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■2009/06/25 (Thu)
映画:外国映画■
真っ暗な闇の奥底。
どこかで水の音が聞こえた。ぶくぶくと泡を作るときの音だ。
しばらく水の流れに、体を漂わせているような感触があった。
やがて水の音が聞こえなくなった。
次に聞こえてきたのは、静かな音楽だった。
周囲を、誰かが取り囲む。でも少女の体は箱の中に封じられて、外の世界が見えなかった。
間もなくして、誰かが箱の鍵を開けた。扉が開かれ、光が射し込んできた。
少女は目を見開いて、辺りを見回した。
そこは知らない場所で、知らない女の子たちが、少女を囲んで見下ろしていた。
「こんにちわ。あなたの名前は?」
年長者の女の子が膝をついて、訊ねた。
「イリス」
「私はビアンカ」
少女たちが集る秘密の空間……。もし男性監督が描いていたら、変に理屈っぽくなったり、自身の欲望が投影されて、その世界は変質していただろう(日本のアニメ、そんなんばっかりだけど)
深い森の向こう側。
そこに、“エコール”と呼ばれる閉ざされた学校があった。
エコールには男性の影はなく、大人の女性もごく数人しかいない。
学校の周囲は森と高い壁に閉ざされていて、外の世界と接する方法はなく、接することは許されていなかった。
もし、エコールを抜け出して森を出ようとしたら、厳しい罰か、あるいは死が下される。
夢と幻想が入り混じる空間、エコール。男性が描いたら夢世界だが、ルシール・アザリロヴィック監督は少女自身が感じている閉塞感や葛藤を物語りの中に盛り込んでいる。
女には“少女”と呼ばれる特別な時間がある。
大人の女でもなく、子供でもなく、一方でそのどちらでもある時期。
少女たちはどこからやってきて、どこへ去っていくのか。
女たちは、誰もがかつて少女であったが、女たち自身、少女であった記憶をどこに封印したのか知らない。
少女という神秘のヴェールは、少女にとっても至高のヴェールなのだ。
映画『エコール』は、少女たちが必ず通過するあの場所を、幻想的な空気を讃えて描き出す。
“少女時代”という幻想が現われるのは芸術の世界だけだ。覚醒した人間はその世界に足を踏み入れることはできず、手にすることもできない。少女という時間は、芸術の中で永遠に戯れる。
“エコール”が描き出す世界は、現実社会には存在しない、観念的な空間である。
現実の社会はあまりにも不浄で汚れ、少女が過ごす場所としてふさわしくない。
少女という時代は、少女自身の意識の中にもなく、現実世界から遠く突き放された幻想の中で、はじめて具体的な姿を浮かび上がらせる。
そこでは時の流れは永遠で、少女たちは夢幻に漂う時間の中を戯れている。
エコールの世界を探そうとしても決して見付からないし、掴もうとしても蜃気楼のように消えてしまう。
エコールが現れるのは芸術の中だけであり、エコールの世界が出現するのは、舞台の向こう側に漂う闇のなかだけである。
“エコール”がどんな世界であるのか、構造については曖昧な噂話として語られる。そしてその噂話には、いつも死に関わる恐ろしさが込められている。そんな空想も、自身の身体に女性としての自覚が生まれると共に、性的な景色を帯びるようになる。
子供の時代には、世界の欠落部分を空想で埋め合わせようとする。
子供にとって世界の大半は空想であり、夢を抱く場所であり、恐れを抱く場所である。
だが、いつの間にか世界は変容し、世界は空想するものではなく、目の前に直面する世界を“現実”として受け入れようとする。
そうして、気付けば子供時代は終了する。少女の時代も、気付けば終了している。
世界はやがて動きを止めて、意識は社会に服従し、肉体は性の愛撫を求めるようになる。
映画『エコール』は直接的な言葉では多くは語られない。沈黙した映像の中に、多くの隠喩が託されている。映像を止めて、少し考えてみるのもいいかもしれない。
少女の時代がいつ始まって、いつ終わったのか。
それは誰も知らない。
“エコール”
そこは、すべての女たちが通過した場所。
全ての女が忘れてしまった、幻想の世界。
映画記事一覧
作品データ
監督:ルシール・アザリロヴィック 原作:フランク・ヴェデキント
音楽:リチャード・クック 脚本:ルシール・アザリロヴィック
出演:ゾエ・オークレール ベランジェール・オーブルージュ
リア・ブライダロリ マリオン・コティヤール
エレーヌ・ドゥ・フジュロール
どこかで水の音が聞こえた。ぶくぶくと泡を作るときの音だ。
しばらく水の流れに、体を漂わせているような感触があった。
やがて水の音が聞こえなくなった。
次に聞こえてきたのは、静かな音楽だった。
周囲を、誰かが取り囲む。でも少女の体は箱の中に封じられて、外の世界が見えなかった。
間もなくして、誰かが箱の鍵を開けた。扉が開かれ、光が射し込んできた。
少女は目を見開いて、辺りを見回した。
そこは知らない場所で、知らない女の子たちが、少女を囲んで見下ろしていた。
「こんにちわ。あなたの名前は?」
年長者の女の子が膝をついて、訊ねた。
「イリス」
「私はビアンカ」
少女たちが集る秘密の空間……。もし男性監督が描いていたら、変に理屈っぽくなったり、自身の欲望が投影されて、その世界は変質していただろう(日本のアニメ、そんなんばっかりだけど)
深い森の向こう側。
そこに、“エコール”と呼ばれる閉ざされた学校があった。
エコールには男性の影はなく、大人の女性もごく数人しかいない。
学校の周囲は森と高い壁に閉ざされていて、外の世界と接する方法はなく、接することは許されていなかった。
もし、エコールを抜け出して森を出ようとしたら、厳しい罰か、あるいは死が下される。
夢と幻想が入り混じる空間、エコール。男性が描いたら夢世界だが、ルシール・アザリロヴィック監督は少女自身が感じている閉塞感や葛藤を物語りの中に盛り込んでいる。
女には“少女”と呼ばれる特別な時間がある。
大人の女でもなく、子供でもなく、一方でそのどちらでもある時期。
少女たちはどこからやってきて、どこへ去っていくのか。
女たちは、誰もがかつて少女であったが、女たち自身、少女であった記憶をどこに封印したのか知らない。
少女という神秘のヴェールは、少女にとっても至高のヴェールなのだ。
映画『エコール』は、少女たちが必ず通過するあの場所を、幻想的な空気を讃えて描き出す。
“少女時代”という幻想が現われるのは芸術の世界だけだ。覚醒した人間はその世界に足を踏み入れることはできず、手にすることもできない。少女という時間は、芸術の中で永遠に戯れる。
“エコール”が描き出す世界は、現実社会には存在しない、観念的な空間である。
現実の社会はあまりにも不浄で汚れ、少女が過ごす場所としてふさわしくない。
少女という時代は、少女自身の意識の中にもなく、現実世界から遠く突き放された幻想の中で、はじめて具体的な姿を浮かび上がらせる。
そこでは時の流れは永遠で、少女たちは夢幻に漂う時間の中を戯れている。
エコールの世界を探そうとしても決して見付からないし、掴もうとしても蜃気楼のように消えてしまう。
エコールが現れるのは芸術の中だけであり、エコールの世界が出現するのは、舞台の向こう側に漂う闇のなかだけである。
“エコール”がどんな世界であるのか、構造については曖昧な噂話として語られる。そしてその噂話には、いつも死に関わる恐ろしさが込められている。そんな空想も、自身の身体に女性としての自覚が生まれると共に、性的な景色を帯びるようになる。
子供の時代には、世界の欠落部分を空想で埋め合わせようとする。
子供にとって世界の大半は空想であり、夢を抱く場所であり、恐れを抱く場所である。
だが、いつの間にか世界は変容し、世界は空想するものではなく、目の前に直面する世界を“現実”として受け入れようとする。
そうして、気付けば子供時代は終了する。少女の時代も、気付けば終了している。
世界はやがて動きを止めて、意識は社会に服従し、肉体は性の愛撫を求めるようになる。
映画『エコール』は直接的な言葉では多くは語られない。沈黙した映像の中に、多くの隠喩が託されている。映像を止めて、少し考えてみるのもいいかもしれない。
少女の時代がいつ始まって、いつ終わったのか。
それは誰も知らない。
“エコール”
そこは、すべての女たちが通過した場所。
全ての女が忘れてしまった、幻想の世界。
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作品データ
監督:ルシール・アザリロヴィック 原作:フランク・ヴェデキント
音楽:リチャード・クック 脚本:ルシール・アザリロヴィック
出演:ゾエ・オークレール ベランジェール・オーブルージュ
リア・ブライダロリ マリオン・コティヤール
エレーヌ・ドゥ・フジュロール
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