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■2013/12/02 (Mon)
なぜ『かぐや姫の物語』なのか。
原作『竹取物語』の物語は古く、『日本書紀』や『万葉集』に並ぶくらいの歴史を持っている。由緒正しき古典であり、日本人なら誰もが知っている物語でありながら、しかし謎めいた部分も多い。たけのこから生まれたお姫様がなぜ月を古里に帰ってしまうのか。なぜ高貴な身分の男たちが求婚しても、無理難題を突きつけて断ってしまったのか。原典には登場人物の感情がごっそり抜け落ちて、ただただ不思議な現象だけが次々に起きて、物語は終わってしまう。
奇妙な物語だが、近代的な解釈による改竄を許さないプロットの強さを持っており、ゆえに現代まで形を変えることもなく、全ての時代を通じて日本人は『竹取物語』の物語を受け入れ受け継いできた(過去に当時の都市伝説的な説話と結びついて、UFOがかぐや姫を迎えに来る映画が作られたことはあるが)
そんな古い物語をなぜ今の時代に映画化しようと思ったのか。この感情が抜け落ちた物語のどこに映画的な情緒【カタルシス】があるというのか――。『かぐや姫の物語』の「なぜ?」を問うとき、この疑問に向き合わなくてはならなくなるだろう。

映像は見ての通り余白が多い。線は大らかな柔らかい線で描かれており、通常のアニメのように正確な線で繋げられていない。
高畑勲監督は「仕方ないからあのように描いていた」と語る。アニメの絵は、なぜアニメ特有の絵になるのか。それは制作上の“都合”によるものが大きい。アニメの絵は“あのように描こうとしてああなった”のではなく、“結果的にそうなってしまった”が本当である。
だから高畑勲監督はアニメの絵に、本来そうであるはずだった絵画の性質を取り戻そうとした。制作の都合上、システマチックに構築されたアニメはすでにあまりにも高度な世界に達しており、アニメにさほど詳しくない人の目には「全てCGで作られている」と思われるようになってしまった。人の手で一枚一枚描かれている、ということを知っている人は少なく、アニメは人の手で描いているということがわからないという域に達している。
高畑勲監督の試みは、アニメからアニメを取り除くことから始めた。仕上げの線は先端を丸くした鉛筆を使い、ざらつきがはっきり出るように描かれた。色彩は水彩絵の具風で、ムラや塗り残しを敢えて作る。背景も鉛筆の線を中心に水彩絵の具でさらっと塗って仕上げた。こうして作られた映像は、背景とキャラクターの境界を限りなく曖昧にして、カットが一枚の絵として自立した力強さを持つようになった。アニメの制作方法をうまく利用しながら、仕上がりは“アニメ”ではなく、「動く水彩画」として映像を完成させたのだ。

従来のアニメの技法を使いながら仕上がりはアニメを目指さない。ゆえにこの作品特有の表現も多い。例えば発光処理だ。
冒頭の光る竹が登場する場面。光の表現を放射状に取り囲む線で表現されている。
非常に漫画的。普通の絵描きなら、色彩で光を表現する。画面のコントラストを強くして、光の存在を描こうとする。しかし『かぐや姫の物語』では従来的なセオリーを否定して、まるで子供が描く絵のように、光の放射を実線で描いた。絵描きの世界ではあり得ない“幼稚な方法”がここでは敢えて使われている。

演出は空間を表現する場合には正面を、移動感を示す場合には横の構図が使われている。
その場にある空間的なディテールを表現したい場合には対象を正面から捉えて、密度の高さを伝えようとする。
一方、移動は必ず横構図だ。横構図の移動が描かれるとき、背景は一気に削ぎ落とされ、移動する場所のみが描かれる。
単に構図からディテールを取り去り、シンプルに画面を見せる、というだけではなく、構図の流れを誰の目ににも明らかなように作られている。
光源処理が放射状の点と線で描かれるように、構図の作りも誰の目にも明らかなように、ある意味で“幼稚な描き方”をあえて取り入れることで、絵画にプリミティブな性質を与えている。

映画は作家的な芸術性以上に、学術的な視点が追求されているように思える。例えば、かぐや姫が育った環境だ。竹取の翁の生活……「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」の具体的な部分を描写している。具体的に何をどのように作ったのか、が具体的に描かれている。竹を切る場面でも、道具の一つ一つが細かく描写されている。従来の絵本や映画で描かれたような、鉈一本で仕事していたのではなく、様々な道具を使い、どのように竹を切っていたか、というところまでびっしりと描いている。
翁と媼の暮らしだけではなく、周囲に住んでいる一家の描写も詳しい。捨丸一家がお椀を作り売るまでの描写を、まるで職人仕事のドキュメンタリーのように丹念に描いている。
当時の子供たちが何で遊んでいた、どんな仕事をしていたのかも詳しい。森に入ってその晩に食べる総菜を集めたり、葡萄の実を食べたり。キジを捕まえる一連の場面は、キャラクターの動き、周囲の自然の風景を含めて見事な描写だった。
そうした“学術的な目線”は都に入ってからより凄まじい力を持ち始める。当時の貴族の暮らしはどんなものであったのか。どんな家に住み、どんな衣装を着て、どんなしきたりがあったのか。名付けの儀式や、宴会の場面。一つ一つが詳しく、ディテールが徹底されている。
現代的な目線で、現代的な考え方で当時を捉えるのではなく、どこまでも学術的な目線で『竹取物語』の主舞台であると思われる平安時代の習俗を描き込んでいる。
絵には余白が多いが、その向こうに注ぎ込まれているものは非常に大きい。ディテールにこだわった映画は、画面を目一杯の密度で満たしてしまう。見る時は作ったディテールの10%が伝わればいい。捉えきれない90%が画面の迫力となって力を持つ、と考えられている。『かぐや姫の物語』は同じように学術的な目線を徹底させているが、この捉えきれない90%のところを思い切って削ぎ落として余白にしてしまう。しかし描写が的確だからこそ、余白にこそ圧倒させるディテールの密度が感じられるように作られている。この発想の転換は素晴らしい。

線の描き方は従来のアニメと違うアプローチが試みられている。従来のアニメ表現で体や顔が動かず口だけが動く場合、体は1枚の止め絵、口パクだけが3枚程度で描かれる。
しかし『かぐや姫の物語』は部分的に動く、という方法は使われていない。動く必要のない場面でも、わざわざ書き起こされ、線のブレが表現されている。動きを失ったイラストレーションになりつつ日本のアニメに対する批評のように、線がブレ、動きが与えられている。
線の動きに演出的な効果が与えられる場合がある。キャラクターの感情と線の動きが一体となって動き出す瞬間がしばしばある。かぐや姫に動揺や恐れが現れる場合、線にかすれやざらつきが大きく現れる。一方、落ち着いた心情や解放感を表す瞬間には線は美しく描かれる。線と感情が一体となっているので、シーンによってかぐや姫の顔や姿が、まるで別人のように描かれることさえある。キャラクターの動きや構図の作り方だけではなく、画面を構築する線そのものが感情を描写する一つの手法として使われている。
線のブレが最大になる瞬間は、予告編でも使われたかぐや姫が服を脱ぎ捨てながら都を飛び出すあの瞬間だ。線がかぐや姫の感情と一体となって激しくブレ、意味のない線が現れ、背景の線も一緒になって崩れ、ついにはかぐや姫は木炭の像になってしまう……。かぐや姫の葛藤が最大になった瞬間だ。
従来のアニメのように、線が機械のように硬直したものではなく、映画が持っている感情と一体となって描写され躍動するように意識されている。

映画『かぐや姫の物語』は私たちが知っている『竹取物語』をそのまま映画化したものだ。原作の記述を忠実に映像化している。
映画にする限りは、「映画的な修正と改竄」は必ず必要である。恋愛にアクション、VFX……映画的な見せ場がなければエンターテインメントとして成立しない。そう考えられている。最近のハリウッド映画では童話が次々と映像化されているが、どの作品を見ても最後にはヒロインが武器を手にして怪物の大軍と戦うストーリーになっている(私の大嫌いなパターンだ)。これも現代の観客の感性に合わせた修正と改竄だ。
しかし『かぐや姫の物語』は驚くほど原作に忠実だ。原作に書かれているとおりにかぐや姫は4人の男性からの求婚を断り、帝を拒絶して最後には月に帰ってしまう。「現代的なストーリー」というよりは、当時の風俗や習慣を徹底的に調査した上で、「当時の人達が感じていたストーリー」をそのまま再現することを務めている。こうした点でも“学術的な視点”の作品といえる。
原作に登場しない唯一のオリジナルキャラクターとして捨丸が登場するが、これはかぐや姫の子供時代、少女時代の体験を肉付けするために必要なキャラクターだし、捨丸との交流があったからこそ、その後の疑問すら氷解させる。「かぐや姫はなぜ求婚を拒絶したのか?」「なぜ月に帰らなければならなかったのか」。捨丸との生活に理想を見出していたかぐや姫が宮廷での生活に倦んで、精神的に追い詰められ、そこからの最終的な逃避として月へと帰ってしまう。いや、“月に帰る”ではなく、“月が迎えに来る”というほうが正しい。かぐや姫の月への帰還は、自ら望んだものではなく、“思いがけず強制的に”というべきものだ。
そうしたかぐや姫の心情の流れを、捨丸という存在がいるからこそ説得力あるものにしている。捨丸との森での暮らしがあったからこそ、かぐや姫が宮廷での生活に不満をためて、男たちの求婚を拒絶するというストーリーに説得力を加えている。捨丸が『かぐや姫の物語』の全体に特別な力を与えているのだ。
原作を飛躍させる捨丸は学術的なものではなく、作家的な改竄というべきものかも知れない。しかし捨丸がいるお陰で、原作中の不可解な部分に光が当てられる。原作中に削ぎ落とされたそれぞれの登場人物の感情を、克明なものとして浮き上がらせる。捨丸は作家的な産物だが、翻って学術的な視点を持って物語に“理由”を与えている。これはもはや、高畑勲監督による『新説・竹取物語』と呼ぶべき内容になっている。

これは喪失の物語である。
かぐや姫が受けた罪と罰とは何であるか。「罰」という言葉は原典『竹取物語』にも出てくるが、何を指しているかは判然としない。映画中でも「罪と罰」についてあまり詳しく掘り下げられておらず、映画本編よりパンフレットに書かれた企画原案のほうが詳しい。
もしも『竹取物語』のストーリーに、『天女の羽衣』が前編としてあったら……。というこれは、高畑勲監督個人の空想ではなく、実際に『竹取物語』と『天女の羽衣』が関連を持ったストーリーであるという学説が存在する。かぐや姫は天女の物語を知り、地上への好奇心を抱いて、天女の記憶を再生させた。天女が地上にいた頃の“幸福”だった気持ちを再生させてしまった。この“幸福”こそが、最大最悪の“苦痛”だったのだ。その苦痛を与えてしまった“罰”として、かぐや姫は地上に降ろされたのだ。
こうして、翁に拾われて『竹取物語』の物語が始まる。
地上に降ろされ、子供から人生を始めることになったかぐや姫は、自分の足で立って歩くという喜びを、言葉を発してコミュニケーションを取るという喜びを体験する。ご飯を食べて美味しい。人と接して嬉しい。野を駆け回って楽しい。どれも不老不死が約束される天上界では決して得られない感情だった。
この幸福は周囲にいる媼や翁にも伝播して、「立った!」「歩いた!」「喋った!」と些細な一つ一つに喜びを与える。それだけではなく、かぐや姫の生命力は周りのものに作用して、年老いた媼に乳を出させてしまう。
周りの誰もが幸福になり、本人も幸福を隠そうとしない。しかし間もなくこの幸福が違うものへと狂わせようとしてしまう。
はじめに道を違えたのは翁だった。かぐや姫が現れて間もなく、金が一杯に詰まった竹が現れるようになった。さらに綺麗な反物が詰まった竹も。
翁は考える。これはきっと、かぐや姫によりより生活をさせよ、相応しい場所で相応しい男性を与えよという神からのメッセージに違いない。翁は得た金で宮廷の暮らしを獲得するが、以降は宮廷での地位や立場ばかりに固執する老人になってしまう。かぐや姫自身の幸福ではなく、地位や名誉に幸福を見出そうとする(もっとも、それでも愛らしい老人として描かれている)
宮廷の生活が始まってからは、かぐや姫が持っている魔力は、負の力を持って周囲に作用する。都の男たちはみんなこぞってかぐや姫を一目見ようと思うし、恋文が大量に届くし、さらには求婚を申し出るものが後を絶たない。そうした生活がかぐや姫を追い込んでいくし、そういった生活から逃れようと拒絶するうちに周りの人達に次々と不幸が降りかかってしまう。求婚を申し出た男たちは破産し、失脚し、ついには死者が出てしまった。そうすると翁や媼の(貴族階級の暮らしの中での)立場が悪くなってしまう。かぐや姫自身もすっかり“偉い人”と思われるようになって、周りの人達が恐れて避けられるようになってしまう。
かぐや姫は宮廷での生活がついに我慢できず、あの森へと逃亡するが、自分たちが暮らした家はすでに見知らぬ一家が住んでいるし、捨丸一家は森を去ってしまっていた。捨丸の家があった周辺は、深い森に飲み込まれて跡すら残っていなかった。ただうらぶれた空気が辺りを満たすだけである。
その後、かぐや姫が再び捨丸を目撃するのは、盗人としての生活をしているところである。
エデンの追放。楽園の崩壊。一度楽園を去った者は、どんなに願っても楽園を手にすることはできない。それは過去だからだ。
かぐや姫が持っている無限の愛らしさは、周りの者達に過剰な幸福感を与え、それがある時に刺となって突き刺さり始める。幸福だった感情は、後半に入り不幸に反転し始める。
その後もかぐや姫は森での暮らしを想い続ける。森で暮らしていた頃の思い出を、どこかで追い続ける。森での暮らしは夢想の中で、理想となって輝き始める。
物語の最後、かぐや姫は捨丸と飛翔する夢を見る。飛翔は深層心理学的にいえば性的な感覚を意味するが、この作品が指向したのはもっと原初的な“解放”の感情だ。野を駆け回り、冷たい、熱いと些細なことで笑ったり大騒ぎしたりする、根源的で動物的な感情の回復。動物性の回帰。それを象徴し、最大限に表現したものがあの飛翔なのだ。そしてその飛翔はただの夢に過ぎず、はっと気付いた時にはどこかに遠ざかって消えてしまう。所詮は夢……眠っているときに見る願望に過ぎなかった。
こうしてかぐや姫は月へと帰ってしまう。“幸福”という感情を知る罰が終わったから。月への帰還は、最後の罰だった。強制的な月への帰還により、後に“心残り”が残るからだ。幸福な思い出や、この心残りを含めた全てが“苦痛”として跳ね返ってくる。これが天界がかぐや姫に与えた“罰”の全体だった。そして、幸福を得て周りに幸福を与えたことが、かぐや姫にとっての罪だった。

なぜ今の時代に『竹取物語』を映画にしたのか。『竹取物語』は映画になりうる題材なのか。
その疑問に、映画全体が回答を示してくれた。『かぐや姫の物語』には映画的な情緒で満たされている。しかも、映画は古典に「現代的な視点」をほとんど与えていない。今時な恋愛やアクションVFXは完全に拒否し、むしろ学術的な視点を徹底させて平安時代の暮らしを再現させている(ひょっとして最後はUFOが迎えに来る話か……と思ったがもちろんそういう展開もなし。現代的な視点を拒否し、古典に寄り添ったストーリーでありながら、『かぐや姫の物語』はどこまでも映画的で、映画的な感情を満たしている。映画になっているのだ。
高畑勲監督は古典『竹取物語』をより強い感情を持った物語として再生させた。『かぐや姫の物語』と接すると、よりビビッドな印象として、日本人の意識に『竹取物語』が強く刻印されることだろう。

感想補足


作品データ
監督:高畑勲 原作:『竹取物語』作者不明
脚本:坂口理子 作画監督・人物造形:田辺修 作画監督:小西賢一
美術:男鹿和雄 塗・模様作画:斎藤昌哉 色指定:垣田由紀子
撮影監督:中村圭介 CG:中島智成 音楽:久石譲
製作:氏家齋一郎 企画:鈴木敏夫
アニメーション製作:スタジオジブリ
出演:朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子
    高畑淳子 田畑智子 立川志の輔 上川隆也
    伊集院光 宇崎竜童 中村七之介 橋爪功

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