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■2015/08/08 (Sat)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
3
若者は村を出ると、北西に進路を定めて進んだ。しばらく森を横切る小道を進んでいく。森は明るく、下草には可憐な花がぽつぽつと顔を見せ、鳥や虫の声が賑やかに満たしていた。
そんな森を半日で通り過ぎていくと、今度は広い野に出た。草原は明るい太陽の光を浴びて、穏やかな風にゆるやかな波を立てていた。
やがて日が暮れ始める。草の先に夕日の輝きを宿す。若者は西の彼方に沈む夕日を、静かに眺めた。1日目の終わりは、ナナカマドの足下で過ごした。
その後も旅は続いた……。
人が作った道は途切れてしまったが、若者は迷いなく北へと道を進めていく。どこまでも続く平原には魔の気配はなく、穏やかな風が常に巡り吹いていた。草原の草は夜明けには露を浮かべ、夕日には黄昏の光を浮かべた。
3日目の午後。空がにわかに黒い影を浮かばせ、湿り気を帯びた風が背後から迫ってくる。積乱雲が落雷の音を轟かせ始めた。雨が近いらしい。
若者は雨宿りできる場所はないかと周囲を見回した。右手に背の高い丘が立ち塞がっていた。その向こうに森が見えるが、森は異様に深く、不穏な影を漂わせている。あの森には入るべきではない。
暗さが増す前に、早く通り抜けるべきだろう。
間もなく雨粒が若者の背中を叩いた。風がざぁとさざめき始める。雷鳴が近くで轟いた。雨雲に捉えられてしまった。
その時だ。背後で獣の唸る声がした。邪悪な黒さを混じえたその叫びは、はっきりと若者に向けられ、捉えていた。
若者が振り返る。丘の先端、切り立った斜面のところにネフィリムが1匹立っていた。その姿はまだ遠く、小さな点だった。
今なら走って逃げられる。
若者はそう判断して走った。森からネフィリムが次々と飛び出してきた。不快な唸り声が幾重にも重なる。若者は振り返らず走った。
雨が次第に激しさを増していく。落雷が近くで落ちた。雨が礫となって若者に飛びかかってくる。
若者は、近くの森に飛び込んだ。清らかな明るい森だ。だがネフィリムも後を追いかけてきた。若者は全力で走ったが、ネフィリムはさらに俊足だった。森の只中、開けた場所に入ったところで追いつかれてしまった。
若者はただちに判断を変えて、荷物を捨てて剣を抜いた。ネフィリムが飛びかかってきた。刃こぼれした山刀を振り上げる。若者は刃をかわして、打ち返した。さらに斬りかかる。黒い血がぱっと飛び散った。
だがネフィリムの徒党に恐れは現れない。むしろ闘争心を燃やし、飛び交う血に興奮したように唸り声を上げる。
ネフィリムたちが次々と襲いかかった。刃で、爪で、若者に斬りかかる。若者も攻撃した。ネフィリムたちを1匹、2匹と斬り伏せる。だが次第に劣勢になり、少しずつその身が刻まれていく。
ついに若者が膝を着いた。ネフィリムが歓喜の叫びを上げて、若者を追い詰める。若者は闘士を失わず、膝を着いたままの体勢で剣をネフィリムに向けた。
その時――、
少女の声
「伏せて!」
歌うような声が辺りに木霊した。怪物たちがそのあまりの清らかな声に動揺を浮かべる。
若者は草むらに飛び込んだ。
間一髪。電撃が広場を駆け抜けた。ネフィリムたちは一瞬にして高温高熱で焼かれ、その手から武器がこぼれた。広場に獣たちの悲鳴が交差した。
若者は再び飛び出した。電光石火で剣を走らせる。2匹のネフィリムの腕を落とし、次の1匹の首を落とした。最後の1匹には胸に深く剣を突き刺した。
戦いは終わった。広場は一転して静寂に包まれた。美しい広場に似つかわしくない醜悪な死体が転がっていた。真っ黒な血が草花を穢している。だが、雲の間から射し込んだ光が、穢れを浄化するようだった。急な雨は、降り出した時のように勢いを失い、今や緩やかな雨粒に変わっている。風が広場に清涼な空気を取り戻すようだった。
若者は剣に付いた血を払うと、鞘に収める。戦いの興奮が、まだ胸に留まっていた。不意に緊張が解けて、膝を着いた。負傷は思いのほか重かった。
森の奥から、歌声が聞こえてきた。歌声は美しく、優しく、若者に不思議な安堵を与え、活力を取り戻させた。
やがて体力を取り戻した若者は、森の中へと入っていく。歌声はずっと続いていた。まるで子守歌のように優しく、聖女のように清く、歌声は若者の心と体に癒やしを与え、その内にも体の怪我すら忘れさせてしまった。
目の前の茂みを越えると、大木が森の只中に横たわっていた。その上に、深い緑のフードを被った女が背中を向けて、座っていた。
歌声がやんだ。
×××
「助かりました」
女がフードを外すと、大木のこちら側へぴょんと飛び降りた。
少女だった。
少女
「いいえ、危ないところでしたね」
×××
「…………」
少女
「どうなさいました?」
×××
「バン・シーと思ったものですから」
そこに現れたのはうら若き乙女であった。その容姿はあどけなさをくっきりと残し、肌は雪のように白く、鮮やかな金髪がくっきりと映えるようだった。少し雨に濡れて、金髪が白い肌に貼り付いていた。
少女は、あたかも不浄を知らず、一切の汚れを受け付けない……そんな清らかさを感じさせるもがあった。
その少女が、いかにも年頃の娘らしく微笑みを浮かべた。
少女
「構いませんよ。バン・シーとお呼びください。エルフと呼ぶならば、道に迷わせていたところです。人は呼ばれた通りのものですから」
×××
「ならば、天使とお呼びしましょう」
少女
「よろしいのですか。冥界に連れて行ってしまいますよ」
×××
「それはいけない」
少女がころころと笑う。
しかしお世辞ではなく美しい少女だった。その容姿といい、身にまとう穏やかと格調高き品性といい、天使の名前であればこそ相応しいと感じた。
少女
「あなたの名前をお聞かせください」
×××
「申し訳ない。実は名前を魔物に奪われ、名乗るべき名がないのです」
少女
「それは確かですか」
×××
「偽りありません。そのために、大パンテオンに向かうところでした」
少女
「……少し顔を……」
少女は若者に近付き、その顔をじっと眺めた。
それから、少し思案するようにうつむく。
少女
「これは……」
×××
「なにか?」
少女
「事情はわかりました。旅を急いだほうがいいでしょう。大パンテオンへは、私が案内します」
×××
「感謝します。あなたの名前は? ぜひ心に留めておきたい」
少女
「今は名乗らないでおきましょう。不公平ですものね」
と少女は悪戯っ子のように微笑んだ。
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