンは孤独と絶望とを、一人で抱え、両極端の死の衝動に常に心を引き裂かれているのだ。
アレンは父親を殺して王宮を脱出した。
そんなアレンの前に現れるハイタカは、やはりアレンにとっての父親だ。
アレンは、どんなに早く走っても、遠くまで旅をしても、父親という幻想から抜け出られないのだ。
『ゲド戦記』は結局は素人映画だ。構図やカメラの動きは単調だし、効果を理解していない。物語つくりも理解していない。見よう見まねで、物真似をして見せただけだ。
『ゲド戦記』に描かれた情景は、どれも素晴らしく美しい。
宮崎吾郎は美術教育を一切受けていないとされているが、だとしたら驚嘆すべき感性と描写能力だ。
空間の描き方や、デッサン力。
それら基礎能力は、美術家として数十年、修練を受けた学生の能力を軽く匹敵している。
宮崎吾郎は、生まれながらにして、父の才能の一部を受け継いでいるのだ。
押井守は、『ゲド戦記』に理解を示し(半ば同情に近い)、通俗的な説教文句が羅列する映画の背景にある、“父と子”のテーマを抜き出し、容赦のない解釈を加える。宮崎吾郎自身、自分の体内に持っているテーマに気付けばよかった。
だが、エンターティメントの映画監督としては、あまりにも未熟すぎる。
物語はあまりにも平坦で連続性が弱く、観客に対する配慮が何もできていない。
解説的な台詞が多い一方で、テーマは薄っぺらで、通俗的な説教文句をただ並べただけという印象が付きまとう。
情景は丁寧に描かれているが、映像や演技で何か伝えようという努力がどこにも見えてこない。
物語に、宮崎吾郎自身の力と経験で得た哲学らしきものを感じる瞬間がなく、それがひどく幼稚な映画という印象に貶めている。
もっといけないのが、登場人物たちが、なに一つ困難に直面しないことだ。
敵に取り囲まれても、あまりにも強すぎる力で一瞬のうちに撃退してしまうし、アレンは奴隷にされてしまうが、簡単に救出されてしまう。
後ろ手に縛られたテナーは、何の苦労もなくロープからすり抜けてしまう。
手に汗を握る危機一髪の瞬間、というものが一切ないのだ。
観客は拍子抜けなのを通り越して、白ける。
大きな困難として描かれているのは、影に付きまとわれるアレンだが、肝心の影は観客に見えないし、感じることもできない。
これでは、滑稽な一人芝居にしか見えず、喜劇にしか見えなくなる。
何もかもが、作品を薄っぺらにしてしまっている。
芸術というのは、芸術家の体内から生み出さねばならない。そのためには机にすがりついて、ひたすら描き続けねばならない。宮崎吾郎もそんな機会があればよかった。だが、周囲が宮崎吾郎を振り回し、彼から修行の機会を奪っている。
最初の映画には、その映画監督の最もプリミティブな部分が現れる。
『ゲド戦記』を描いた宮崎吾郎には、間違いなくカットを構築する才能と能力を持っている。
だが、あまりにも現場での経験が不足していた。
普通の映画監督は、初めての監督作品でも、それに至るまでに映像の現場で経験を積むといった前段階があるはずだ。
宮崎吾郎は、何もかも順序を間違えたまま、映画監督として持ち上げられてしまった。
『ゲド戦記』は、宮崎駿の息子が監督するということで、あまりにも衆目の目にさらされすぎた映画だった。
本当ならば、もっと静かなところで、順序だてて経験をつむはずだった。
だが、宮崎駿の息子に生まれたという時点で、そんなチャンスすら許されないのだ。
作品データ
監督・脚本・絵コンテ:宮崎吾郎 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン
脚本:丹羽圭子 作画監督:稲村武志 美術監督:武重洋二
音楽:寺島民哉 色彩設計:保田道世
プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子
香川照之 風吹ジュン 内藤剛志
倍賞美津子 夏川結衣 小林薫
国に、不吉な影が迫りつつある。
土地は痩せて、原因不明の病が流行し、魔術師たちに魔法の力が失われてしまった。
それに、竜が東世界に現れたという報告もある。
何かが起きつつある。何もかもが、大きな災いへの前兆だ。
エンラッドの王は、考えに沈みながら階段を昇り、静かな廊下に出た。
廊下には、歴代の王達を象った像がいくつも並んでいる。
エンラッドの王は、自室へ向かおうとしたが、なにかの気配を感じて振り返った。
国の危機に、父祖の霊が語りかけようとしているのか。
「まさかな」
エンラッドの王は自分の空想に、苦笑いした。
よほど気が病んでいるらしい。考えすぎだ。
エンラッドの王は、気を取り直して、自室のドアを振り返った。
そのとき、はっきりと気配を感じた。
何奴!
だが、遅かった。賊の剣は、王の胸を深く刺していた。
エンラッドの王は、呻き声を漏らしながら、膝をついた。
体から、力が抜ける。指先が冷たくなって震える。
何者だ。エンラッドの王は、意識を失う前に、賊の姿を確認しようと顔を上げた。そして、驚愕に凍りついた。
「……アレン」
賊ではなかった。息子のアレンだった。
父と子の葛藤。宮崎吾郎監督は否定するが、明らかに宮崎駿と宮崎吾郎そのものだ。父と子というテーマを正面に出さず、テレビで連呼されるような通俗的なテーマを装ったことが、映画の失敗の原因だ。言葉が、身から出てきていない。
王族の息子に、幸福は望めない。
生まれながらにして、大きな財力と権力が約束されているが、その代償に自由を失う。
いわば“原罪”である。
著名人の息子に生まれるのも、同じ理由で不幸だ。
その父親が、もし宮崎駿であった場合、原罪の力はどこまでも重くなる。
宮崎吾郎の不運は、美術史上に残る天才の息子に生まれた時点で、すでに始まっていた。
『ゲド戦記』の風景は、クロード・ロランの絵からヒントを得ているが、もっとも参考とされているのは、もちろん父親、宮崎駿作品からだ。ここにも、父と子という対比構図が現れてきている。
『ゲド戦記』は、父親殺しから物語が始まる。
だが、アレンから父殺しの明確な動機は、一切語られない。
何かわからない、体内に眠る暗くておぞましいものが、アレンを理由もなく死の衝動に掻き立てて、実行に至らせたのだ。
アレンは平常でいるときは、社交的で、気の弱い青年として描かれている。
一方で打ち明けられない深層では、強い絶望を一人きりで抱えている。
アレンは孤独と絶望とを、一人で抱え、両極端の死の衝動に常に心を引き裂かれているのだ。
アレンは父親を殺して王宮を脱出した。
そんなアレンの前に現れるハイタカは、やはりアレンにとっての父親だ。
アレンは、どんなに早く走っても、遠くまで旅をしても、父親という幻想から抜け出られないのだ。
『ゲド戦記』は結局は素人映画だ。構図やカメラの動きは単調だし、効果を理解していない。物語つくりも理解していない。見よう見まねで、物真似をして見せただけだ。
『ゲド戦記』に描かれた情景は、どれも素晴らしく美しい。
宮崎吾郎は美術教育を一切受けていないとされているが、だとしたら驚嘆すべき感性と描写能力だ。
空間の描き方や、デッサン力。
それら基礎能力は、美術家として数十年、修練を受けた学生の能力を軽く匹敵している。
宮崎吾郎は、生まれながらにして、父の才能の一部を受け継いでいるのだ。
押井守は、『ゲド戦記』に理解を示し(半ば同情に近い)、通俗的な説教文句が羅列する映画の背景にある、“父と子”のテーマを抜き出し、容赦のない解釈を加える。宮崎吾郎自身、自分の体内に持っているテーマに気付けばよかった。
だが、エンターティメントの映画監督としては、あまりにも未熟すぎる。
物語はあまりにも平坦で連続性が弱く、観客に対する配慮が何もできていない。
解説的な台詞が多い一方で、テーマは薄っぺらで、通俗的な説教文句をただ並べただけという印象が付きまとう。
情景は丁寧に描かれているが、映像や演技で何か伝えようという努力がどこにも見えてこない。
物語に、宮崎吾郎自身の力と経験で得た哲学らしきものを感じる瞬間がなく、それがひどく幼稚な映画という印象に貶めている。
もっといけないのが、登場人物たちが、なに一つ困難に直面しないことだ。
敵に取り囲まれても、あまりにも強すぎる力で一瞬のうちに撃退してしまうし、アレンは奴隷にされてしまうが、簡単に救出されてしまう。
後ろ手に縛られたテナーは、何の苦労もなくロープからすり抜けてしまう。
手に汗を握る危機一髪の瞬間、というものが一切ないのだ。
観客は拍子抜けなのを通り越して、白ける。
大きな困難として描かれているのは、影に付きまとわれるアレンだが、肝心の影は観客に見えないし、感じることもできない。
これでは、滑稽な一人芝居にしか見えず、喜劇にしか見えなくなる。
何もかもが、作品を薄っぺらにしてしまっている。
芸術というのは、芸術家の体内から生み出さねばならない。そのためには机にすがりついて、ひたすら描き続けねばならない。宮崎吾郎もそんな機会があればよかった。だが、周囲が宮崎吾郎を振り回し、彼から修行の機会を奪っている。
最初の映画には、その映画監督の最もプリミティブな部分が現れる。
『ゲド戦記』を描いた宮崎吾郎には、間違いなくカットを構築する才能と能力を持っている。
だが、あまりにも現場での経験が不足していた。
普通の映画監督は、初めての監督作品でも、それに至るまでに映像の現場で経験を積むといった前段階があるはずだ。
宮崎吾郎は、何もかも順序を間違えたまま、映画監督として持ち上げられてしまった。
『ゲド戦記』は、宮崎駿の息子が監督するということで、あまりにも衆目の目にさらされすぎた映画だった。
本当ならば、もっと静かなところで、順序だてて経験をつむはずだった。
だが、宮崎駿の息子に生まれたという時点で、そんなチャンスすら許されないのだ。
作品データ
監督・脚本・絵コンテ:宮崎吾郎 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン
脚本:丹羽圭子 作画監督:稲村武志 美術監督:武重洋二
音楽:寺島民哉 色彩設計:保田道世
プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子
香川照之 風吹ジュン 内藤剛志
倍賞美津子 夏川結衣 小林薫
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