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■2010/01/08 (Fri)
第1話 開口一番

bac295e0.jpg目の前をまるで人がひゅんひゅんと飛び交っているようだった。東武東上線の改札口前で歩く人は皆ひどく早くて、僕はまるで洗濯機の渦の中心で茫然と取り残されたように周りの風景を見ていた。
笑わないで欲しい。小学校も中学校も修学旅行は欠席して、地元から一歩も出たことがなく、初めての東京に戸惑っている。でもこの4月e559e7cd.jpgから東池袋の高校に入学する事になった。15歳。それが僕、竜ヶ崎帝人だ。
偏差値は中の上くらい。綺麗だし設備も整っている。というより、小学生からの親友に誘われたことが大きい。親には地元の公立に行くように反対されたけど、東京にも憧れていたし……。
でも今はむしろ不安を感じている。初めて来る場所にどうしていいかわからなかったし、周りを行く人はみんな無関心みたいな顔をした他人だった。――帰りたい。正直、それが今の思いだった。

主人公と主要登場人物を除いて、街を行く人たちは色彩のない灰色だ。
人ばかりで犇く都会においては、通りを行く人たちなどNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)程度の人格しか与えられていない。灰色の人間に灰色の人格。彼らがどんな内面を持っているのか、知る術はないし、知ろうという気すら起こらない。まさに砂漠の砂粒のようなものだ。
都会という場所は個人の人格が埋没する場所である。彼らがどんな人間でどんな人生を経てきたのか――主体は勝手にテレビで見たようなステレオタイプを押し当てて想定する。彼らはどうせ大したことは何もしていない。灰色の顔を浮かべる彼らがどんな人生を背負ってどんな哲学を抱いているのか――都会において最も困難に思えるのは、人間への感情移入である。特に通り過ぎて去っていく人たちに対して感情移入は難しい。
だから都会という場所にいると、得体の知れない優越感に捉われることがある。あの通り過ぎる有象無象に較べたら、自分のほうが遥かに優秀で素晴らしい人間性を獲得している――。
『デュラララ』のモブが灰色に描かれるのは単に作業上の理由だろう。だが確かに我々は、都会という場所を灰色の人間が通り過ぎる場所と見做している部分はある。『デュラララ』はそんな人間の主観的な意識を画像の中に描き出している。

0b866c2e.jpg「みーかどー」
0cfbee7e.jpgいきなりすぐ側で親しげに呼びかける声がした。
誰? 僕は振り返った。
「え? あれ? ……紀田君?」
金髪の灰色のパーカ姿の少年だった。振り向いてみると、僕から301c53c603.jpgセンチも離れていない側だった。
「疑問系かよ。ならば答えてやろう。3択で答えよ。1、紀田正臣。2、紀田正臣。3、紀田正臣」
紀田正臣はノリノリで指を1本ずつ突き立てた。
「わあー、紀田君! 紀田君なの」
僕はやっと紀田だとわかって笑顔をもらした。
7e346327.jpg「……俺の3年かけて編み出した渾身のネタはスルーか。ひっさしぶりだな、おい!」
紀田は僕の胸をトンと叩いた。僕は懐かしさに嬉しくて笑いを漏らした。
「ぜんぜん変わってるからびっくりしたよ。髪の毛染めたりしているとd0999676.jpgは思わなかった。あと、そのネタ寒い」
「そりゃ4年も経てばな~。ていうより、帝人は小学校からぜんぜん変わってないじゃんかよ。ていうか、さりげなく寒いとか言うな」
紀田は久し振りに会えた喜びを浮かべて、僕の頭をぺちぺちと叩いた。
これは僕の大親友、紀田正臣。小学校の時に紀田は転校してしまったけど、その後もずっとチャットで話し合っている仲だった。見た目は随分変わってしまったけど、彼の話しぶりや仕草はちっとも変わっていなかった。ギャグが寒いのも、あの頃のままだった。
63644c8f.jpg「行きたいところとかあるか?」
紀田は歩きながら玄人の顔で僕に話しかけた。
「えーっと、サンシャイン60とか?」
僕はとりあえず池袋で知っている地名を挙げた。すると紀田は失笑するような笑いを浮かべた。
「今から? 行くんなら彼女の1人でも連れていったほうがいいぞ」
「じゃあ、池袋ウエストゲートパークとか……」
「普通に西口公園って言えよ」
「え? 池袋人はみんなそう呼んでいるんじゃ」
「何だよ池袋人って。あ、何? 行きたい?」
紀田は僕の前に飛び出して足を止めた。僕はえっとなって紀田の顔を見詰めた。
90ccfbc8.jpg「あ、でも、ちょっと……」
紀田は有無言わさず、僕の手を掴んで地下鉄出口のエスカレーターへと乗った。
「やめようよ。もう夜だよ。カラーギャングってのに殺されちゃうよ」
僕はおどおどとして紀田に訴えかけた。
「マジでそんなこと言われても困る。つうかまだ6時だぞ。ったく、臆病なのも相変わらずだな」
紀田は携帯を引っ張り出して、僕を安心させるように笑いかけた。
そうか――と僕は今さらながらに思った。この4年間、紀田は僕とはまったく違う人生を歩んできた。この街で、この都会で。紀田はちょっと見るとあの頃のままだけど、やはりどこか違う。僕の知らないずっと遠いところにいて、そして今、彼は僕を自分たちの場所に引きこもうとしてくれている。

13431cd0.jpg池袋の街は映像に描かれるほど暗くはない。
だがあえてだろう、『デュラララ』の風景は極端なくらい影が深く、闇夜に浮かぶ窓の光や看板の色彩を克明に浮かぶように描かれている。その風景は陰鬱で猥雑でいかがわしさに溢れ、都会というより魔都という印象だ。異界の登場人物たちが集る舞台として相応しく、普aa8d1e20.jpg通ではない何かが集まりそうな気配がいっぱいに満ちている。
映像を見ていると、池袋の街が『バットマン』のゴッサムシティのようにすら見えてくる。
作り手の感性と物語の都合に合わせて、池袋の街は大胆に再構築されている。『デュラララ』に描かれた池袋は、豊島区のあの池袋ではなく、あくまでも『デュラララ』の池袋なのだ。

c3733449.jpg「最近はカラーギャングも減ったよ。去年辺りは目立つのが多かったんだけど、埼玉と抗争やって何十人もパクられてさぁ。それからは同じ色の服着た連中が少しでも集ろうもんなら、速攻で警察が飛んでくるようになっちまたのよ」
紀田は頭の後ろに手を回しながら、少し退屈そうな口ぶりで説明した。
「じゃあ、今の池袋は安心なの?」
僕はへえーと人ごみが珍しくてきょろきょろと辺りを見ていた。
87ef6a35.jpgそうやってぼんやりしているのがいけなかった。僕は目の前に人が立っているのに気付かず、ぶつかってしまった。
「す、すみません……え?」
僕は頭を上げて改めてぶつかった相手を見た。
まるで絵に書いたように張り付いた笑顔――というか絵だった。道の真ん中に、お店でよく見るような等身大ポップが置かれていたのだ。
等身大ポップの後ろから、何だと2人の男女が顔を出した。
「あ、紀田君じゃん」
女が紀田に気付いて声を上げた。
「あ、狩沢さんに遊馬崎さん。どーもです」
3c3e531b.jpg紀田は知り合いのように気楽そうな挨拶をした。
「いやいや、久し振り」
遊馬崎さんと呼ばれた男が紀田に手を振った。
「そっちの子は誰? 友達?」
狩沢と呼ばれた女が僕を指さし、紀田に尋ねる。
b8e66e95.jpg「ああ、こいつは幼馴染で今日、池袋に引っ越してきたんですよ」
「へえ、そうなんだ」
狩沢が軽めに声を上げた。
この人は狩沢絵理華。一緒にいるのが遊馬崎ウォーカー。
向い側の道路にワゴン車を止めているのは門田京平に渡草三郎。
3875b166.jpg0e5a02a2.jpgどーでもいい話をするが遊馬崎たちのいる場所で電撃文庫を買えそうな場所はない。アニメイトなら東急ハンズを通り過ぎたサンシャインの隣だ。ところでああいったポップはどこで手に入るのだろう。というか持ち去ってどうするつもりなのか。
a9076c59.jpgモブが灰色に対して、主要登場人物たちはビビッドなカラーで描かれる。彼らの強烈な個性を表現するように、色彩は非常に華やかだ。
彼らは通り過ぎる人間達とは生い立ちも人間としての種類も違う。もっと個性的で、リアルに描きこまれた風景から浮かび上がるくらい強烈な属性を備えた人たちだ。
48152887.jpg都市はすでに、そこで通り過ぎる人間から個性を奪い去ろうとしている。人間個人の個性より、都市のほうがはるかにくっきりとした人格を持ち、都市がそこを通り過ぎる人間に特定の個性を与えている。その都市を通り過ぎる誰か、という属性を与えている。ヒューマニズムの力を失った現代人にとって、その都市の性格こそが個人を規定すbc4594a5.jpgるアイデンティティに変わりつつある。
だが『デュラララ』はそんなごまかしの個人主義を意義申し立てするように、個人をどこまでも力強く描いている。現実世界にありえない組み合わせに、剛腕に、首なしライダーが当り前のように登場する。
そういったキャラクター達が複雑に折り重なる不純な群像劇――それが『デュラララ』が目指している空間だろう。

a05f3d54.jpg紀田はその後もとめどなく話しを続けた。
板前の格好をしたロシア人の黒人であるサイモンのことや、絶対に怒らせてはいけない平和島静雄。他にも絶対会ってはいけない人物として折原臨也という男のことも話した。
「ああ、あとな、ダラーズっていう連中にも関わらないほうがいいぜ。4d28da23.jpgワンダラーズのダラーズ」
紀田はふと思い出したようにその名前を口にした。
「ダラース?」
と僕は鸚鵡返しにしながら、ワンダラーズって何だ? と考えていた。
「俺も詳しいことはわかんねえんだけどよ。とにかく人数が多くて、線が一本ぶち切れたチームらしい。カラーギャングらしいんだけど、どんな色なのかもわかんねえ。ま、今は迂闊に集会はできねえから、そいつらもいつの間にか解散しちまったりしてな」
「そうなんだ」
「お前は運がいいよ。今日だけで門田さんやサイモンに会えて、静雄が投げた自動販売機も見れて」
「それ、運がいいって言うのかな?」
僕は困惑して尋ね返した。
b0481fd1.jpg「嬉しいよ。この街でお前とガッコ行って、また一緒に遊べるなんてさ」
紀田は急に真顔になって、じっと僕の顔を見つめた。
「僕もだよ」
僕は応えるように紀田に頷いて返した。
その時だ、どこかで唸り声がした。まるでずっと暗い地下からズゥゥーンと響いてくるような音だった。辛うじて僕は、それがエンジン音だとわかった。
「お前本当に運がいいぞ! おまけに都市伝説を目の前で見れるんだから!」
紀田は言うより早く、音がした方向へと駆け出した。
「紀田君、都市伝説って何?」
6f515c6a.jpg僕は紀田を追いかけて走り、尋ねた。
「黒バイクだよ。首なしライダー!」
紀田はその先の歩道が切れた場所まで進んだ。その先に幅の広い道路が広がり、長い横断歩道が横切っていた。その道路を、真っ黒な影が今まさに通り過ぎようとした。
2217f03d.jpg黒い影は低くエンジン音を唸らせ、道路を物凄い速度で疾走していた。それこそ光に映った影でも見ているような、しかしその影は確かに実体を持った人の姿をして、僕の意識に相反する不思議な印象を刻印していた。
僕はその時、自分の体が震えているのに気付いた。怖かったんじゃ050daf1c.jpgない。多分、感動していたんだ。――すごいものを見た!
僕はここで、この街で、他所では到底できないような経験をした。今まで、決して手が届かないと思っていたありえない現実が目の前に広がっているんだと感じた。僕は僕の新しい現実が始まる予感に、震えていた。
aff25027.jpgc9866426.jpgメインヒロインであるセルティ。とんがり耳に黒ずくめの衣装。見た目の印象といい活動といい、どうしてもバットマンと姿か被る。都市伝説的存在、という連想から気付けば似たイメージを作り出してしまったのだろう。
『デュラララ』第1話は顔見せだけだ。次から次へと登場人物が出てきたが、物語は一切動いていない。それから池袋の街が現実の風景とは別種の異界であると紹介した。
物語は動かないが、今にも何かが起きそうな、得体の知れない何かが動き出しそうなそんな予感の孕んだプロローグである。まともではない人物に、まともではない事件――。力と力がぶつかり合う物語が始まる。
まるで文明という秩序に対して異議申し立てするように、彼らは攻撃性を剥きだしにして異能の力をぶつけ合う。
現代という灰色に沈んだ無個性に対し、彼らはどんな活劇(アンチテーゼ)を演じ池袋の街にその存在を刻印するのか――見ものである。

作品データ
監督:大森貴弘 原作:成田良悟 原作イラスト:ヤスダスズヒト
シリーズ構成:高木登 キャラクターデザイン:岸田隆宏
メカデザイン・アクション作監:山田起生 総作画監督:高田晃
美術:伊藤聖 色彩設計:宮脇裕美 監督補:川面真也 撮影:田村仁
CGプロデューサー:神林憲和 編集:関一彦 音楽:吉森信
アニメーション制作:ブレインズ・ベース
出演:豊永利行 宮野真守 花澤香菜 神谷浩史
  小野大輔 福山潤 中村悠一 梶裕貴
  堀江一眞 小林沙苗 黒田崇矢 戸松遥
  伊瀬茉莉也 松風雅也 伊藤健太郎 井口祐一



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■2010/01/06 (Wed)
カテゴリー別:あいうえお順

【漫画】
オクターヴ Vol.1
さよなら絶望先生 第1集
さよなら絶望先生 第16集
さよなら絶望先生 第18集
さよなら絶望先生 第19集
さよなら絶望先生 第20集
さよなら絶望先生〔総合〕専用目次
じょしらく 第1巻
じょしらく 第2巻
じょしらく 第5巻
進撃の巨人 第1巻
ぢごぷり 第1巻
バクマン。 1
ラブやん 第12巻

【小説】
コレキヨの恋文
闇の奥

【アニメ関連書】
雑草魂 石川光久・アニメビジネスを変えた男
結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?

【研究書】
4万2246票 参院選に自民党から立候補―無謀な戦いの全記録
金枝篇 上
金枝篇 下

【雑誌】
CUT No.270 『けいおん!』特集


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■2010/01/06 (Wed)
書籍007・闇の奥――アフリカ。
そこは地図の中の空白。神秘に覆われた場所だった。

マーロウは冒険家だった。世界中を旅して、あらゆる国の土を踏み、あらゆる風景を目にしてきた。だからもう地図に書かれた土地の名前に神秘を感じなくなっていた。
だがある日、マーロウは一枚の地図に出会う。
アフリカの地図だった。
地図は大きな運河を描いていた。まるで大きな大蛇のような河で、海から始まり、とぐろを巻くようにうねりながら奥地へと伸びている。
そうだ。アフリカにはまだ行っていない。
マーロウは一枚の地図に魅了され、ただちにアフリカ行きを決める。

マーロウは早速、アフリカで貿易をしている会社へ行き、面接を受けた。
ちょうど船長の一人が現地人と衝突して殺害されたばかりで、貿易会社は後釜を捜していた。マーロウはタイミングよく船長の仕事を得て、アフリカ行きの船に乗った。
この時マーロウは、アフリカに何が待ち受けているのか知らなかった。単純に、少年が見知らぬ土地に憧れを抱くように、アフリカ行きに胸を躍らせていた。
だが、そこは狂気が待ち受ける場所だった。
アフリカ植民地時代の真っ只中という背景もあり、アフリカ行きの船には次々と軍人が乗り込んできた。マーロウは軍人たちを乗せ、軍人宛の手紙を運搬した。
だがアフリカからやってくる兵士たちの様子は、どことなく奇妙だった。
マーロウは一度、沖合いに碇泊する一隻の軍艦に出くわした。
軍艦は大陸に向かって砲身をずらりと並べ、ジャングルに向かってしきりに大砲を打ち込んでいた。
「あそこに、土人の集落があるんだ」
ある兵士はマーロウにそう説明した。しかしマーロウの目には、一軒の家も見当たらなかった。

間もなくマーロウは、アフリカの出張所にたどり着く。
そこは荒れた場所だった。貧困と疫病が蔓延して無気力にうずくまる黒人たち。無意味な穴掘り労働を続ける黒人たち。森に入ると痩せた黒人たちが何人もうずくまっていた。もはや病気と無気力で動く力もなく、そこで死を待っているのだ。
そんな光景が灼熱の太陽の下で、どんよりとした土臭を満たしていた。身を潜めていた狂気がいよいよ姿を明らかにしようとしていた。
だがマーロウは、そんな光景に決して恐れを抱かず、逃げ出そうともせず、出張所の仕事に従事し続ける。
そんな日々が十日も続いた頃、唐突に会計士が「きっと君はクルツにお会いになるでしょう」と切り出した。
クルツ。
一等代理士で、貿易会社が最も重要視する象牙地帯の出張所を預かる男。知識豊かで聡明で絵画の才能も持つ男。クルツは、いつかそこの総支配人になるだろう、と噂されていた。
出張所に駐在する人々は、誰もが二言目にはクルツを話題にした。だがマーロウはさほどクルツに興味を抱かなかった。クルツについてそれこそ堪能するほど耳にしたが、マーロウには現実味が弱く、どこか天使と悪魔について聞かされているようだった。

間もなくしてクルツに問題が起きたらしい噂を耳にする。
クルツが病気を患ったらしい。それも相当に深刻な状況だそうだ。
クルツは出張所の象牙をすべてカヌーに乗せて、自身も戻ってくるはずだった。だがクルツは戻ってこなかった。クルツは運河の途上でカヌーを回れ右させて、元の場所に戻ってしまったのだ。
そんな話を聞いて、マーロウはようやくクルツに感心と興味を持ち始めた。アフリカの奥地にいて、病気にも関わらず戻ってこない男。果たしてどんな男なのか。
そんな折、貿易会社からマーロウに指示が下る。マーロウは行き先も告げられずに、蒸気船で運河を下っていく任務を受けた。
だがマーロウはすでに気付いている。クルツのもとへ行くのだ。運河を下っていった先に、クルツが待っているのだ。
蒸気船は原始の夜を遡るように、河を上っていく。


『闇の奥』が発表されたのは1899年だ。小説のモデルにされたのはコンゴ川の流域で、作者コンラッドは実際にこの場所に派遣され、象牙の運搬を担当していた。だから『闇の奥』は半ば自伝的な作品であると言える。
当時のアフリカは西洋諸国の一方的な植民地化で、搾取が横行しひどい荒廃が広がっていた。物語中に描かれた風景の一つ一つは、もちろん誇張もあると考えられるが概ね事実に基づいた描写だ。
コンラッドはこの体験を手紙で「コンゴに行くまでの僕は、単に一匹の動物に過ぎなかった」とさえ語っている。コンラッドにとって、アフリカ体験はそれほどに重大な影響力を持っていた。
『闇の奥』のタイトル及び物語の意味は、その通りに「人間精神の闇」を示している(実際には様々な解釈がある)。主人公マーロウが川を下っていく過程は、まさに人間精神の闇の奥へと向かっていく過程である。
その最中で、マーロウはあらゆる荒廃を目にする。原始の闇。文明の荒廃。どの風景もクルツの残像を思わせる。マーロウはクルツの精神の痕跡をたどっているのだ。
登場人物の一人が語るように、アフリカ行きの志願者は何人もいた。
だが給料は月に2フランや3フラン。薄給な上、行った者はほとんどは精神を病むか、あるいはそのまま戻ってこれなくなる。それでも誰もがアフリカに引き寄せられ、アフリカに向かっていく。
彼らは“自殺志願者”なのか? いや違う。自殺ならマンハッタンの高層ビルから飛び降りればいい。自殺とは明らかな別種の、もっと活動的でとりとめのない意識が彼らの心理を作用している。
マーロウはアフリカの狂気を目にして、体験したあとも決して恐れもしないし逃げようともしない。黒人達のために何かしようともしない。ただある種の好奇心を持って、彼らを観察し、生活を続けている。
マーロウはすでにアフリカの狂気に魅了されていたのだ。この世の暗黒を前にして、かつてない魅力を感じているのだ。
そしてその暗黒の最も深いところにクルツがいる。クルツは暗黒の淵で1人きりで佇み、じっとその向うを見詰めている。肉体は病気に蝕まれて、いよいよ朽ちようとしている。だがクルツは助けを求めず、自らの意思で暗黒の淵に引き返してしまった。暗黒の、もっと深いところを覗くように。
そこに何があるのか?
マーロウはクルツに魅力されて、運河の一番深い場所へと下っていく。だがマーロウはクルツと同じ場所には決して行かない。マーロウの役目は、クルツを捕まえ、連れ戻すところで終わっている。だからマーロウも読者も、クルツが本当に目撃し、心に感じたすべてを知らされずに済む。
しかし物語はクルツにもっとも近い場所まで接近していく。最も恐ろしい暗黒の淵へと。マーロウは読者を引き連れて、暗黒の淵へと遡っていく。

読書記事一覧

作品データ
闇の奥
著者:コンラッド
訳者:仲野好夫
出版:岩波書店




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■2010/01/06 (Wed)
書籍002・金枝篇下未開人は、『神は“当然”死ぬもの』と考えていた。あるネイティブ・アメリカンの語り手に古い神について訊ねると、「その神はもう死んだ。1人の神がそんなに長く生きられるはずがないじゃないか」と語った。だからグリーンランドの人々は、キリスト教の神が死なないと聞かされたとき驚愕した。

神とはこの世の全ての生命と結びついている存在である。だから神の死は、非常に危険であると考えられていた。神の死は地上の全ての生命の死を意味していた。
だが現実問題として神は死ぬ。特に神の自然死は危険だと考えられていた。神が自然死すると、大地の全ては衰えて、回復しないと考えられていた。
「神の死」という危機に対する予防策は、1つしかなかった。――神を殺すことである。
神を殺した後、“神の魂”を新たな“器”に移す。そうした儀式を通過することで、神の魂は若い肉体に存続するのだと考えられた。ちなみに多くの場合で、“新しい神の器”に任命されるのは“神を殺した者”である。

神殺しの風習はやがて制度となり、時代が変わるにつれて穏やかなものへと変化していった。
多くの場合で神殺しの制度は世襲制となり、そうすることで神-王の制度は残り続けた。

『金枝篇』の下巻は神を殺す行為について語られる。神殺しはどんな理由で始まり、どのように社会化し後の文明社会に残留していったのか。
フレイザーは、時代、場所を次々に移しながら、その形式の変化を追い、推論を展開させていく。

近代に近付くと王殺しの形式は、もっと漠然とした、抽象的な概念に置き換えられる傾向があった。例えば神話や民話、それから土着的な祭儀の中に、その痕跡を残留させた。
農民の文化には収穫期の刈り束を『穀物霊』と呼ぶ風習があった。穀物霊の風習はヨーロッパ各地で見られ、狼や、犬、野ウサギ、鶏、ガチョウ、猫……と様々な動物の名前で呼ばれる。
これらの動物霊は共通して穀物の中に住むと考えられ、最後の刈り束の中で捕えられ、殺される。これらの動物霊はほとんどが「麦の狼」や「収穫の鶏」と動物の名前で呼ばれるが、ときどき「母」や「老いた者」というように人間の名前で呼ばれる例もあった。
未開人は穀物の束に逃げ込んだ動物を、霊が化けたものと考えていたのではないか、と推測していた。この推測からフレイザーは、様々な地方に残る神々が、動物の化身を持っている理由を探る。ギリシャの神、山羊の化身を持つディオニソスや、豚の化身を持つデメテルたちだ。
この推測が正しいとすれば、逆の説明もできるはずである。動物霊はそもそも神々の信仰が変形したものである、と。
そこからアリキアの伝説について、ひとつの推論が可能になってくる。
アリキアの森の聖なる王ウィルビスが馬に殺されるのは、「ウィルビス崇拝のある種の特徴、とりわけ彼を祭る聖なる木立から馬を排除したという風習を、説明するために考え出されたもの(第3章第10節)」ではないか。
かつての儀式の具体的な部分は、後の世代に正確に伝わらない。儀式の形式は、伝承だけが残ることによって、儀式の実体は“伝説化”するのだ。

だが、まだ全てが解説されていない。アリキアの祭祀はなぜ前任者を殺さねばならなかったのか? なぜ殺人を実行する前に『黄金の枝』を折る必要があったのか?
ここまでの夥しい引用と推論によって、すでに一つの前提が生まれている。
ネミの祭祀は、森の神、植物の霊であった。この霊が衰弱すると、大地の生命も衰弱すると考えられていた。だからこの神を若いうちに殺し、後継者に移す必要があった。
アリキアの祭祀も同じ理由で殺害されたのだろう。
この前提の上で『なぜ黄金の枝を折る必要があるのか』という回答への模索が始まる。

この本はもちろんここで終わりではない。とてつもなく膨大な書だ。次第に読む行為自体が修行のようにすらなってしまう。
『金枝篇』は序章に提示されたように、イタリアのアリキアの儀式について解説した本である。高度な社会が、原始と迷信の宗教を原点にして生まれ、発達していった過程を説明している。
だが実は『金枝篇』には、もう一つの目論見があった。
それはキリスト教の解明である。キリスト教もそのほかのあらゆる宗教、社会と同じく「原始と迷信」から生まれたに過ぎない、と説明したかったのだ。たとえ、キリスト教が「高度に文明化された部分の源泉」と見做されていようとも、その原点は生贄や呪いといった野蛮な風習から誕生したはずなのだ。
『金枝篇』は夥しい引用と推論によって、あらゆる宗教、社会が野蛮なものから生まれ、「おそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている、様々な制度を生み出していたと証明(本書第1章第1節)」してみせた。
その証明は当然、キリスト教にも同様に当てはまるものであった。イエス・キリストの処刑と、復活の信仰。この伝承が示しているのは、かつての儀式の様式である、と。キリストの処刑の背景にあったのは、アリキアの湖にあったような生贄の制度であったのだ、と。
フレイザーが途方もない枚数で証明したかったのは、キリスト教が特別例外ではない、という事実である。

しかし『金枝篇』にはキリスト教にまつわる描写は非常に少ない。まるで避けているかのように、不自然なくらい記述が少ない。
それは当時の社会情勢が影響していた。当時、まだ支配的だった教会思想に反逆するような本の出版は許されない行為だった。もちろん不可能ではなかったが、非常に勇気のいることだっただろう。
だから『金枝篇』にはキリスト教に関する記述はほとんどない。だが『金枝篇』が真に語ろうとしたのは、キリスト教についてである。

『金枝篇』はとてつもなく長大で難解だが、にも関わらず魅力的だ。今も多くの人々を惹きつけてやまない。私のような民俗学の門外漢ですら、魅力を感じ『金枝篇』の読書は最後まで刺激的な興奮をもたらしてくれた。
特にファンタジー小説を志す人ならば絶対に必読の本だ。ファンタジー小説でなくとも『金枝篇』は様々なインスピレーションを提供してくれるはずだ。
例えば、映画『地獄の黙示録』は、この『金枝篇』をヒントに生まれている(原作『闇の奥』もやはり『金枝篇』に影響されている)。『地獄の黙示録』の最後のシーンにはわざわざ『金枝篇』が登場し、監督が手の内を明かしてくれている。

現代は、とてつもなく高度な機械文明の時代である。ほとんどの人々がレベルの高い教育を受け、知性が高く聡明で、啓蒙主義が当然の思想として広がっている。
だからといって、我々は原始的で野蛮な迷信から完全に縁を切ったわけではない。都市から夜が消え、日々の事件を瞬時に知るようになった今ですら、幽霊や宇宙人といった得体の知れないものが我々の周囲を跋扈している。
それに過去の遺物と思えた民族が、今もあらゆる戦争を引き起こしている。
『金枝篇』はそういった迷信の起源についても、解明を与えてくれている。だから今においても魅力を感じるのだろう。

『金枝篇 上』を読む

読書記事一覧

作品データ
「初版 金枝篇 下」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房




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■2010/01/06 (Wed)
書籍001・金枝篇ターナーの「金枝」を知らない者などいるだろうか?(本書 第1章第1節)

ターナーとはもちろんイギリスを代表する画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを指している。『金枝篇』が話題にした絵画は「ディアナの鏡」と題された、美しい湖を描いた絵である。
これは実在の湖で、イタリアのアルバ丘陵レミの村に近い場所にある。この湖は『アリキアの湖』と呼ばれる。
この絵画はただ美しいだけではない。その湖は、ある儀式の主要な舞台であった。その儀式とは――生贄である。
なぜそんな美しい場所で生贄など捧げられたのか? どういった人間が生贄として捧げられたのか。そもそも生贄の習慣はどこから始まり、どのように社会化していったのか。
アリキアの湖で捧げられた生贄の正体』――これが、本書で最初に掲げられた“命題”であった。

フレイザーは生贄の習慣を説明するために、他の様々な地域に目を向けた。もし他の地域で同様の習慣を見出すことができ、さらに同様の社会的気質を発見できれば、『これらの動機が、人間の社会でおそらく普遍的といえるほどに広く機能し、様々な環境下で、厳密には異なるものの概して似通っている様々な制度を生み出していたと証明(本書 第1章第1節)』できるのではないか、と考えた。

まずはじめにフレイザーが目をつけたのは、アリキアの祭祀が『森の王』と呼ばれていた点である。生贄として殺される人物は、祭祀であると同時に『王』の称号が与えられていた。
古代イタリア、及びギリシアでは、王と祭祀を結びつける考え方は一般的なものであった。王とは、世俗的な政治のみを司る存在ではなく、霊的な支配者であり、しばしば神々の末裔とも考えられていた。
彼ら『王-祭祀-神』たちの社会的役割は、超自然的な現象の操作であった。雲を操り雨を降らせ、大地に恩恵をもたらす。女には子供を与える(出産もこの時代では“超自然的現象”のひとつだった)。つまり王に期待された役割とは、神そのものとしての役割であり、王とは超自然の代理人であった。

蛮人の時代においては、神と人間の区別は不明瞭であった。蛮人は神と人間の違いを、さほど大きくないと考えていた。人間の意志と、神(自然)の現象は、結びついていると考え、占いや祈祷で自由に操作可能なものと考えていた。
だから原初的な宗教においては、神は絶対的な存在ではなかった。神の役割を与えられた人間は、超自然的現象と結びついた偉大な存在であったが、だからといって人間以上の存在と考えられていなかった。それ以外の人間と、地位の面では平等か、あるいは神の方が人々に隷属する立場であった。
その宗教意識が次の段階に移ると、人間はようやく、自然は途方もなく巨大で、手に負えない存在であると気付く。だからっといって大地・自然は操作可能であるという幻想が消えるわけではない。ただし、自然を司る神の社会的立場は増大する。この段階において、祭祀は社会の筆頭、『王』あるいは『神』の立場に格上げされるのである。人々は超自然そのものである神の機嫌を損なわないように、大事に扱い供物を捧げるようになる。
そういった認識もやがて終了し、人間はついに、神にも王にも自然は操作不能であると気付く。この段階に入ると、それまで畏れ多かった祈りや祈祷は、次の二つのものに地位を変える。供犠は祈りは文明化された部分の源泉と見做されるか、あるいはただの迷信や黒魔術に転落する。
科学の意識に目覚めるのは、この次の段階においてである。大地は神が自由な意思によって操作するものではなく、観察によって、法則性を発見するべきものであると考えられる。神という不安定な概念はついに捨てられ、科学が芽を出す。錬金術は、最後には科学に進化するのだ。

ヨーロッパのアーリア人にとって、『樹木崇拝』は重要な役割を担っていた。ドイツにおいて最も古い神殿の形式は自然の森の中であったし、ケルトの信仰では、オークを最上のものと考えていた。
かつての時代においては、樹木は魂ある存在であって大事に扱われた。樹木には神の意思が宿り、それを折ったり燃やしたりする行為は自然の怒りを買うと考えられていた。
樹木は樹木霊の身体であり、また霊の住居とも考えられていた。樹木には、かつて神が担っていた全てのエネルギーが宿っていると考えられていた。樹木こそが牛や豚の数を増やし、子供を授けてくれると考えられていた。いわゆる、アニミズムの概念である。
こうした樹木信仰は、儀式において人間が樹木霊の姿に扮した。多くの場合、儀式は5月に執り行う。樹木霊に扮する司祭は、緑の葉や花で着飾り、人々を引き連れて町や森の中を練り歩く。その最後には、樹木霊は(多くの場合で)水のなかに放り込まれる。こうして儀式は終了となり、次の年の豊作が約束される。
こうした扮装者は「5月の木」や「5月の枝」などと呼ばれる。
かつて樹木崇拝はヨーロッパ先史アーリア人の宗教意識において、重要な地位を占めていた。樹木を崇拝する儀式や式典は、あらゆる地域に共通する均一性を備えている。式典は春や夏至の祝祭で、ヨーロッパの農民たちによって現在も保存されている。もしくはつい最近まで行われていた。

ここまでの記述で次の推測も無理なく受け入れられるはずだ。
~アリキアの『森の王』も、本質的に樹木霊、もしくは森の神の崇拝者であった~
アリキアの『森の王』も、ここまでに紹介された例と類似した存在ではなかったのではないだろうか? すなわち『森の王』とは『樹木霊』の原初的姿である、と。『森の王』は雨や陽光をもたらし、穀物を実らせ、女性に子供を授ける存在ではなかっただろうか?
すると逆説的こうともいえないだろうか。『樹木霊』はかつて『森の王』のように人間がその立場を担い、『森の王』のように自身が生贄として捧げられていたのではないか。

ここまでが本書第1章をおおまかにまとめた解説である。もちろん本書はもっと詳細であるし、この後もまだまだ続く。ここでまとめた解説だけではあまりにも部分的で、理解しづらいと思う。
『金枝篇』は途方もなく長大な本である。それに引用があまりにも多く、読んでいるうちに、内容を見失ってしまうことすらある。アジアの小国の話かと思ったら、次の段落でいきなりアフリカの民族の話に、さらに次の段落に移ればあるネイティブ・アメリカンの事例が紹介される。『金枝篇』の弱点は、地理的距離感が皆無で、情報と知識だけが不用意に羅列されることである。
それに生贄の習慣を巡る解説は、とても枕元に置いて読む本としてはふさわしくない。内容も難解だ。
しかし我々の生活と遠い題材に思えて、最終的には我々の社会意識の底辺に結びつく話である。現在の高度な社会が形成される以前には、生贄のような野蛮な風習があったのだ、と。
我々の文明社会の背景にある精神性を推測させてくれる一冊である。

『金枝篇 下』を読む

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作品データ
「初版 金枝篇 上」
著者:ジェイムズ・ジョージ・フレイザー
翻訳:吉川信
出版:筑摩書房




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